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第五話 駿府の闇

夜の駿府城。


頼朝が逝き、織田が消え、反織田の連合は瓦解した。

旧領に戻された家康の前に、一人の男が静かに座していた。


「それこそ好機……」


顔色一つ変えずに呟く、その細い瞳の奥――。

挿絵(By みてみん)


「いよいよ北条が窮地ですな……」


沈んだ小声ではあるものの、相手の耳を無駄なく捉える。

表情を全く動かさないが、細い瞳の奥から相手を見据える眼差しは、眼光を発しているかのように鋭い。

自らの心の底を決して覗かせない、威圧さえ感じられる目線であった。


「北か、友軍か……」


「甲相越の連合消失を見越した、北の佐竹、伊達は言うに及ばず。

予想通り、武田にも動きがありまする」


「残念だが……正信が申すのであれば、間違いはあるまい」


家康はため息をつきながら、本多正信の言葉に耳を傾けていた。


一度は家康を離反した男を重用し、多くの家臣の反発を生んだ。

しかし家康は、正信が三河一向一揆の折に敵対した過去を承知の上で、その智謀を手放さなかった。

正信の言を軽んじる事は、ただの一度も無かった。


「こうも容易く瓦解するものか……」


家康は人目を憚らず、何度もため息をつく。


「頼朝がこれほどにも早く死ぬことが分かっておれば、別のやり方もありましたな」


正信の眼光が強くなる。


「やめよ、正信。

もっと早く頼朝殿と話をすべきであった……わしは心底思うておる」


正信は顔色一つ変えずに、家康を見ている。

家康は目線をそらし、言葉を漏らす。


「武田も動くとなれば、面倒じゃな……」


「それこそ好機。

武田領を容易く”わが軍団”に組み込めましょう」


挿絵(By みてみん)


その言葉に家康は正信を見返した。


一瞬、家康の目に何かが過った。

家康の中で何かが交錯した。


しかし、家康は笑みを浮かべて正信に言葉を返す。


「正信……武田を滅ぼすとも、わが軍団の領とはせぬ。

すべては義経様のご意向次第。


心得よ、正信」


「御意」


正信は、表情を変えずにすぐに従う。


家康は、正信の言葉に重きを置く。

正信は、家康が一度命じたことには忠実に従う。

本意はわからない。


しかし、それが家康と正信の関係だった。


「いずれにせよ、我らは義経様の名代として動く。

その線で何か策は無いか、正信」


「では」


先ほどの具申と異なる策を、すぐに机上に載せる正信。

関八州と甲州の地図を家康の前に開く。


「北条家援軍の名目で、川越まで兵を出しまする。

武田が上野から南下、もしくは三増峠を越えても、むやみに動けませぬ。

北条は、伊達と佐竹との前線に兵を送れます。


わが軍が睨みをきかせれば、どこもうかつには動けないでしょう」


ここで、正信の眼差しが不気味に光る。


「それでも、攻めてくるものがあらば……」


家康は手をあげ、正信の言葉を止めた。


「……正信、もう良い」


家康は先ほどとは異なるため息をついた。


「そなたは、わしのことが良く見えておる。

だが、わしの心の底の揺らぎを目にしたところで、意味の無き事。


時とともに、わしの揺らぎは消える。

わきまえよ」


「御意」


何事も無かったように頭を下げる正信。

家康は気だるそうに腰を上げ、身体を伸ばした。


「わしは、直接小田原にて氏政と会う。

正信は、義経様に、今わしに話したことを伝えて参れ」


「御意」


ひとたび頭を下げたが、正信は顔を上げた。


「家康様、拙者でよろしいので……

義経様の奥方を追いつめ、姪の里様には大けがをおわせました。

奥方は、拙者の顔を覚えておるやもしれませぬが」


正信は、山間を駿府に進む頼朝軍・武田梓の首を狙った決死隊を率いていた。

家康はその事を失念していた。


「そうであったな……

だが、忠次もまだ怪我が治らぬ。


義経様への説明は、正信しかできぬ……」


「御意」


正信は静かに退出した。


挿絵(By みてみん)




しばらく家康は、駿府の夜の闇の中、一つの灯を頼りに書に目を通していた。

しかし、別の思いに引きずられ、目はただ文字を追っていた。


そこに、他の者に聞こえない程の小さな音が、家康の耳に入る。


「……入れ」


家康が声を抑えてささやくと、部屋の横の小さな板が開く。

音も無く一人の男が家康の傍に現れる。


挿絵(By みてみん)


「何かわかったか」


「甲斐の善光寺に門徒や聖として入り込んでいるもよう。

武田の重臣との接触もみられます」


家康が厳しい眼差しをその男に向ける。


「半蔵、それは誠か……!」


「武田の忍びは我々を警戒しており、深くは入り込めませぬが、正信殿の手下の動きは見えております」


家康は目にしていた書を置いた。


「正信のわしへの忠義に疑いは無い。

一向宗徒を使い、武田や北条の事情も常に目を光らせてくれておる。


ただ――

多くの家臣同様、いまだ頼朝殿や義経様には服従しておらぬ……」


服部半蔵は、顔を下に向けたまま、身動き一つしない。


「目を離すな、良いな」


「かしこまりました」


「北条の風魔のもの達の動きは……」


「武田の忍びが動きだしたのか、風魔も目まぐるしく動いている模様」


家康は、また、ため息をついた。


「武田も動くか……」


しばし、家康は動かなかった。

半蔵も、無言で待つ。


やがて、家康の目が大きく見開かれた。


「まさか……正信か……!」


挿絵(By みてみん)


「そこまでは……分かりかねます」


「京へ向かう正信の従者の中に、忍びを入れよ。

善光寺の勧進聖にも忍びを入れられぬか」


「やってみましょう」


家康が手を軽く上げると、半蔵は音も無く消えた。



部屋の灯は、家康の顔の半面だけ薄く照らしていた。

家康は部屋の暗がりに目を移し、一人呟いた。


「頼朝殿……申されていた通りであった。

間違いなく、頼朝殿は、酷い兄でござる……」


ゆっくりと立ち上がり、自らも、夜の闇の中に歩みを進めた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


駿府の夜。

頼朝の遺命を継ぐ家康と、家康の腹を最も深く読む男・本多正信。


二人が動かす策略は、義経の知らぬところで、すでに渦を巻き始めています。


家康の心の底で交錯したものは、何だったのか。

正信が描く絵図の先に、何が待つのか。


「頼朝殿は、酷い兄でござる――」


闇の中の家康の呟きが、これから何を引き寄せていくのか。


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。


雪は降り止んでも、山々を覆う白は、まだ消えません。

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