第三十八話 伏兵の伏兵
先手を餌に、伏兵を釣る。
島津の、山を知り尽くした戦であった。
ならば――と、鈴木重秀は一手を返す。
囮は、殺さぬ。通す。
そして、山の腹で詰まったところを、撃つ。
伏兵を、伏兵で食う。
負けぬための、捨て身の策が始まる。
「一つ目の伏せ場は捨てよ!
尾根の裏へ退けッ!」
雑賀衆が、仲間を引きずるようにして退がる。
一領具足も、倒木の向こうへ退いた。
だが、島津兵は追ってくる。
元親の家臣が、槍を手に前へ出ようとした。
「押し返しまする!」
「ならぬ!」
元親が、鋭く止めた。
「山を出るな!
押し返せば、あの筒の餌じゃ!」
言い終わらぬうちに、谷底で大筒が火を噴いた。
先ほどまで味方が潜んでいた斜面が、砕ける。
あの場に留まっていれば、幾人が吹き飛んでいたか。
元親は、唇を噛んだ。
島津の先手は、ただ死にに来たのではない。
山の口をこじ開けるための、死兵であった。
その死兵へ伏撃をかければ、こちらの伏せ場を、敵の大筒に教えることになる。
「重秀殿」
呼びかけに、重秀はすぐには答えなかった。
退いてくる雑賀衆と一領具足の、傷ついた列を見ている。
肩を押さえる者。
火縄を失った者。
血で頬を濡らした若い兵。
仲間を背負い、歯を食いしばる者。
「……敵の、勝ちですな」
ようやく、重秀が重い口を開いた。
その目に、静かな怒りが宿っていた。
「先手を餌にして、こちらの伏せ場を、釣り上げられました」
元親は、山道を見下ろす。
島津勢は、なお深追いしてこない。
伏兵を追い散らすと、すぐに足を止め、盾と竹束の陰へ戻っていく。
そして大筒が、また一歩、前へ出ようとしていた。
「厄介じゃ」
元親が、低く言った。
「命知らずの、強いだけの軍ではないわ」
「島津は――山の戦を、知っておりますな」
重秀は、火縄の先へ、ゆっくりと目を落とした。
「こちらが山を知るように、向こうもまた、山で人を殺す術を知っておる」
元親は、返り血を浴びた一領具足の若者へ、目をやった。
若者は悔しさに顔を歪めながら、なお槍を握り直そうとしている。
一領具足だけでは、歯が立たぬ。
その屈辱を噛みしめる間もなく、元親は生き残る道を探した。
「次は、どうする」
重秀は、しばらく黙っていた。
砲声が遠く響き、土佐街道の入口に、また土煙が上がる。
敵は、焦っていない。
死を覚悟した先兵が、確実に山をこじ開けていく。
やがて重秀は、地面に膝をつき、指で山道の線を引いた。
「囮を、殺してはなりませぬ」
元親の目が、重秀へ向く。
「通すのか」
「はい」
重秀は、山道の入口を指した。
「最初の先手は、通す。
撃たず、石も落とさず、声も出さず……」
一領具足の幾人かが、驚いて重秀を見た。
「では、抜かれまする!」
重秀は、その若い兵へ目を向け、口の端を上げた。
「怖いか。
……わが雑賀衆とて、同じよ」
声は低く、しかし揺るがなかった。
「奴らの後ろの、本命を待つ。
先手が進み、道が狭まり、本隊が坂へ入り、進むも退くもならぬところで――」
重秀の指が、山道の中ほどで止まった。
「そこを、撃つ」
元親は、その線を見つめた。
「先手を餌にした敵を、今度はこちらが、餌にする――」
「はい」
「ひとつ間違えれば……我らは、全滅じゃな」
元親の口元が、わずかに上がる。
だが、ほかに策はなかった。
「一領具足には、道を殺していただきたい」
重秀は、山の奥へ目をやった。
「橋を外し、木を倒し、石を浮かせ、泥へ誘う」
元親は、深く頷いた。
「勝てる戦ではない、ということじゃな」
「今は――勝つ戦では、ございませぬ」
砲煙の薄れた向こうで、島津十字紋の旗が揺れている。
「義経殿が来るまで。
負けぬ戦を、するだけにございます」
重秀は、眼下の敵を見据えたまま、低く呟いた。
***
やがて、島津の先手が、再び山道へ突入してきた。
重秀の言葉どおり、雑賀衆は撃たなかった。
一領具足も、石を落とさず、声も上げない。
息を殺し、ただ、通す。
元親は、本陣からその一部始終を見ていた。
己の陣へ、敵が土足で踏み込んでくるのを、手をこまねいて見ているに等しい。
近くを守る近衛の兵さえ、恐怖に肩を震わせている。
