第六十話 猫と魔王
諦めずに、毛利水軍へ挑み続ける赤井輝子。
そこへ――
鈴木重秀を救った、黒い軍船が現れる。
旗印は、白地に笹竜胆。
いったい、何が起きたのか。
土佐は――干上がっているかもしれない。
誰も、それを口にしなかった。
堺から運び込まれた鉄の鎧と盾で、いくらかは毛利水軍と渡り合えるようになった。
それでも、淡路には至らない。
「いくよ、みんな!」
赤井輝子は暁の空を睨み、再び淡路へ向けて船を出した。
新しい策があるわけでも、新しい武器があるわけでもない。
ただ、途切れることなく、船と兵と物資が岸和田へ運び込まれてくる。
鉄砲が増えた。
船も、鋼の盾も増えた。
しかし、柳生の損耗は激しい。
輝子をはじめ、指揮官たちも例外なく傷を負っていた。
「諦めるわけには、いかないんだよ……!」
輝子が、静かに待ち構える毛利水軍へ采配を向ける。
源氏の船が動いたのを見たのか、毛利がわずかに動いた。
大きくは動かない。
船上の軍旗が、微かに揺れる程度であった。
「ふん!
こっちがどう出ようと、余裕だとでも言いたげだね。
海の王様気取りかい!」
輝子が吼える。
だが義興も鶴も、言葉なく敵を見据えていた。
戦いながら、活路を見いだすしかない。
毛利水軍を捕捉しようとした、その時。
敵の動きが、乱れたように見えた。
「輝子様!」
大祝鶴が、南から迫る黒い船団を指さす。
「いつの間に……!」
源氏に軍船はない。
それを知る輝子は、新たな敵影と見た。
奥歯を、強く噛みしめる。
そこへ、義興が声を上げた。
「いや……旗をよく見られよ、輝子殿。
白地に、笹竜胆じゃ!」
次の瞬間、毛利水軍が二つに分かれた。
南から迫る船団へも、向かっていく。
散開しながら、焙烙火矢を放った。
火は、確かにその船団を捉えている。
だが――。
黒い船団の正体は、鉄の装甲をまとった軍船であった。
焙烙火矢は装甲に弾かれ、力なく海へ落ちていく。
海戦のために据えられた大砲。
鉄の装甲に穿たれた、無数の銃眼。
急造を重ねてきた源氏の水軍とは違う。
黒い船団は統制された砲撃を浴びせ、次々と毛利の船を沈めていった。
「義興殿……」
鶴が、思わず振り返る。
義興も、あっけに取られていた。
「あのような船……見たこともない」
毛利の判断は、早かった。
不利を悟るや、たちまち後退し、再び一塊となる。
そのまま臨戦の構えを崩さず、淡路の近海から退いていった。
「はっはっは!
逃げていったじゃないか!」
輝子が高笑いする。
だが、義興の顔は厳しい。
「いや、輝子殿。
敵は、見事じゃ。
不利と見れば、すぐに退く。
そして陣を立て直し、また我らを待ち受けよう」
そう言って、義興は北東から上がる煙を指さした。
「……信長殿かの。
容赦なく、大筒で崩しておるのであろう。
この岸和田を、瓦礫に変えたように」
鶴が、続ける。
「本願寺は、此度の謀の旗頭。
毛利にも、考えるところがあるのかもしれませぬ」
間もなく、南から現れた大船団の指揮船が、輝子の船へ寄せてきた。
指揮官らしき男が、乗り移ってくる。
「九鬼嘉隆と申す者。
伊勢の飯坂猫様の与力として、物資海運の護衛を務めておりまする。
遅くなり申した」
「助かったよ、九鬼殿!
