第六話 忠義の刃
かつて山道で梓の命を狙った男が、
家康の使者として登城した。
梓と顔を合わせても、顔色ひとつ変えぬ。
そして、義経へと冷たく問う。
「……徳川になされたように、攻め込まれてはいかがですかな」
「家康様より、火急の使者が参りました」
大田牛一が義経の元に参上した。
「評定の間にお通しせよ」
「かしこまりました」
牛一は急ぎ退出する。
「東国にて、何かあったのやも知れぬな……」
義経は目を通していた書から目を離す。
武田梓は下を向いたままだった。
富士川で対峙した際に、梓は武田家内の事情を目の当たりにした。
父・勝頼の置かれている立場も、身をもって知った。
家康からの火急の使者と聞き、平静ではいられなかった。
「ともに参らぬか、梓」
その様子を見た義経が梓に声をかけた。
「……はい」
梓も手にしていた書を置き、義経の後を追った。
評定の間では、本多正信が目を閉じていた。
その様子を、大田牛一が静かに眺めている。
義経と梓が入って来る足音を聞き、正信は薄く目を開けた。
目線は義経や梓を追う事なく、そのまま平伏した。
「徳川軍団長の名代として急ぎ、まかりこしました」
「面をあげよ」
正信はゆっくりと顔を上げる。
――梓はよく覚えていた。
忘れたくても忘れられない顔だ。
正信も梓に視線を流す。
しかし表情を変えずに、すぐに義経へと向き直った。
「友軍・北条家が由々しき事態となりました。
対織田連合解消とともに、佐竹、伊達が動き出し、武田にも不穏な動きがござる。
義経様より、北条への援軍のご裁可を賜りたく」
正信は深く頭を下げる。
義経は訝しげに正信を見ていた。
「……武田に不穏な動きとは、戯言では無かろうな」
義経は努めて声を抑え、正信に問うた。
「おそれながら、武田とは長らく敵対しておりましたゆえ、我らが間者も多くおりますれば」
正信は淡々と答える。
そして、梓へと眼差しを移した。
「梓様が武田の姫であらせられたことは、無論存じ上げております」
梓を気遣う言葉とは裏腹に、梓は正信の眼差しに寒気を覚えた。
自らの首を狙っていた事に、全く頓着していない眼光は梓の背筋を冷やした。
正信は再び義経に向き直り、続けた。
「大軍を川越に駐屯させることで、他国の動きを牽制するのが狙い。
大事に至らぬよう、最善を尽くす所存」
「良かろう。
家康殿には面倒をかける」
「はっ!ありがとうございまする」
正信は平伏する。
義経は正信に近づく。
「ところで、そなたの名は何と申す」
「本多正信、と申すもの。
義経様のお時間を煩わせるようなものではございませぬ」
義経は牛一を見やった。
牛一はそっと頷いた。
「では、正信。
一つだけ聞きたい。
武田が攻めの手を止めぬ時は、いかがいたすつもりじゃ」
「家康様がどのようにご判断されるかは、拙者にはわかりかねます」
正信は顔をあげ、義経の目を覗き込む。
「逆にお示しいただけませぬか、義経様。
そのような事態とならば、北条のために武田を追い払いますか。
それとも、武田の手助けをして、北条を討ち果たしまするか。
まさか――逃げ帰れと仰せにはならぬでしょう」
「なに……!」
義経の息に怒気が混ざる。
それでも正信は顔色ひとつ変えず、続ける。
「それこそ、義経様より、家康様にお伝えすべきことかと存ずる」
正信はわざとらしく平伏した。
「はじめから明らかではないか、正信殿」
これまで黙していた梓が声を上げた。
「武田を攻撃するしか無かろう。
それを知りながら、義経様を試されているのであれば、誠に無礼な輩」
梓が立ち上がった。
「我が軍団が川越に駐屯をすれば、北条は安心して伊達と佐竹に兵を向けるであろう。
さすれば、武田との国境は自ずと我らが守らねばならぬ」
梓は正信を見下ろす。
「それとも――はじめから武田を討つつもりか」
平伏していた正信は顔を上げた。
「滅相もございませぬ」
無表情だった正信の顔に、ほんの僅か目を細める色が浮かんだ。
「梓様の慧眼、恐れ入りました。
私如きでは思いもよらぬお話」
わずかに目線を落とす。
「伊達も佐竹を威嚇して退かせる。
武田も友軍の我らの軍旗を見れば、手を出せぬかと。
――その一心で愚行した次第。
