第五十四話 勝利の定義
淡路への道を開くべく、赤井輝子が船団を率いて海へ出た。
海を知る大内義興と大祝鶴を従え、船には最新の鉄砲と大筒を積んでいる。
――だが、待ち構えるのは、海の覇者・毛利水軍であった。
岸和田の沖合――。
赤井輝子を総大将とする船団が、淡路を目指して海を進んでいた。
琵琶湖から運び込んだ船。
岸和田で拿捕した船。
そして近隣からかき集めた、大小さまざまな船。
どれも、毛利水軍と正面から戦うために造られたものではない。
それでも鉄砲隊を乗せ、載せられるかぎりの小型の大筒を据えた。
敵船へ寄せられれば、柳生一族が乗り移り、白兵に持ち込む。
今あるもので、戦うほかなかった。
岸和田から遠ざかるにつれ、陸に並ぶ大筒が小さくなっていく。
その砲撃を嫌い、毛利水軍はすでに岸和田の近海から姿を消していた。
だが――。
「見えました!」
物見が声を上げる。
輝子が船首へ出た。
淡路との間を塞ぐように、水平線に無数の帆が並んでいる。
毛利水軍であった。
大内義興が、目を細める。
「やはり……ここで待っておったか」
大祝鶴が、静かに頷いた。
「岸和田へ近づけば、陸から大筒を浴びまする。
ならば、我らが出てくるのを待てばよい……ということでございますね」
「そういうことじゃ」
輝子は前方を睨んだ。
その顔に、迷いはない。
「なら――退いてもらうまでさ!」
軍配を振り下ろす。
「鉄砲隊、構えよ!」
船上に、銃声が轟いた。
一斉に放たれた弾が、寄せてきた毛利の小早へ降り注ぐ。
敵兵が倒れた。
別の船から、小型の大筒が火を噴く。
水柱が上がり、毛利の一艘が大きく傾いだ。
「効いておるぞ!」
源氏の兵から歓声が上がる。
毛利の船が退いていく。
「逃がすな!」
輝子が叫んだ。
船団は、そのまま前へ出た。
毛利の一艘が、取り残される。
すかさず柳生の兵を乗せた船が寄せた。
鉤縄が飛ぶ。
二艘が激しくぶつかった。
「乗り込め!」
柳生の兵が、次々と敵船へ飛び移る。
甲板の上で刀が交わった。
狭い船上で、柳生の剣を止められる者は少ない。
ほどなく毛利の旗が引き倒され、白地に笹竜胆が掲げられた。
「一艘、奪りました!」
歓声が広がる。
しかし――
義興だけは、険しい顔を崩さなかった。
「……おかしい」
鶴が振り向く。
「義興様?」
「毛利が、脆すぎる」
次の瞬間であった。
「右舷より敵船!」
輝子が振り返る。
いつの間にか、右手から数艘の小早が迫っていた。
「鉄砲隊、右へ!」
兵たちが向きを変え、火を噴く。
毛利の船が散った。
だが――。
「左より敵!」
「後ろにもおります!」
輝子の顔色が変わった。
正面に並んでいたはずの毛利水軍が、いつの間にか四方へ散っている。
小早が、源氏の船と船の間を縫うように走った。
速い。
こちらが船首を向ける前に射程へ入り、矢と鉄砲を浴びせては、すぐに離れていく。
「追うな!」
義興が叫んだ。
「一艘一艘を追えば、船団が崩れる!」
すでに遅かった。
源氏の船は、それぞれ目の前の敵を追い始めていた。
鉄砲では負けていない。
大筒の威力でも負けていない。
接舷さえすれば、柳生の兵がいる。
――だが、接舷させてもらえない。
「また来ます!」
小早が横切った。
銃声。
源氏の兵が倒れる。
「撃ち返せ!」
鉄砲隊が構える。
その時にはもう、敵船は離れていた。
代わって、反対側から別の一艘が寄せてくる。
「何なのじゃ、こやつらは……!」
輝子が歯を食いしばった。
鶴は、海面を見つめていた。
