第四十六話 本願寺顕如の娘
雪深き甲斐、躑躅ヶ崎館。
縄を引かれて引き出されたのは、姿を消していた一人の女。
源頼光が誰より大切にしてきた妻にして――
本願寺顕如の、娘。
問い詰める太田道灌に、その女は静かに答える。
父の意向は、御仏の御心である、と。
天正十九年(1591年)、初頭。
甲斐、躑躅ヶ崎館。
雪はまだ深く、その日の冷え込みは、この冬でもきわだっていた。
一人の女が、縄を引かれて広間へ引き出された。
手荒く扱われたのであろう。
髪にまとわりついた雪は、まだ溶けきってはいなかった。
武田家の自滅ともいえる一族の悲劇のあと、この地には源頼光と太田道灌が軍を留め、国の安定に心を砕いてきた。
だが、その頼光が毒に倒れた。
急ぎ指揮を継いだ道灌は、内の混乱と、絶えぬ小さな反乱の始末に追われている。
縄を引いているのは、道灌の副将・上杉弓。
「いかがいたしますか」
弓の眼差しは、これ以上ないほどに硬い。
その視線の先で、道灌は苦い顔のまま、引き出された女を見つめていた。
「……悠殿……」
本願寺顕如の娘、悠。
源頼光が誰より大切にしてきた妻であり――そして、その頼光に毒を盛った疑いをかけられ、姿を消していた女であった。
悠は、口を開かない。
聞こえてくるのは、濡れた髪から落ちる雫が、床を打つ音だけであった。
やがて、弓が口を開く。
「多くの一向宗徒に囲まれ、甲斐の善光寺に潜んでおりました。
門徒が立ち入りを拒みましたゆえ……いささか、我が軍と刃を交えることに」
道灌は、深く息を吐いた。
そして、あらためて悠に声をかける。
「……なぜ、姿を消した」
悠が、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しは、ともに戦場を駆けてきた頃のものではなかった。
「……申し上げることは、何もございません」
「では――頼光殿を」
悠は視線を逸らし、答えない。
否定はしない。
その沈黙を見て、道灌は肘掛けに拳を立てた。
「なぜだ……!
頼光殿は、そなたを大切にされていた。
拙者の目にも、いや、誰の目にも――
睦まじき夫婦であったではないか……!」
悠が、道灌を見返す。
「父の、意向にございます。
父の意向とは、つまり――御仏の御心」
その一言が終わらぬうちに、弓の刀が鞘を走った。
切っ先が、悠の喉元に触れる。
「毒を盛るなど卑怯を働いて、何が御仏だ!」
夫・坂田金時を喪った傷は、まだ弓の中で癒えていない。
憎悪を抑えることが、どうしてもできなかった。
だが悠は、微動だにしなかった。
「……私も、死ぬつもりでおりました」
刃の下で、悠は静かに続ける。
「なれど、父の命で、門徒にかくまわれました」
道灌が目配せをする。
弓は、気持ちが収まらぬまま、刀を鞘へ戻した。
「石山本願寺は、我らが信長から守ろうと力を尽くしてきた。
頼光殿とそなたの婚姻とて――
顕如殿が、我らとの親交を盤石にするためのものではなかったのか」
道灌は、腹の底で煮えたぎるものを抑え、努めて静かに言葉を選んだ。
悠が、目を上げる。
「衆生とは、弱きもの。
武士に刀を突きつけられれば、何をすることもできませぬ」
言いながら、悠は弓を見た。
「何を……!」
「控えよ、弓殿」
道灌が制する。
「……悠殿。続けられよ」
悠は、しばし目を伏せた。
そして、口を開く。
「御仏は、民を極楽浄土へ導いてくださいます。
……なれど、この世で。
武家の刃から民を守っては、くださいませぬ」
道灌は、答えなかった。
「長島の門徒が、何をいたしましたか。
越前の門徒が、何をいたしましたか。
ただ、南無阿弥陀仏と唱えていただけにございます。
それが、なぜ、焼かれねばならぬのでしょう」
悠の声は、なお静かであった。
「父は、嘆いておりました。
武家の横暴によって、いたずらに落とされた命を。
そして、全国の門徒に誓ったのです。
必ず、仏敵を討ち果たすと」
「……信長のことか」
「はい」
そこで初めて、悠の声に、わずかな熱がこもった。
