第六十一話 罪人
二条城の実朝のもとへ、飯坂猫の腹心・斎藤福が、伊勢の動きを事後に報せにきた。
見立てではあるにせよ、久方ぶりに安堵の空気が流れる。
そこへ、北条早雲が登城した。
淡路から毛利水軍を追い払った、との報である。
だが、その後ろには――
縄を打たれ、不遜に笑う男が続いていた。
二条城。
焼け落ちた城下には、いまだ戦の爪痕が残っている。
それでも京は、少しずつ息を吹き返していた。
源実朝のもとへは、各地からひっきりなしに報せが届く。
その実朝の前に、伊勢で飯坂猫を支える斎藤福が控えていた。
「……もう一度、申していただけませぬか」
「はい」
福は、いつもと変わらぬ落ち着いた面持ちで頭を下げる。
「猫様は、土佐へ向かいました。
兵糧、火薬、鉛玉――運べるだけの物資を積んでおります」
「義経様は……」
実朝が、身を乗り出した。
「間に合ったのでしょうか」
「ぎりぎりかとは存じますが……
土佐へ届いている頃かと」
福が、微笑む。
実朝は、大きく息を吐いた。
下座に控えていた前田玄以も、静かに目を閉じる。
二条城ばかりか、自らの竹田城も襲われ、良い報せなどほとんどなかった。
甲斐をはじめとした東国。
四国。
岸和田。
届くのは、誰かが死んだか、追い詰められたという話ばかり。
その義経に、米と弾薬が届けられる目途がたった。
「……よかった」
実朝が、ぽつりと呟いた。
福は、もう一度頭を下げる。
「九鬼嘉隆様の水軍は、そのまま淡路の輝子様と合流いたします。
こちらも独断にございました。
どうぞ、ご容赦を」
「毛利水軍を……?」
実朝が目を見開いた。
岸和田の軍勢が、あれほど苦しんだ相手である。
「伊勢に、それほどの水軍までいたのですか」
「もともとは、荷を運ぶ船を守るための者たちにございます」
福は、少し困ったように笑った。
「頼朝様の頃より、猫様は海運を大切にしておられましたので。
米を作るだけでは、人の腹には入りませぬ。
運んで、初めて兵糧になります」
「……なるほど」
「ただ――今回は、少々無茶をいたしました」
「無茶」
「猫様と相談し、九鬼様の大きな船に、急ぎ鉄板を張らせました」
「初殿も……先の世では鉄甲船で毛利を退けたと。
しかし、すぐに造れるものでもないと、そのようにも」
実朝は、思わず聞き返した。
「はい。
猫様も私も、初様同様、少し先の世より参りました。
初様がおっしゃっていた鉄甲船とも少し異なります。
鉄板を今ある大きな安宅船に張ったのです」
福は、事もなげに言う。
「重くなりますし、鉄はすぐに錆びます。
いつまでも使えるものではございません。
ですが――
今だけは、義経様に生きていていただかなくては困りますので」
帳簿の不足を埋めた程度のことのように、福は語った。
「……父は」
実朝が呟いた。
「この時代で、良き家臣に恵まれましたね」
福は、その頼朝の息子を静かに見つめる。
「猫様をはじめ、内政に携わる者にも、頼朝様は常に感謝のお言葉をくださいました。
幾度も、軍資金や兵糧が尽きかけましたゆえ」
そして、少しだけ目を細める。
「その軍団の危機を、いま実朝様が支えていらっしゃる。
義経様を、必死に支えようとしていらっしゃる。
頼朝様も、今頃お喜びでしょう」
実朝は、小さく首を振った。
頼朝は、もういない。
それでも――。
頼朝が任せた者たちが、米を蓄え、商いでものを集め、それを船に積んだ。
そして今。
その米を、義経が食べているのだとすれば。
「……父上は、しぶといですね」
実朝が、小さく笑った。
福も、つられるように笑う。
「ええ。
本当に」
その時であった。
廊下が、急に騒がしくなる。
「実朝様!」
近習が駆け込んできた。
「北条早雲様が、お戻りにございます!」
「早雲殿が?」
実朝が立ち上がる。
「それと……」
近習が、言葉に詰まった。
「織田信長様を、お連れにございます」
***
部屋へ入ってきた早雲の顔は、険しかった。