敵船そのものではない。
その進み方を見ている。
毛利の船は、速い。
だが、それだけではなかった。
船が、ぶつからない。
味方同士が、互いの進路を塞がない。
一艘が退けば、別の一艘が前へ出る。
まるで初めから、次にどこへ動くかを知っているかのようであった。
「……調練が、違います」
鶴が呟く。
義興も頷いた。
「これが、毛利の水軍よ」
その時――。
「うわっ!」
すぐ近くの船から、悲鳴が上がった。
鶴が目を向ける。
兵ではない。
櫓を握っていた漕ぎ手が、幾人も倒れていた。
船脚が、目に見えて落ちる。
「いかん!」
義興が叫んだ。
「奴ら、兵を狙っておらぬ!」
「何――」
「漕ぎ手じゃ!」
動きを失った船へ、毛利の小早が群がっていく。
別の源氏船が救援に向かえば、そこへさらに毛利の船が回り込む。
「助けに行くな!」
義興の声も、届かない。
目の前で、味方の船が襲われている。
放っておけるはずがなかった。
一艘が救援へ向かう。
また一艘。
船団が、さらに崩れていく。
その時であった。
空を、何かが横切る。
「火じゃ!」
焙烙火矢であった。
甲板へ落ち、炎が上がる。
「消せ!」
兵たちが水桶を抱えて走った。
もう一発。
今度は帆に燃え移る。
鉄砲隊が射撃を止め、消火へ回った。
そこへ、毛利の小早が突っ込んでくる。
「右舷!」
「間に合わぬ!」
激しい衝撃。
兵たちが甲板へ投げ出された。
輝子は船縁を掴み、辛うじて踏みとどまる。
「怯むな!
まだ戦えるよ!」
その声を掻き消すように、銃声と怒号が海上を満たしていった。
義興が、周囲を見渡す。
こちらも毛利の船を沈めている。
奪った船もある。
決して、一方的に負けているわけではない。
――しかし。
義興は、淡路を見た。
遠い。
出航した時と、ほとんど変わらぬほど遠く見えた。
「……これでは、届かぬ」
「義興様!」
鶴の声であった。
先ほど柳生が奪った毛利船。
その周りを、敵の小早が取り囲んでいる。
柳生の兵が、必死に鉄砲を撃っていた。
「助けねば!」
輝子が船を向けようとする。
「なりませぬ!」
義興が止めた。
「なぜだい!
あそこには、うちの兵がいるんだよ!」
「あれは――毛利の、捨て船にございます!」
輝子が息を呑む。
毛利は、奪われた船を取り返そうとしているのではない。
その船を餌に、源氏の船をさらに引き込もうとしていた。
「……おのれ」
輝子が唇を噛む。
だが、見捨てることもできない。
かつて赤井輝子の精鋭を壊滅させた、忘れえぬ敵。
それが今、毛利に囲まれている柳生であった。
いまはともに手を携える、毛利水軍を破るための貴重な戦力である。
その柳生を救うべく、輝子は船を進めようとした。
その時、鶴が立ち上がった。
「私が、参ります」
「鶴殿!」
「柳生を拾い、戻ります。
輝子様は、船団をまとめてくださいませ!」
返事を待たず、鶴の船が飛び出した。
「鶴姫に続け!」
数艘の小型船が、後を追う。
毛利の小早が、その前へ立ちはだかった。
鶴は、退かない。
「撃て!」
至近から、鉄砲が火を噴く。
敵船が傾いだ。
その横を、すり抜ける。
もう一艘。
今度は避けず、船体をぶつけた。
木材が軋む。
「柳生衆!
こちらへ!」
取り残されていた兵たちが、次々と鶴の船へ飛び移った。
「鶴殿! 戻られよ!」
義興が叫ぶ。
鶴が振り返った。
その周りには、さらに毛利の船が集まり始めている。
「全船、退け!」
義興が、声を張った。
輝子が振り向く。
「まだだよ!
