第五十五話 白旗
限りある矢玉を惜しみ、時を稼ぐために――
義経は自ら先頭に立ち、突撃を繰り返していた。
だが、その“時”こそが、いまや最大の敵であった。
そして。
守るべき者たちの姿が目に入ったとき、
鎌倉の世から今日まで、ただの一度も考えたことのなかった思いが、義経の胸に湧き上がる。
兵たちは、力なく腰を落としていた。
矢傷を負っていない者など、一人もいない。
先陣を切り、幾度となく敵陣へ突入してきた義経も、例外ではなかった。
あと幾日も、戦えない。
たとえ目の前の一戦に勝ったところで、戦局そのものを覆せるわけでもない。
引き際を心得た敵は、疲れた部隊を後ろへ下げ、新手を前へ出しながら、なお攻勢を強めてくる。
ただ――
過酷な戦場で、次々と敵を薙ぎ倒す。
傷の痛みも。
物資が尽きた先に待つ地獄も。
再び家臣に見捨てられるかもしれぬ恐れも――
血に塗れた修羅の道が、そのすべてを覆い隠してくれているようであった。
不思議と、身が軽かった。
「義経様……
もう、突撃はお控えください……」
宝が、義経のもとへ駆け寄る。
その宝も、自らの米を兵に分けているのだろう。
頬が、以前より明らかに痩けていた。
「矢玉は、いかがじゃ」
「義経様と元親様が前へ出てくださっておりますゆえ、まだ残っております。
……ですが」
「米か」
「はい。
我が軍の兵糧は、すでに底をつきかけております。
土佐からかき集めたぶんも、間もなく尽きましょう……」
季節は、冬である。
収穫できる穀物などなく、漁で得られる魚にも限りがあった。
「それよりも、義経様の御身が……」
宝が言いかけた、その時であった。
敵陣から、鬨の声が上がる。
島津、大友の波状の攻めは、途切れることを知らない。
「里。まだ行けるか」
「是非もありませぬ!」
里の遊撃隊は、義経の突撃が生んだ敵陣の綻びを見抜き、そこを突いて崩してきた。
不利な戦に、まだ若い姪を出す。
だが、この副官との連携がなければ、鉄砲も大筒も、とうに使い果たしていたであろう。
「……すまぬな」
先ほどまで項垂れ、地に座り込んでいたのが嘘のように、兵たちが立ち上がった。
馬へ飛び乗る。
義経を先頭に、騎馬隊が敵の中央へ向けて駆け出した。
長宗我部の一領具足も、それに続く。
「義経様……」
宝には、その背を祈るように見送ることしかできなかった。
***
義経が、正面から敵陣を突き崩す。
だが島津とて、ただ押されているわけではない。
突出した義経隊を包むため、後退しながら左右へ兵を割いていく。
その動きを見極めた里の別働隊が、陣形の整うより早く、猛然と側面へ突き入った。
山中に潜んでいた島津兵が姿を現し、一斉に槍を立てる。
里の部隊へ横槍を入れるべく、駆け下りてきた。
そこへ、一領具足が食らいつく。
義経の騎馬隊が、中央を分断した。
土佐街道から次々と現れる敵を各個に討ち、源氏・長宗我部勢は辛うじて優位を保っている。
しかし――
山岳は、すでに島津・大友が完全に押さえていた。
高所に布陣した大友の鉄砲隊が、一斉に銃口を向ける。
乾いた音が、山々に響き渡った。
「……頃合いじゃな」
義経は、全軍に退却を命じた。
***
それから、数日の後。
ついに――兵糧が尽きた。
矢玉を惜しむため、自らの身を盾にするように戦い続けてきた騎馬隊も、一領具足も、もはや限界であった。
敵は、なお新手を送り込んでくる。
こちらに、代わりの兵はいない。
逃げる者も、ついに出始めた。
河後森城を囲む敵陣は、日ごとに狭まっている。
予測していた事態であった。
分かっていた。
自分たちにできるのは、ただ時を稼ぐことだけだと。
しかし――
その“時”こそが、いまや自分たちを殺す最大の敵となっていた。
義経の脳裏に、遠い記憶が甦る。
奥州平泉、衣川館。
炎の中で、なす術もなく立ち尽くしていた、あの日。
だが、あの時とは違う。
これほどの窮地にありながら――
いまは、多くの将兵が、自分のために命を懸けてくれている。
人望などない。
誰も、自分の味方にはならない。
ずっと、そう思ってきた。
いまは、違う。
それなのに――
自分のために戦ってくれる者たちの命が、風前の灯となっている。
結局。
人望の問題では、なかったのではないか。
味方がいようと、いまいと。
足りぬのは――己の力なのではないか。
軍神と奉られてきたのも。
兄・頼朝の下で戦っていたからこそではないのか。
いまさらのように、その事実を突きつけられた気がした。
傍らでは、まだ若い里と宝が、互いを励ましながら、必死に敵の動きを見つめている。
この者たちを、自らの未熟さの犠牲にはできない。
ここに残る、多くの将兵たちも。
――白旗。
これまで一度として考えたことのなかった選択が、固く閉ざしていた義経の心の扉を、強く叩いた。
この者たちの命が助かるのなら。
自分の命を差し出せば――
梓も、腹の子も、助かるかもしれぬ。
その時であった。
轟音。
鉄砲の斉射が、河後森の城下に響き渡る。
義経が顔を上げた。
城を囲んでいた敵兵が、次々と倒れていく。
「……味方、か」
長宗我部元親が、駆け寄ってきた。
「鈴木重秀殿にございます!」
「何……!」
義経の目が、大きく見開かれる。
「雑賀の城は、無事であったか!」
思わず、歓喜の声が漏れた。
義経は、立ち上がる。
「援軍じゃ!」
疲れ果てた将兵へ、声のかぎり叫んだ。
「皆の者!
