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第三十九話 尼僧の祈り

四国の山では、いまも硝煙が上がっている。


だが京の町は、冬支度の音に満ちていた。


その大路を、若い尼僧が、ひとり歩いてゆく。

町人が頭を下げ、尼僧も静かに手を合わせる。


その尼が、かつてこの京のために力を尽くしていたことを――

誰も、知らない。

京の紅葉も、終わりを迎えようとしていた。


東山の木々には、まだ赤が残っている。

だが町人たちの目は、もはや紅葉ではなく、冬へ向いていた。


大路には、薪を積んだ荷車。

炭俵を抱えた商人。

子どもたちが、白い息を吐きながら駆けてゆく。


鍛冶屋からは、鉄を打つ音。

豆腐屋からは、湯気。

寺では、冬支度の鐘が響いた。


***


「随分と、賑やかですこと……」


若い尼僧が、京の町並みに目を細め、微笑んでいた。

緩やかな風に、黒い袈裟と白い被衣かづきが、静かにたなびく。


「尼様だ」


「……お若い尼様じゃのぉ」


町人が頭を下げる。

尼僧も、静かに手を合わせた。


その尼が、かつてこの京のために力を尽くしていたことは、誰も知らない。


挿絵(By みてみん)


尼僧は、二条城の城門まで歩を進めた。

門の前で仁王立ちする兵に、軽く頭を下げる。


門番は、一瞬、その顔を覗き込んだ。

次の瞬間、背筋が伸びる。


「これは……!」


「梓様に、お会いできますか」


「は! 中へ、お入りを!」


挿絵(By みてみん)


***


武田梓は、二条城天守の一室で、着物の裾を整えていた。


廊下の向こうから、静かな足音。

やがて、部屋に尼僧が現れる。


白い被衣から覗く、優しい微笑み――

亡き頼朝の妻、篠であった。


挿絵(By みてみん)