その隣に、源桜。
実朝にとっては、血を分けた妹にあたる。
鎌倉で、幾度か顔を合わせたことがあった。
父が逝き、母が寺へ身を寄せた後のことである。
あの頃はまだ、八つか九つの娘であった。
それが、いま。
鎧をまとい、背を伸ばして立っている。
「……桜」
実朝が、口を開いた。
桜は、目も合わせなかった。
ただ早雲の脇に立ち、まばたきもせずに前を見ている。
この妹が父の最期に立ち会い、それきり心を閉ざしたと――
そう聞いてはいた。
だが、こうして目の当たりにするのは、初めてであった。
二人の後ろを、一人の男が歩いてくる。
縄を、打たれていた。
実朝の口が、閉じた。
「……信長殿?」
実朝は、しばらく理解できなかった。
織田信長――。
父が戦い続けてきたと、聞いた。
縄を打たれているというのに、俯いてすらいない。
不遜な顔で、堂々と歩いてくる。
「これはこれは。
和歌のお好きな若君」
「……その姿は」
「見れば分かろう」
信長が、笑った。
「罪人じゃ」
「信長殿」
早雲が、低い声で制した。
信長は肩をすくめる。
早雲は実朝の前へ進み、深々と頭を下げた。
「ご報告申し上げる。
淡路への道が、開かれましてございます。
伊勢の水軍が輝子殿と合流し、毛利の船団を退かせました」
長らく待ち望んだ吉報であった。
福の話のとおりである。
しかし、その声は重い。
「それと、もう一つ。
……石山本願寺は、陥落いたしました」
実朝の顔が、明るくなりかける。
だが――
早雲の面持ちを見て、すぐに消えた。
「本願寺顕如は」
「毛利の船にて、すでに落ち延びたものと噂が」
実朝が、唇を噛む。
「では、信長殿はなぜ……」
早雲は、すぐには答えなかった。
代わりに、信長を見る。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
いや――
別の気持ちを、早雲は信長に向けているのか。
「織田信長殿は……
わしを人質に取り、容赦なく大筒を石山本願寺へ向けられた」
「……!」
「降伏する間もなく、本願寺は瓦礫となっておりました」
実朝の顔が、強張る。
「僧たちは……」
早雲が、目を伏せた。
「……炎と瓦礫の中で、ほぼ、命が途絶えておりました」
部屋が、静まり返った。
実朝は、信長を見る。
「……なぜ」
「早雲が申したであろう。
わしが脅し、源氏は仕方なく大筒を放った」
信長は、あっさりと答えた。
「ですから、なぜ――。
なぜ、そのようなことを!」
実朝が、声を荒らげる。
「本願寺のたくらみで、私たちは滅びかけました。
義経様も――まだ安否の確認も取れておりませぬ」
拳を、握る。
「されど……!」
父の顔が浮かんだ。
――降った者は、殺さぬ。
源氏が敵を増やしながら、それでも多くの者に信じられてきた理由。
頼朝が最後まで守った、一線。
「父上が定めた軍律です」
「知っておる」
「あなたの命は、その父に生かされた……!」
「だから、わしがやった」
実朝の言葉が、止まった。
信長は笑っている。
実朝がはじめて目にする、人を食ったような笑みであった。
「源氏には、できぬであろう?」
「……信長殿」
早雲が、目を閉じた。
「それ以上は、おやめくだされ」
「何じゃ。
貴様らしくもない」
「……」
「早雲。
貴様は、わしに脅され、わしを捕らえた。
それでよい」
縄を打たれた両手を軽く持ち上げ、信長は実朝に向き直る。
「その立派な"父上"が定めた軍律に従うだけのことじゃ」
そして、再びニヤリと笑う。
不遜な態度を、微塵も崩さない。
それでも――
信長の私怨とも、思えない。
軍律の話では、なかった。
しかし、大きく軍律を外れていることも明白であった。
だからこそ、実朝には分からなかった。
「……信長殿を、牢へ」
ようやく、実朝が口を開く。
声が、震えていた。
「沙汰が決まるまで、牢へ入っていただく」
実朝の言葉に、早雲が顔を上げる。
実朝は、自らに言い聞かせるように続ける。