最後の力を振り絞れ!
敵を――押し戻せッ!」
兵たちが、立ち上がる。
義経の脳裏から――白旗は、消えていた。
***
二条城。
源実朝のもとへは、伝令と忍びがひっきりなしに出入りしていた。
外交を担ってきた前田玄以は、毛利との決別以降、この城に留まっている。
いまや実朝の直臣のように、若き将を支えていた。
また、体調の優れぬ武田梓を支えるため、浅井初も二条城へ移っている。
その初の推挙で、新たに二人の官吏が着任した。
石田三成。
そして、大谷吉継。
太田牛一と同じく、少し先の世からこの時代へ来た初である。
全国の物資を束ね、膨大な事務を捌く者が要る――
そう判じたとき、初の頭に浮かんだのが、この二人であった。
慣れぬ政務。
軍団がかつて経験したことのない危機。
それでも実朝は、動揺を表に出さなかった。
届く書状のすべてに目を通す。
報告には、一つひとつ耳を傾ける。
迷えば玄以に問い、そして最後は、自ら決めた。
「玄以殿。
義経様のご様子について、何か報せは」
「世良田元信殿が雑賀まで運びました物資の一部を、雑賀の船団が土佐へ運んでおります」
「岸和田の戦況は、芳しくないとのことですね」
「……はっ」
「雑賀の船団が届けた物資で、土佐はどれほど持ちますか」
玄以が、わずかに目を伏せた。
「……良くて、十日」
さすがの実朝も、額に手を当てた。
小さく、首を振る。
その時――
廊下を駆ける足音が響いた。
「申し上げます!」
伝令が、部屋へ駆け込んでくる。
「信長様より、急ぎの早馬!
毛利の軍船を分散させるべく、尼崎の港を奪い、石山本願寺への囲みを強めてほしいとの要請にございます!」
実朝の表情が、一気に明るくなった。
「なるほど……!」
膝を打つ。
「さすがは、信長様!」
玄以もまた、その意図を悟ったように頷いた。
実朝は、すぐさま顔を上げる。
「元信殿へ伝令を。
急ぎ、摂津へ向かうように!」
「はっ!」
「本願寺勢の南下を防いでいる里見伏隊と、桜の隊にも伝えてください。
さらに軍を進め――石山本願寺を、囲むように!」
「かしこまりました!」
玄以が立ち上がり、急ぎ部屋を後にした。
***
一人残された実朝は、二条城から京の街並みへ目を向けた。
しばらく、黙ってその景色を見つめる。
「鎌倉では……」
小さく、声が漏れた。
「父上の思いを、無にしてしまった……」
拳を、握る。
「この時代で――
同じことを、繰り返すわけには参らぬ」
お読みいただきありがとうございました。
誰も自分の味方にはならない。
人望がないゆえに、いずれ家臣は去っていく。
その恐れが、ずっと義経を苦しめてきました。
けれど、いまは違います。
多くの将兵が、この人のために命を懸けている。
それでも――守れない。
ならば、問題は人望ではなかったのではないか。
軍神と呼ばれてきたのも、兄の下で戦っていたからではないのか。
恐れが晴れた先に待っていたのは、もっと深い場所でした。
そこで義経の心に浮かんだのが――白旗です。
敵に降ることではなく、自らへの白旗であったのかもしれません。
そして義経の知らぬところで、源氏の軍団は動き続けています。
実朝は、鎌倉での悔いを胸に、慣れぬ政務へ向き合い。
源氏に背を向ける言葉ばかり吐く信長は、誰よりも義経を救う道を探し。
赤井輝子たちは、歯噛みしながら、なお淡路を見据えています。
猶予は、十日。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