臣従して日にちも浅いゆえ、お恥ずかしい限りでござる」
正信の目元の色が、すうと消える。
「しかし義経様。
惣無事令への道筋を考えるならば、不義理な武家を接収することもお考えにはなりませぬか」
義経の耳元が赤くなるが、正信は冷たい眼差しを義経に浴びせる。
「もしくは――
我ら徳川になされたように、攻め込まれてはいかがですかな」
拳が震える義経をみて、梓は義経に囁いた。
「義経様……」
義経は梓の言葉を耳にして、小さく頷く。
身体の中の怒気を吐き出すように、大きく息を吐いた。
正信の表情は、変わらない。
腰を落ち着け、義経は静かに口を開く。
「正信と申したな……
家康殿にお伝えせよ。
万事お任せする、それだけで良い」
「はっ!」
正信は深く頭を下げたのち、足早に評定の間を後にした。
義経は口を一文字に結んでいた。
正信の足音が消えたところで、牛一に問いかけた。
「牛一殿、先の世では、正信とご一緒だったか」
「はい……正信は、家康様の腹心中の腹心。
徳川軍一の策士として、家康様も随分と頼られておりました」
義経は、ふん、と吐き捨てるように息を吐いた。
「そうであろう……
恍けた事を申しておったが、梓の言う通りであろう。
何もかも計算ずくの男よ、あの者は」
牛一が静かに頷く。
「まさに……
家康様は川越に布陣とまで、細かいことは指示されませぬ。
全ては、正信の具申かと思われます……」
「そうであって欲しいものよ」
梓が力なく義経に言葉を投げる。
「家康様にお任せして……大丈夫でしょうか……」
義経は梓の手に、自らの手を軽く添える。
「正信とやらに何かを話したところで、無駄であろう。
家康殿であれば、最善の選択をしてくれるはずじゃ……」
「そう言うお考え、でしたか……」
義経は梓の含みを感じ取った。
「何かあるのか、梓」
梓は一息ついて、慎重に選んだ言葉を口に出した。
「あの者は……駿府に向かう山道にて、伏兵を率いておりました。
私の首を狙い、里様に深傷を負わせたもの……」
「何……!」
梓は義経の怒りが噴き出る前に、慌てて口を開いた。
「申し上げたかったのは……!
……その事ではございませぬ。
私たちが、勝手に攻めたのですから。
致し方なき事」
整理のつかない義経は、顔を顰めたままだった。
「そのような事がありながら――
私に平然と目を向けていたのです。
何やら恐ろしきものを、感じておりました……」
梓の眼差しは、わずかに揺れていた。
義経は牛一に顔を向ける。
「その策士とやらは、どのようなものであった」
「正信という男は、家康様に絶対の忠誠を尽くすもの。
同時に、家康様の行手を阻むものは、眉一つ動かさず排除できる男……
駿府の戦いでは、敵の総大将の弱点……つまり、梓様に狙いを定めていたのでしょう」
「拙者には――
敵意を持っていたようじゃな」
「おそれながら……」
牛一は俯き、否定しなかった。
義経は、眉間に手を当て、しばらく目を閉じた。
牛一も梓も、静かに、義経の言葉を待った。
「いずれにせよ、武田に動かれてはどうにもならぬ。
梓……勝頼殿に使者を出すとともに、梓からの書も届けよ」
「かしこまりました……」
「牛一殿……何か良き考えは無いか……」
牛一も沈痛な面持ちのまま、義経に向き直った。
「今は家康様にお任せするのが、某も最善と心得ます……」
牛一の言葉の歯切れが悪い。
義経はその様子に何かを感じた。
「……何か、あるのか……」
「実は――毛利の動きも気になっており、西も目が離せぬかと……」
義経は何も答えなかった。
ただ、扇を握る手の指が、白くなるほどに力が込められていた。
視線は畳の一点に落ち、そこから動かない。
梓が、義経様、と声をかけようとしたその時。
義経の口の端が、ゆっくりと上がった。
お読みいただきありがとうございました。
揺れる義経と、必死に支える梓。
その二人にに冷たい目線を浴びせる正信。
頼朝という重石が無くなり、いよいよ歪みが耳に入る音となりました。
歪みは、軍団の内外に、そして義経の心にも……
この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。