「父上が定めたもの。
……代理たる私が、一存で曲げるわけには参りませぬ」
「それでよい。
和歌好きの若君は、軍神殿よりは政が分かるようではないか」
信長が、笑った。
その時――。
「お待ちくださいませ」
女の声がした。
全員が、振り返る。
襖の向こうから、一人の女が姿を現した。
浅井初に、身体を支えられている。
大きくなった腹を庇うように、ゆっくりと歩いてきた。
「梓様!」
実朝が、慌てて立ち上がる。
「お身体が――」
「大丈夫でございます」
武田梓は、小さく微笑んだ。
そして、縄を打たれた信長に顔を向ける。
「……随分と、似合わぬお姿でございますね」
「ふん」
信長が、鼻を鳴らす。
「軍神殿の妻が、何の用じゃ」
梓は答えない。
しばらく、信長を見つめていた。
「信長様」
「何じゃ」
「義経様には――」
梓は、そこで一度、言葉を止めた。
「させたくなかったのでございますね」
部屋の空気が、止まった。
早雲が、わずかに目を見開く。
実朝は、梓と信長を交互に見た。
信長だけが、何も変わらなかった。
「……何の話じゃ」
梓が、微笑む。
「それだけでございます」
信長は、梓から視線を逸らした。
「身重の女が、つまらぬことを考えるな」
梓は、素直に頭を下げる。
「では、つまらぬこととして、忘れることにいたします」
「そうせい」
信長は、早雲へ顎をしゃくった。
「早雲。
牢とやらへ案内せい」
早雲は、動かなかった。
「早雲」
「……はっ」
早雲が、信長に頭を下げる。
信長が、部屋を出ていく。
桜も無言のまま、その後に続いた。
最後に早雲が振り返り、実朝へ深く頭を下げる。
襖が、閉じた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて実朝が、力なく座り込む。
「……分かりませぬ」
梓が、実朝を見た。
「何が、正しいのか」
源氏の軍律を守るならば、信長を罰さねばならない。
一方、本願寺を警戒し続けていたのは、唯一信長だけであった。
二条城を救ったのも。
義経を救うため、敵の喉元へ最も深く刃を入れたのも。
そして今――
自ら、縄を受けている。
梓は、しばらく黙っていた。
「実朝様」
「……はい」
「分からなくても、よろしいのではございませんか」
実朝が、顔を上げる。
「私にも、分かりませぬ」
梓は、自らの腹へそっと手を添えた。
「義経様にも、きっと分からないでしょう」
そして、信長が去った襖を見る。
「皆が戻ってから、考えましょう」
静かに、息を吐いた。
「皆が……」
「はい」
梓が、微笑む。
実朝は、しばらく梓を見ていた。
「……そうですね」
京の空に、久しぶりの青が広がっていた。
戦は、まだ終わっていない。
顕如の所在もはっきりしない。
毛利も、健在である。
それでも――。
昨日まで死にかけていた者たちが、今日も生きている。
今は、それだけでよかった。
お読みいただきありがとうございました。
かつて伊勢で、飯坂猫と斎藤福は、長島の惨劇について頼朝と語り合ったことがありました。
猫は、信長だけを責めませんでした。
多くの信徒の命を差し出させた、仏門の長にも、疑いの目を向けていたのです。
その仏門の長が、源氏へ刃を向けました。
そして、滅びかけた源氏に最後に手を差し伸べたのは、猫たちでした。
一方の信長は、多くを語りません。
長島で自ら行ったことも。
命を差し出す覚悟で石山本願寺にしたことも。
顕如は、源氏にとって恐るべき敵です。
けれど彼にもまた、弱き民を、門徒を守るための、必死の正義があったのかもしれません。
頼朝、義経、信長、家康。
それぞれに、異なる正義があります。
本願寺にも、毛利にも、朝廷にも、守るべきものがあります。
それでも――
交わることは、できないのかもしれません。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




