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第五十二話 死地

陸を離れ、外海を行く小さな船団があった。


夜の闇に紛れて進むその視線の先に、無数の火が浮かんでいる。


岸和田から阿波へ。

毛利の水軍が、すでに四国への道を塞いでいた。

少数の船団が、闇に沈んだ海を進んでいた。


室戸の荒海は、海路を知り尽くした船頭ですら、一日の足止めを口にするほどであった。

だが、その一日が、味方の命運を分ける。


遠く北の海に、火が浮かんでいた。


闇の中で揺れるそれは、岸の漁火ではない。

淡路から和泉へ延びるように、海の上を、数え切れぬ火の列が続いている。


毛利の軍船であった。


「……昼より、よう見えるわ」


鈴木重秀が吐き捨てる。

船頭は答えず、帆だけを見ていた。


「……やはり岸和田は、根来に乗っ取られたか」


長宗我部元親の求めに応じ、岸和田の雑賀鉄砲隊を率いて四国へ渡ったのが、つい先日のことである。

その岸和田を拠点に、いま毛利の船が、淡路と阿波への海路を押さえていた。


重秀は、遠い火を見据える。


「毛利め。海を押さえたのではない」


少し、間を置いた。


「道を押さえたのじゃ」


熟練の船頭は、一言も発しない。

敵船にも、波にも風にも、最大限の注意を払いながら、ただ船を進めている。


「わしらが抜けたところで、奴らは痛くも痒くもないわ。


義経殿へ米を運ぶ百艘さえ通さねば、それでよいのじゃ」


次の瞬間、船が大きく傾いだ。

波しぶきが、容赦なく降りかかる。


全身を濡らす飛沫と、海のすべてを凍らせるような強風に、兵たちが震え上がった。


それでも雑賀の選りすぐりたちは、凍えた身体を盾にして、火縄の火種だけは濡らさなかった。


「さすがは、小早川隆景……」


重秀は、なお火の列を見つめている。


「あれでは源氏も、容易には抜けられぬな」


挿絵(By みてみん)


***


「油断をするな」


夜陰に紛れて上陸した重秀たちは、身を伏せながら、雑賀の城の様子を窺っていた。


城が持ちこたえているのか。

一族の者は、無事なのか。


――何ひとつ、分からぬまま戻ってきた。


「……あれは」


重秀の目に入ったのは、城を取り囲む軍旗であった。


白地に、笹竜胆。


源氏の軍勢である。


挿絵(By みてみん)


重秀は、それきり動かなかった。

やがて、深く息を吐く。


その一息が、思いのほか長かった。


***


重秀を出迎えたのは、伊賀上野城代の世良田元信であった。


「何せ、我らも軍団内が混乱しておりまして」


本願寺と根来を追い払ったとはいえ、元信の顔は晴れない。


「何はともあれ――雑賀をお救いいただき、御礼申し上げる」


重秀は、頭を下げた。


「我が源氏の主力は、岸和田から淡路への道を開くべく、兵を向けておりまする。


なれど、重秀殿の御本拠が本願寺と根来に襲われたと聞き及び……

我が隊が、こちらへ向かうこととなり申した」


「……元信殿」


重秀は、頭を上げた。


「わざわざこの山奥まで軍を進められたのは。

我らを救うためだけでは、ございますまい」


元信の言葉が、止まった。


重秀は、城の外へ目をやる。

そこには、この隊を賄うにしては、あまりに多い輜重の列が並んでいた。


「……お見通しで、ござったか」


元信が、丁寧に頭を下げる。


「我が源氏には、軍船が足りませぬ。

岸和田を落としたとて、淡路までの海路は、そう易々とは抜けますまい。


その間に、我が主と軍勢は干上がりまする。


主力が淡路を突破するまでの繋ぎは……

重秀殿のお力に、おすがりするほかござらぬ」


「我らが急ぎ戻ったのも、少しでも物資を土佐へ届けるため」


重秀は、海路図へ目を落とした。


「なれど、ご覧のとおり。

少数の船で、夜陰に紛れるのが精いっぱい。


しかも敵は、毛利の軍船だけではござらぬ。

室戸の波と、風でござる」


しばらく、重秀は図を睨んでいた。


挿絵(By みてみん)