「ともに討つと信じていた源氏が、その信長を保護いたしました。
それのみか――
三河にて門徒を根こそぎ焼き、寺を毀った家康を。
頼朝様は、後継と定められた」
道灌の口が、動かなかった。
「頼朝殿は――」
ようやく絞り出した声も、そこで途切れる。
誰よりも民を思い、人の命を惜しんだ男であった。
そのことを、道灌は知っている。
悠とて、知っているはずである。
だが、いま言い返す言葉が、見つからなかった。
門徒にとって源氏が何であったか。
その一点を、考えたことがなかったのだ。
「……頼光殿に毒を盛って、それで何が変わるというのだ」
道灌が、声を落とした。
「……頼光様にしたことは」
悠の目が、ほんのわずかに揺れた。
「……源氏の力を削ぐための、父の計の――
一つに過ぎませぬ」
「一つに、過ぎぬ……?」
道灌が、その言葉を反芻する。
「源氏が日ノ本を治めることは、門徒のためにも、民のためにもなりませぬ。
仏敵を抱いた者の国と、してはならぬ。
それが、父の。
そして石山本願寺の、意にございます」
すぐには、呑み込めなかった。
これほどの源氏の軍団を相手に、石山本願寺ひとつで何ができるというのか。
道灌には、そうとしか思えない。
そこへ、弓が口を開いた。
「道灌様。
気にも留めておりませんでしたが……合点のいくことが、ございます」
弓の目は、悠から離れない。
「甲斐に、我らと敵対する勢力など、もはや残っておらぬはず。
それが、なぜか反乱が絶えませぬ。
調べましたところ、一向宗徒が糸を引いている節が。
――首謀者は、武田の旧臣ではございませぬ」
道灌が、立ち上がった。
「……では、武田の内乱も。
我らに家康殿への不信を抱かせたのも。
すべては、そなたたちの……!」
悠は俯いたまま、また口を閉ざす。
道灌の背に、汗が噴き出た。
「もしや――
我ら主力を、この雪深き甲斐に縛りつけておるのも」
雪の底に沈んだ館である。
道灌は、いま初めて、その静けさを恐ろしいと思った。
外へ出ようにも、峠は雪。
甲斐の外で何が起きているかも、この地には遅れてしか届かない。
知らぬうちに、動けぬところへ追い込まれていた。
道灌は、冷えた眼差しを悠へ戻す。
「――そなたを、頼光殿の前へ連れて参る」
それまで淡々としていた悠の身が、はじめて強張った。
「そ、それだけは……
お許しくださいませ」
深く、頭を下げる。
道灌は、容赦しなかった。
「弓殿。その者を引っ立てよ。
頼光殿のもとへ参る」
「……よろしいのですか。
頼光様のお体は」
「なに、命に別状はない。
それより――この者は、まだ何かを知っておる。
拙者では、聞き出せぬものを」
「かしこまりました」
弓が、乱暴に縄を引いた。
引かれてゆく悠の背を見ながら、道灌も廊下へ出る。
雪に埋もれた館は、底冷えがした。
それでも、道灌の背を伝う汗は、いつまでも引かなかった。
お読みいただきありがとうございました。
甲斐にて捕らえられたのは、頼光の妻・悠。
本願寺顕如の、娘でございました。
夫に毒を盛った理由を問われ、悠は父の名を口にします。
御仏は民を極楽浄土へ導いてくださる。
けれど、この世で武家の刃から民を守ってはくださらない。
長島の門徒も、越前の門徒も、ただ念仏を唱えていただけだったのに――
顕如が全国の門徒に誓ったのは、仏敵を討つこと。
その仏敵を、源氏は救い、
門徒を焼いた男を、頼朝は後継と定めた。
言い返す言葉を、道灌は持ちませんでした。
門徒にとって源氏が何であったか。
考えたことすら、なかったからです。
そして、甲斐に絶えぬ反乱の糸を引いていたのも、門徒たち。
雪深いこの地に主力が縛られていることさえ、はじめから――
道灌は、悠を頼光のもとへ連れて行くと告げます。
それまで眉ひとつ動かさなかった女が、そのときだけ、深く頭を下げました。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