まだ戦える!」
「戦えましょう」
義興も、退かない。
「なれど――」
一瞬、言葉を詰まらせた。
「このまま戦うても、淡路には届きませぬ!」
輝子の表情が、止まった。
「我らの目当ては、毛利の船を沈めることではござらぬ。
義経殿へ続く道を、開くことにございます!」
義興は、燃える船を指した。
「これ以上兵を失えば――
次は、岸和田すら守れませぬ!」
輝子は、歯を食いしばった。
まだ戦える。
鉄砲もある。
兵もいる。
毛利の船とて、何艘か沈めた。
それでも――。
淡路は、遠い。
このままでは、義経を救えない。
「……退くよ」
小さな声であった。
軍配を、握り直す。
「全船――岸和田へ退けッ!」
鐘が鳴った。
船団が、次々と船首を返していく。
毛利水軍が追ってきた。
だが岸和田へ近づくにつれ、その追撃は鈍っていく。
やがて毛利の船は、一艘、また一艘と止まった。
それ以上は、来ない。
岸和田に据えられた大筒の、射程であった。
鶴が振り返る。
遠く沖合で、毛利の船団が再び横へ広がっていた。
追ってこない。
勝鬨も、聞こえない。
ただ、淡路へ続く海を塞いでいる。
「……追っては、こないのですね」
義興が、海を睨んだまま答えた。
「追う必要が、ないのじゃ」
「……」
「我らは毛利の船を沈めた。
船も奪うた。
敵兵も、少なからず討った」
義興の拳が、震える。
「されど――」
淡路を、見る。
「一歩も、先へ進めぬ」
***
岸和田城から海戦を見ていた織田信忠が、父にこぼした。
「毛利の水軍は、強うなりました。
火力、船脚、装甲、そして数……
陸で我らの大筒と鉄砲がいかに優れていようと、歯が立ちませぬ」
信長もまた、厳しい眼差しを沖へ向けている。
「義興と鶴がおってさえ、数の差は埋まらぬか」
そして、傍らの信忠へ目を向けた。
「このまま毛利の軍船を、近づけるでない。
良いな、信忠」
「命に代えても。
……して、父上は」
「摂津へ参る」
信長は、すでに歩き出していた。
「裏切り者の荒木村重の跡を継いだ、高山右近のところよ。
摂津を守るだけで手一杯。
おまけに尼崎の港まで毛利に取られておる。
……あの程度の軍勢で、よくもわしを裏切ったものよ」
「弱きゆえに、裏切ったのでしょう。父上」
その言葉に、信長の口の端が上がった。
「……尼崎を取り戻せば」
信忠が、父の背に問う。
「小早川は、船を割かねばなりませぬな」
信長は、答えなかった。
鉄砲隊を率い、有岡城へ向けて馬を進める。
その背が、遠ざかっていった。
やがて――
馬に鞭を打ちながら、信長は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「あとは……和歌好きの、頼朝の息子次第か」
お読みいただきありがとうございました。
かつて赤井輝子が手塩にかけて育てた鉄砲隊は、頼朝軍団でも最強と謳われました。
その精鋭が、柳生一族の斬り込みの前に、なす術もなく命を落としました。
輝子が元の彼女を取り戻すまでには、長い時が要りました。
その憎き柳生が、いま目の前で、囲まれています。
そして、摂津のこと。
頼朝の京都支配を決定づけたのは、摂津を治める荒木村重の寝返りでした。
信長に止めを刺したに等しいその軍団も、村重亡きあとは高山右近が継ぎ――
いまや尼崎の港を毛利に奪われ、援軍を出す余裕すらありません。
かつての強敵同士が、手を携えて戦う源氏の軍団。
されど、総大将は土佐の奥に閉じ込められたまま。
軍団の礎を築いた出雲阿国も、トモミクも、姿を消しました。
参謀として支え続けた秀長も、牛一も、もういません。
顕如の描いた絵の中で、最強の軍団は日ノ本じゅうに散らされています。
その多方面の舵取りを、大将不在のまま担うことになるのは――
不本意ながら京へ送られた、頼朝の息子。
源実朝です。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