話は後じゃ。
急ぎ淡路から四国へ上がり、毛利を追い出さねば――」
「いえ、輝子様」
嘉隆が、遮った。
「すでに猫様ご自身が、物資を土佐へ直接運んでおられます」
「……なに?」
輝子は、あっけに取られたように嘉隆を見返した。
「それじゃあ……これまでの戦いは、何だったんだい」
言った後で、輝子は口を噤んだ。
燃やされた船。
折れた櫓。
海へ沈んだ柳生の者たち。
あの日、淡路を目前にして退いた。
その全部が――。
「……輝子殿」
義興であった。
「毛利がこの海に張りついておったのは、我らがおったからにござる」
輝子が、顔を上げる。
「我らが淡路を狙い続けねば、あの者たちは外海へ目を向けておった。
……そうなれば、猫殿の船団とて、無事では済みますまい」
輝子は、しばらく黙っていた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らす。
「……そういうことにしておくよ」
その声は、少しだけ震えていた。
「申し訳ござらぬ」
嘉隆が、頭を下げる。
「こちらも事情を知り、急ぎ支度を整え……
命を待たずして、輸送に踏み切った次第にて」
「軍船などないと思っておったが。
……これは、輸送船とは言えないねぇ」
輝子は、嘉隆の率いてきた鉄の軍船へ目を向けた。
「猫様は、たいそうご立腹でございました」
嘉隆が、わずかに苦笑する。
「あの御方も――先の世から来られた者にございます」
***
「どうして、誰も私にもっと早く状況を伝えてくれなかったのかしら!」
土佐の窮地を救った恩人は、ぷんぷんと怒っていた。
「海の上の安全を確保しないと、米俵ひとつ運べないんですから!」
義経は困ったように、宝へ目をやる。
宝も肩をすくめ、苦笑いしていた。
「いいですか、義経様。
昔から源氏の殿方は、私のことを、金と米を生み出す打ち出の小槌か何かのように扱われます」
「いや……皆、猫殿のご尽力あってこそ軍団が成り立っておると、心より感謝しておる。
此度のことは、御礼の申し上げようもない」
「頼朝様には、お伝えしていたのですよ。
本当は、私も戦えば強いのです!」
ふざけているのか、本気なのか。
猫は自らの二の腕をぽんぽんと叩き、鼻から勢いよく息を吐いた。
「兵糧だけではありませんよ。
おいしい伊勢の幸も運んでまいりました。
弾薬も、大筒も、鉄砲も。
運べるだけ運びましたからね、義経様」
その後ろから、鈴木重秀が現れる。
「毛利に捕捉され申した。
そこを、助けていただいた。
……あのような船、見たこともござらぬ」
その言葉に、猫は得意げな顔をしてみせた。
だが、すぐに真顔に戻る。
「まずは、目の前の敵を追い出しましょう。
その間に、おいしいお食事をご用意しておきますね」
言い終えると頭を下げ、猫はさっさと部屋を出ていった。
***
間もなく、河後森城からの砲撃が本格的に始まった。
弾薬が尽きたと見て、間合いを詰めていた島津・大友である。
城から大量の砲弾を浴び、慌てて陣を後方へ下げた。
その様子を見ていた長宗我部元親が、静かに義経へ語りかける。
「源氏のご家臣は、皆、義経殿をお救いするのに必死でござるな。
……良き家臣こそ、宝でござる」
義経は、ふっと苦笑いを浮かべた。
そして、一言だけ返す。
「誠に……」
再び河後森城から放たれる斉射の音が、義経の耳に響いていた。
***
石山本願寺。
織田信長のもとへ、北条早雲が近づいた。
「これで、よろしいのか。信長殿」
信長は、大筒で崩され、炎に包まれた一帯へ目を向けている。
石山本願寺――
いや、今や、その跡とでも呼ぶべき有様であった。
「いくら首謀者とて、源氏にはここまではできまい」
「信長殿が……独断で行うたこととして、すべてを被ると申すか」
信長は早雲を見て、口の端を上げた。
「でなくば、貴様を人質にしてまで、このようなことはさせぬ」
炎が、二人の顔を照らす。
「軍神殿をこのような危地に陥れたのは――
わしが、無駄に生き恥を晒したからでもある」
「信長殿……」
大坂の一帯が炎に呑まれたかのごとく、石山本願寺は跡形もなく燃えていた。
お読みいただきありがとうございました。
降った者は、殺さない。
頼朝の頃から一貫していた、源氏の方針でした。
覇を唱えるための軍団ではなく、守るための軍団だったからです。
その強さも、弱さも、信長は知っています。
顕如がいかに義経と梓を亡き者にしようとしても、
いま源氏は、本願寺が降れば罰することができません。
そして――自らが生かされたことで、義経が危地に立たされている。
信長が決めた覚悟は、自らを軍法の外に置くことでした。
米を届けた猫。
僧を殺し尽くした信長。
どちらも、義経を救いたかったのです。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




