第四十四話 頼朝の残したもの
但馬、竹田城。
篠と、頼朝の遺した子らが、静かに暮らしていた山あい。
その地にもまた、毛利の大軍が押し寄せる。
――病の床にあったはずの男が、鎧をまとって立ち上がった。
「母上!」
廊下を鳴らして、鎧姿の頼家が駆け込んできた。
「豊国様の此隅山城が、毛利の大軍に囲まれましてございます。
鳥取城から、雪崩のごとく……!
間もなく、この竹田城にも……!」
篠は、繕い物の手を止めたまま、動けずにいた。
頼朝とともに歩み、ともに築き上げた軍団である。
その本拠に近い山名領が攻め込まれるなど、考えたこともなかった。
「そればかりではござらぬ。
京の街にも、火の手が上がっておるとの噂が……!」
「……いったい、何が……」
この若者は、鎌倉の世で修善寺に幽閉されていた。
刺客の手が伸びるその寸前に、出雲阿国が、この戦国の世へ導いた。
篠より、いくつも年上である。
それでも頼家は、初めて会ったその日から、躊躇なく篠を「母上」と呼んだ。
そこへ、鎧をまとった羽柴秀長が、背の高い実朝に肩を支えられて入ってきた。
「父上! ご無理は……」
「……頼朝様を殺め、そのうえ、お守りもできなんだ……
なれど――頼朝様のご子息と、御台所だけは……!」
咳き込みながら、それでも秀長の口の端は、上がっていた。
「とうとう牙を剥いたか、毛利め。
……なに、案ずることはない」
秀長を支えた実朝が、口を挟む。
「爺は以前より、山名領のあちこちに鉄砲を配しておられます。
天険の此隅山、そしてこの竹田城――
そう易々とは、落ちますまい」
得意げな顔を見せた秀長が、すぐに表情を引き締めた。
「じゃが、水を絶たれれば、山城はしまいよ。
水源を守る出城も、敵の目を欺く砦も、すでに築いてある」
「父上、そのようなお体で……いつの間に」
毎朝、袴を着けては、縁側で日を過ごしていた父である。
その父を、これほど頼もしいと思ったことはなかった。
「わしは手勢を率い、水源の出城にこもる。
命に代えても、水だけは守る」
「では、拙者も爺とともに!」
勢いよく立ち上がった頼家の、その腰に、篠は目を留めた。
父・頼朝の刀であった。
毎朝、飽きもせず磨いていた、あの刀。
いつでも佩けるよう、支度をしていたのだと――篠は、いまになって気づいた。
「……頼家様に万一のことがあれば、頼朝様に顔向けができませぬ。
ここは、父と私が出城へ参ります」
「はは、篠」
秀長が笑った。
「御台所は、何かあった折の、大将の代わりぞ。
戦の行方は、実朝様とともに、この城から見ておられよ」
「しかし、父上……」
「篠。
頼家様の武、実朝様の智……大したものじゃ。
危うくなれば、頼家様とともに城へ退く。
案ずるな」
頼家も、腰の刀に手を添え、立ち上がる。
「母上、御心配には及びませぬぞ。
名参謀の爺の傍らにおれば、何の憂いもございませぬ!」
秀長は、その横顔を、嬉しそうに眺めていた。
「では実朝様には、武具と兵糧の差配を。
戦がお嫌いなのは存じておりますが……その才ばかりは、隠せませぬな」
実朝は、秀長の肩を頼家に譲り、その前に膝をついた。
「爺。
有事とあらば、是非もございませぬ。
本城と出城、砦との繋ぎ、そして兵糧は、拙者にお任せを。
母上のことも、どうぞご安心を」
言い終えて、実朝はふと、開いた障子の向こうへ目をやった。
朝の谷を、白い雲が、ゆっくりと流れている。
雲海に浮かぶこの城の姿を歌に詠んだのは、つい先日のことであった。
秀長は、頼朝の息子たちを交互に眺め、何度も頷いていた。
篠は、それ以上は言わなかった。
いざとなれば、自らが鉄砲隊を率いて出る。
そう腹を決めていた。
何よりも――
長くはないと覚悟していた父に、ふたたび命の灯がともって見えた。
「では、皆様。
援軍が参るまで、どうかご無理のなきよう……」
篠は、一同に深く頭を下げた。
***
皆が去ったあとも、篠は天守から、但馬の山々を眺めていた。
「梓様……」
義経不在の京が襲われているならば、二条城とて無事ではあるまい。
牛一と早雲が、本丸だけはと備えを施していたはず。
それでも、主力の抜けたあの城が、いまどうなっているのか。
やがて城門が開き、支城へ向かう隊が、次々と山を下ってゆく。
その一つの先頭に、頼家の姿があった。
輿を守るように、慎重に、慎重に進んでいく。
篠にも、皆にも、分かっている。
しばらく持ち堪えたところで、援軍がなければ、但馬など容易く落ちることを。
***
その頃の、二条城。
本丸には、無数の鉄砲銃眼が穿たれていた。
入り組んだ侵入路を這うように近づく敵を、そのたび銃眼が捉え、撃ち落としてゆく。
「早雲殿と牛一殿が、本丸だけはと申されておったが……さすがじゃ」
大内義興は、銃眼の脇に、火縄をつけた鉄砲を何挺も並べていた。
「なれど――このままでは、持たぬな」
すでに万を超える兵が、本丸に迫っている。
城壁に取りつくのは、時の問題であった。
やがて、城郭が大きく揺らいだ。
本願寺も、大筒を城内へ引き入れたらしい。
「おのれ、堺の連中め……!
常に、潮目を読みおるか……」
間を置かず、二発目が本丸に直撃する。
城郭の一部が飛び散り、その周りの銃眼で鉄砲を構えていた兵たちが、次々と倒れた。
その中に、弥助の姿があった。
「弥助殿!
そなたが倒れては、梓様を誰が守るのじゃ!
立て、弥助殿……!」
義興は、その場を離れられなかった。
敵の攻めは、絶え間なく続いている。
鉄砲を放ちながら、なお叫び続けた。
返る声は、なかった。
***
倒れたまま、弥助は動けずにいた。
苦笑いが、こぼれる。
「……まこと、役立たずよ……」
声になっていたかどうか、自分でも分からなかった。
「先の世では……信長様を、お守りできず……
この世では……梓様も、お守りできぬとは……」
そのとき、あらたな爆発音が響いた。
それを境に、敵の攻めの勢いが、なぜか弱まってゆく。
薄れゆく意識の底に、見慣れた黒い鎧が近づいてくるのが見えた。
……ついに、幻まで見えるようになったか……
「しっかりせよ、弥助」
弥助の前に立っていたのは――
信長であった。
お読みいただきありがとうございました。
毛利が牙を剥いたのは、京だけではございませんでした。
篠と子らの暮らす但馬にも、大軍が迫ります。
縁側までしか歩けなかった秀長が、鎧を着けて立ちました。
命に代えても、水源は守る――
頼朝への負い目を抱えたまま生きてきたこの男に、
ようやく、命の使いどころが訪れたのかもしれません。
頼家が腰に佩いたのは、毎朝ひたすらに磨いていた、父の刀。
実朝が駆け回るその城は、つい先日、歌に詠んだばかりの雲海の城。
頼朝が残したものは、確かに、あの地で育っておりました。
そして、京では。
「先の世では信長様を守れず、この世では梓様も守れぬ」
そう嘆いて倒れた弥助の前に……
次は、四国へ。
高台から二万の軍を見下ろしていた義経のもとへ、いま、報せが向かいます。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