「篠様……お変わりございませんでしたか」


「お陰様で」


篠は穏やかに微笑み、静かに頷いた。


「梢様のご配慮もあって、山名家には本当によくしていただいております。

贅沢で穏やかな日々を、過ごしております」


山名梢は、山名家当主・山名豊国の娘。

山名家が頼朝軍に臣従した際、梢は頼朝の養女となったが、頼朝亡きあと、山名家に戻っていた。

それでも、頼朝存命中に篠や秀長から受けた恩義を忘れず、病床の秀長と傷心の篠を迎え入れるべく、父・豊国に掛け合ったのだった。


「それよりも、お子を授かられたとお聞きしました。

我がことのように、嬉しゅうございます」


篠は、心から喜んでいる。

梓には、それが伝わった。


だが――

幼き頃に頼朝へ嫁ぎ、献身のかぎりを尽くしながら、ついに子を授からなかった篠。

最愛の頼朝を失い、二十歳という若さで、髪を下ろした篠。


恐縮して頭を下げながらも、梓は、返す言葉を探していた。


その様子を察したように、篠が言葉を継ぐ。


「私は、梓様より少しだけ早く、母の喜びを知ることができました。

母と申しても……年下の、義母ですけどね」


「頼家様と、実朝様……でございますか」


「はい……」


篠が、嬉しそうに目を細める。


「私は、頼朝様の妻でございます。

血は繋がらずとも、歳が若くとも――

私は、あのお二人の母親です」


ふふっ、と篠が笑った。

梓の表情も、緩む。


「何よりでございます。

頼家様も実朝様も、突然この時代に連れられ、すぐに頼朝様のご最期に立ち会われて……

篠様がいらっしゃらなければ、路頭に迷われていたことでしょう」


「頼家様は、頼朝様の刀を、それは熱心に磨いておられます。


反対に、実朝様は、本ばかり読んでおられて……

雲海に浮かぶ竹田城の姿を歌に詠まれて、山名豊国様も、いたく感激しておいででした」


篠は、そこで一度、言葉を切った。


「でも、お二人とも――

間違いなく、頼朝様の血を引いておられます」


我が子を語る、母の目だった。

篠の姿は、そのように梓に映っていた。


「お父上、秀長様のご容態は、いかがですか」


「おかげさまで、少し歩けるようには……」


篠は微笑んだ。

だが、その言葉の終わりが、わずかに掠れた。


「……縁側まで、でございますけれど」


梓は、返す言葉を呑んだ。


「先の秋には、庭の梅まで歩いておりました。

その前の冬は、馬にも乗れましたのに」


篠は、膝の上で指を揃えた。


「それでも父は、朝になると必ず、袴を着けるのです……」


窓の外を、冬の風が過ぎていく。


「義経様のお役に立てぬのが、無念だと。

そればかりを申しております。


でも――父が案じておりましたのは、

梓様のことでした」


「私の……ことでございますか」


篠が、静かに頷く。


「申し上げるまでもなく、義経様がお苦しみになるだろうと、頼朝様は最後まで心を痛めておられました。

父と顔を合わせるたび、『義経を頼む』と、そればかり……」


かつて頼朝と過ごした日々を辿るように、篠は部屋の中を見回した。


挿絵(By みてみん)


その微笑みに、ふと、影が差す。


「今の義経様のお役目は、たとえ道筋が見えずとも、義経様にしかできぬお役目。


なれど――

真っすぐで、すべてを失った記憶の消えぬ義経様には、本来、向かぬお役目でもございます。


だからこそ、梓様のこともよく知る頼朝様も、父も――

梓様の支えなくば、義経様は持ちこたえられぬであろうと……」


梓は、思わず項垂うなだれた。


「私は……何も、できておりませぬ。

篠様が頼朝様をお支えになられたようには……とても……


そればかりか、私がしゃしゃり出たせいで、朝廷内に義経様の悪評まで生んでしまいました。

義経様は、妻なくば何もできぬ、と……」


肩肘を張って、義経を支え続けてきた。

その自分を、見ていてくれた人がいた。

それだけのことで、なぜか、張り詰めていたものが緩みそうになる。

梓は、慌てて心を引き締めた。


篠は、寂しげに微笑む。


「そのお噂は、私の耳にも」


そして今度は、梓の目を、しっかりと見た。


「でも……

義経様にできぬこと、弱きところを、支える。

義経様には、義経様にしかできぬことに、力を注いでいただく。


それも、武家の妻の務め。

他人が何を申そうと――そうではございませぬか」


篠は、少しだけ声を和らげた。


「その噂を耳にした父は、梓様を案じながらも、

『これで義経様も安心じゃ』と、申しておりましたよ」


引き締めたはずの手綱が、その一言で、緩んだ。


――秀長様は、義経様を見捨てられたのではなかった。


そう思った瞬間、梓の目から、大粒の涙が溢れた。


自分でも、どうしてか分からなかった。

ただ……悲しくて流れる涙では、なかった。


義経が、よく口にする言葉がある。

皆が、自らの下を去ってゆく、と。


阿国も、トモミクも、そして秀長も。

頼朝の腹心中の腹心たちが、次々に去った。

その絶望を、義経の隣で、梓もまた分かち合ってきた。


だが、秀長は、去ったのではなかった。

本当の病。

そして、義経を支えられない無念を日々口にしていた。


ならば阿国にも、トモミクにも、きっと何か事情があったに違いない。

誰も、義経を捨ててなどいない。


そう思えた途端、涙は、いよいよ止まらなくなった。


義経を支えることだけに心を尽くし、

その自分がどれほど独りであったかに、梓は、いま初めて気がついた。

そして――

その独りを、篠も、秀長も、そして頼朝も、見ていてくれたのだ。


梓は、涙を止める術を知らなかった。


やがて篠が、ゆっくりと歩み寄り、そっと両腕を、梓に回した。


「梓様は……おひとりでは、ありませんよ。


梓様より歳は若くとも、この篠は――

梓様の、姉でもあります」


年下の篠は、母であり、そして――

姉であった。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


四国の戦場から、いったん京へ。

訪ねてきたのは、二十歳で髪を下ろした尼僧――篠でした。


血は繋がらずとも、歳が若くとも、母である。

そう語る篠の口から、山名で暮らす頼家と実朝の日々が零れます。

刀を磨く兄と、本を読み、雲海の城を歌に詠む弟。

頼朝が遺したものは、確かに、あの地で育っておりました。


そして、秀長のこと。

朝になると必ず袴を着ける、その父の姿を、篠は静かに語ります。


秀長は、義経を見限ったのではなかった。

それを知ったとき、梓の張り詰めていたものが、ほどけました。


義経がいつも口にする、皆が去ってゆくという言葉。

その隣で、同じ絶望を分かち合ってきた妻の孤独。

義経自身は、まだ知りません。


年下の姉に抱かれて泣く梓を、しばしお見守りください。

戦の音が届かぬ、つかの間の刻……


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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