「……十日」


顔を上げず、そう言った。


「我らが届けられるのは、よくて十日分。

それも、毛利に見つからなんだとして、の話じゃ」


元信は、すぐには答えなかった。


「……よく、存じ上げております」


その声が、少し掠れていた。


「十日、時を稼いでいただけたなら。

我が主力が必ずや、淡路から讃岐、阿波の毛利を追い払いまする」


「雑賀衆への武器、弾薬は、惜しみなく用立ていたす」


そう言って、元信はあらためて深く頭を下げた。


城の無事に安堵する間もなく――

重秀は船頭と積み荷の按配を詰めながら、腕を組んで海路図を眺め続けていた。


***


島津と大友の苛烈な攻めに対し、山間に潜む一領具足はよく粘った。

土佐街道は、すぐには破られなかった。


だが――

一度この道を抜けた島津・大友は、開戦の頃よりも、地形に明るくなっている。


伏兵の潜みそうな場所を島津の山岳兵が探り出し、そこへ攻めかかってくる。


一領具足は、じりじりと後退を余儀なくされた。

やがて義経の本陣からも、島津・大友の姿が肉眼で捉えられるまでになる。


一部の伏兵を残し、多くが陣へ引き上げ、すぐさま弓を構えた。


敵の先陣は、弓で退けることができた。

だが大友の鉄砲隊が前線に加わると、射程の劣る弓では、もはや歯が立たない。


「義経様。

仕方ありません……撃ちましょう」


残る弾と兵糧を、日夜数え続けている宝である。

それでも、ここに至っては是非もなかった。


元親が一領具足を下げ、代わって義経の鉄砲隊が前へ出る。


数に勝る義経隊は、大友の銃撃を受けながらも、火力でこれを圧倒した。


大友が下がると、今度は島津が猛然と突撃をかけてくる。


義経は第二列に構えさせ、一斉の斉射を命じた。


だが島津勢は、その斉射に合わせて竹束を立て、低く伏せた。

損害は、ほとんどない。


「しまった……!

我らの弾を、使わせるための策か!」


義経が歯噛みする。


いつもなら必ず策を献じる宝が、この時ばかりは、打つ手を見出せずにいた。

その動揺を、隠しきれずにいる。


挿絵(By みてみん)


その様子を見て、義経は里に声をかけた。


「すまぬ、里。

我らは、出る」


「はい!

望むところにございます、叔父上!」


里は槍を地に突き立て、気勢を上げた。


「宝殿。

敵の鉄砲隊が隊列を整えたならば、陣太鼓で知らせよ」


「で、ですが……危のうございます、義経様……!」


宝が、思いとどまらせようと懇願する。


だが義経は、口の端を上げた。


「策もなく追い詰められたならば――

死地を切り開くのは、武のみ」


その声が、いつもより低い。


「なに、敵は山道を進んできた身。

我が鉄砲に備えて、歩兵しかおらぬ。


騎馬が暴れるには、格好の機会よ」


元親が、義経のもとへ駆け寄る。


「我が一領具足も、お供つかまつる!」


「おうよ」


義経の指が、手綱を握り直した。


「元親殿。

我らは、あの中央の島津勢を突き破る。


さすれば島津は、こぞって我らに襲いかかろう」


口の端が、さらに上がる。


「その時こそ――

一領具足に、両翼を叩いていただきたい」


「かしこまった、義経殿!」


間合いを詰めてくる島津勢へ、弓隊が再び一斉に射かける。


その足並みが鈍ったところで、陣の中央の門が開いた。


先頭に立って騎馬を率いるのは、義経である。

その後ろを、姪の里が、負けじと馬に鞭を打った。


義経の騎馬隊が、急ぎ槍を構える島津勢へ、猛然と突き入っていく。


その様を見送りながら、元親がひとり呟いた。


「……あれが、軍神か」


隣で、宝は目に涙をため、手を合わせていた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


源氏の主力が岸和田に敵を引きつけている間、雑賀へ向かったのは世良田元信でした。


頼朝軍の結成当初、太田道灌の部隊で副将を務めた男です。

のちに源頼光の副将として伊勢から京へ至る攻略戦で働き、伊賀上野の城代となりました。


その元信が用意していたのは、自軍を賄うには多すぎる輜重の列。

重秀を救うためだけに来たのではないことを、重秀はすぐに見抜きます。


雑賀から土佐へ。

毛利の目を逃れ、室戸の荒海を越えて。

細く危うい海路だけが、いま義経軍へ残された道でした。


そして重秀が口にしたのは、十日という数字。


宝が数えた米は、七日分。


策は尽き、矢玉も尽きかけました。

そのとき、義経の中で、武人の目が開きます。


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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