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第四十三話 敗北の連鎖

心の清算のつもりであった。


されど牢の中の男は、家康の知らぬことを、あまりに多く知っていた。


四国も、京も、東も――

すべては、一人の男が描いた絵。


その絵の中に、家康は、己の姿を見つけることになる。

「長宗我部元親が義経に臣従したのは、顕如様には思わぬ恵みでござった」


本多正信は、感情を表に出さぬ、無表情な面持ちに戻っていた。


「どういうことじゃ……」


自らの一挙手一投足すら、本願寺顕如と正信の手の上で踊らされていたのか――

拳に力を込め、家康は正信を睨みつけた。


「四国を島津、大友、毛利で抑え、西より大挙して山城へ攻め入る。

それが、顕如様の当初の計画でござった」


「……そこまでしても、義経様の軍は手強い。


だが、長宗我部が臣従したことで、九州から四国へ軍を差し向ければ――

義経様は自ら、援軍に出られる。


そう、読んだか……!」


「今頃、二条城は。

味方と信じておられた顕如様と、毛利に、焼かれておりましょうな」


正信は、京の惨状を他人事のように語る。

その口は、なお止まらない。


「毛利は四国へ攻め入り、大軍を送った義経の補給路を断ちまする。

大友・島津が義経を釘付けにしておけば――義経は、干上がりまする」


「長宗我部の臣従が、戦を避けると信じておった……

それが、顕如を利するだけであったとは……!」


家康は目を閉じ、呼吸を整えた。


「だが――甲斐に駐屯する源頼光殿の精鋭が戦線に合流すれば、補給路をこじ開けるなど、造作もなきこと。

……せいぜい、悪あがきをするがよいわ」


家康はすでに、顕如の底知れなさを、身体で受け止めていた。

真冬だというのに、背がじっとりと汗ばんでいる。

それでも――正信に噛みつく隙を、いや、窮地の源氏の突破口を、必死に探していた。


しかし正信は、すべてを承知しているかのように、動じる気配もない。


「殿……

頼光の奥方が、どなたかご存じか」


家康は、はっとした。


「……まさか……!」


「顕如様の愛娘、悠様でござる。

今頃、頼光も無事ではございますまい」


「……そこまで……

手を回しておるのか……」


家康の身体が、震えていた。


「……正信。

伊達、佐竹、最上、南部――東北の連合も、顕如の手引きか」


正信は、否定をしない。


「そうか……」


家康は、大きく息を吸い込んだ。

抗う言葉が、もう出てこなかった。


「外に連合を組ませ、内からは梓様を、義経様の心を、そして頼光殿までも……」


そこで、言葉が続かなくなった。

数え上げるほどに、絵の大きさが、家康自身を呑み込んでいく。


「……見事だな。

本願寺、顕如……!」


静まったはずの声が、言い終わるころには、また熱を帯びていた。

家康は、自らの刀を地に叩きつける。


「しかし、なぜじゃ、正信……

顕如が信長公に圧迫されておった折、手を差し伸べたのは、頼朝殿ではないのか……!」


正信の口の端が、わずかに上がった。


「頼朝がいかに甘いか、殿には幾度も申し上げてまいりました。

その頼朝が――死ぬ前に、何をいたしたか」


正信は、そこで口を閉じる。

家康の顔を、じっと見ている。


謎かけに付き合わされるのは、屈辱であった。

奥歯を噛みしめたまま睨み続ける家康に、正信はようやく口を開いた。


「顕如様にとっては――

何万という信者の無念を晴らし、仏敵を討ち果たす、またとなき機会でござった。


それを、頼朝と義経が、奪い申した」


頼朝の臨終の直前。

本願寺顕如は、風前の灯であった信長を攻め滅ぼさんと、軍を起こした。

本願寺への援軍という体裁を整えつつ、その実、信長を救えと――

参謀の源宝に入れ知恵したのは、ほかならぬ、家康自身であった。


背を流れる汗が、さらに冷たくなる。


「それを援軍と称し、頼朝の軍勢が信長の身柄を保護。

義経もまた、再三の引き渡しの求めを拒み申した。


顕如様は、全国の信徒に、顔向けができませぬ」


「……わしが」


声が、掠れた。


「わしが……顕如の恨みを、生んだのか……」


家康の目から、怒りが失せていた。

それどころか、目の奥の光そのものが、弱まっていくようであった。


「正信……

貴様は、ずっと顕如の手先として、わがもとに留まっておったのか」


「ただ、殿の御ため。

全身全霊を捧げて参りました。


顕如様への忠義など、ござらぬ」


それまで微動だにせず語っていた正信が、わずかに足を前へ出した。


「拙者とて、加担するかは迷うており申した。

なれど――京にて義経を見たとき、確信いたしました」


正信が、牢の鉄格子に手をかける。

その目が、見開かれた。


「義経は、器にあらず。

殿が立ち上がられることこそ、天下万民のためでござる……!


頼朝の引いた甘き道を、殿が歩まれることはござらぬ。

殿が導く軍団が立ってこそ――皆が、殿について参るのです……!」


言葉に熱がこもるのを、家康は、初めて見た気がした。


「わしは……

わしは、軍勢を率いて、京都をお救い申し上げる!

間に合わぬやもしれぬ。

なれど、何もせずば――顔向けができぬわ!」


「誰に対する、顔向けでござるか。


亡霊は、何もいたしませぬぞ」


「義経様が死んだと、決まったわけではないわ……!」


家康が、刀を正信に向けた。


正信は、その刃先へ、自ら喉元を押し当てる。


「殿のお手にかかるならば――

拙者、本望にござる」


時が止まったような、静寂であった。


家康には、分かっていた。

この男は常に、己への忠義だけで動く。

主と考えが違えたときは、すべての責めを引き受け、命を落とす覚悟でいることも。


家康の手から、刀が落ちた。

同時に、身体から力が抜け、牢の前で、尻もちをつく。


「わしは……

いかがいたせばよい、正信……」


呟きであった。


「東北の諸国が、こぞって北関東を押しておりまする。

北条だけでは、とうてい太刀打ちできますまい。


殿が京へ向かわれずとも――誰も、文句は申しますまい」


考える力さえ失せたのか、家康はただ、正信を眺めていた。


「ここで義経が危機を乗り越えたならば、拙者とて、一目置きましょう。


源氏がここで大きく崩れたときは――

殿が、自ら前に立たれませ。


まずは関東を守り、成り行きを……」


その言葉を聞いたのか、聞かなかったのか。

しばらくして、家康は立ち上がった。


落とした刀を拾い、ゆっくりと牢を離れる。


牢の外は、冷え込んでいた。

雪が舞い、すべてが白く覆われ、静まりかえっている。


それでも家康は、雪の深さも、闇の冷たさも、何も感じてはいなかった。

ただ馬にまたがり、来た道を、引き返していった。


挿絵(By みてみん)


お読みいただきありがとうございました。


顕如の描いた絵の全容が、正信の口から明かされました。


長宗我部の臣従すら、思わぬ恵み。

毛利が補給を断ち、大友・島津が釘付けにして、義経を干上がらせる。

頼光の奥方は、顕如の愛娘。

東北の連合もまた、同じ手のうちに。


そして――

その恨みの源をつくったのは、ほかならぬ家康自身でありました。


風前の灯であった信長を、援軍と称して救う。

あの機転が、何万という門徒の無念を宙に浮かせ、

この大乱の火種となったのです。


義経は器にあらず、殿が立たれませ――

そう説く正信に、家康は刀を向けました。


向けたはずの刀が、なぜ落ちたのか。


牢を出た家康の目に、雪は映っておりません。


盤は、すでに動き始めています。

西でも、東でも……


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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