それでも、撃たせぬ。
先手が進む。
道が狭まる。
一領具足が夜のうちに殺しておいた道が、島津兵の足をわずかに縺れさせる。
外された橋、倒された木、浮いた石。
敵は、進んでいるつもりで、山の腹へ、少しずつ呑まれていく。
元親は、拳を握りしめた。
まだか。
まだ、撃たぬのか。
先手の後ろから、本隊が坂へ入った。
狭まった山道に、島津の兵が、みっしりと詰まる。
進むも退くも、ならぬ。
その時であった。
「――撃てッ!」
重秀の声が、山を裂いた。
左右の斜面から、雑賀衆の鉄砲が一斉に鳴る。
狭い道に詰まった島津勢へ、逃げ場のない弾が、次々と吸い込まれた。
一領具足が、上から岩と土砂を落とす。
倒木が滑り、竹束ごと、敵兵を谷へ押し流していく。
山道が、島津の血と硝煙で、白く霞んだ。
元親は、思わず腰を浮かせた。
重秀の策が、効いている。
――だが。
次の瞬間、重秀が声を上げた。
「退けッ! 急げ、退けッ!」
元親の安堵は、一瞬のことであった。
……島津は、待っていた。
血煙の奥から、別の一隊が、湧いた。
味方の屍を踏み越え、その骸を盾にして、身軽な兵が斜面へ取り付いてくる。
撃ったばかりの雑賀衆の位置は、いま放った白煙で、露わになっていた。
逃げ遅れた雑賀衆が斬り込まれる。
一領具足が槍で受けるが、勢いづく島津の山岳部隊は止まらない。
「チェストぉ!」
島津兵の雄叫びは、一領具足たちの心すら折る。
元親は、総身が冷えた。
こちらが敵を伏兵で食えば、敵もまた、伏兵の後ろに伏兵を置いている。
どこまで掘っても、その下に、島津がいる。
元親は、傍の重秀に目をむかた。
この男がいなければ――
その先は、考えたくもなかった。
***
島津の攻めが、いったんおさまった。
屍を重ね、敵の被害も、軽くはなかったのだ。
元親は、煤に黒く汚れた頬で、荒く息をついた。
「やはり……強い」
隣の重秀も、火薬にまみれた顔をしている。
「策の読み合いで、五分。
兵の数で、圧倒的に負ける。
残るは――地の利、だけじゃな」
「この先の山は、さらに入り組んでおりまする」
重秀は後ろの山を見上げ、しかしすぐ、厳しい眼差しに戻った。
「なれど、敵のあの多彩な攻めに応じるには、我らも手勢を割かねばなりませぬ。
割けば、一度に討てる数は、減りまする……」
元親は、重秀の肩に手を置いた。
「それでも――雑賀衆が、頼りじゃ」
さすがの重秀も、苦い笑みをこぼした。
「義経殿が着くまでは、なんとか、持たせましょう」
***
その後も、島津・大友の大掛かりな攻めを、一領具足と雑賀衆は、巧みな伏兵で幾度もしのいだ。
それでも、兵を減らし、血を流し、じりじりと、後退を余儀なくされていく。
そこへ――
緒戦の戦いでの傷が癒えぬままに、長宗我部信親が馬を駆ってきた。
「源氏の援軍、河後森城に到着いたしました!」
矢傷を負った身で本陣に留まっていた元親と重秀は、目を見合わせた。
「……長かったな」
黒く煤んだ頬に、元親が白い歯を見せる。
「なれど、すぐには陣を畳めませぬな。
元親殿は、城へお戻りを。
拙者は敵の足を止めながら、少しずつ、退きまする」
「恩に着る、重秀殿」
元親は馬を引き、信親とともに、河後森城へ急いだ。
背後で、あらたな雷鳴が、山肌を震わせる。
元親は、振り返らなかった。
ただ、馬に鞭を打った。
お読みいただきありがとうございました。
島津の捨て身の戦法に、鈴木重秀は、伏兵を伏兵で食う一手で応じました。
囮を通し、山道の中ほどで叩く――その策は、確かに効きました。
されど、島津は、その裏にもう一段の伏兵を潜ませておりました。
こちらが伏兵を伏兵で食えば、敵もまた、伏兵の後ろに伏兵を置く。
どこまで掘っても、その下に、島津がいる。
策の読み合いで、五分。
兵の数で、圧倒的に劣る。
元親と重秀に残されたのは、地の利だけ。
それでも二人は、血を流し、兵を減らしながら、一歩ずつ退いて、時を稼ぎます。
「義経殿が着くまでは、なんとか持たせましょう」
その言葉を、支えとして。
そして――
源氏の援軍、河後森に到着――
長かった四国の緒戦に、ようやく一条の光が差します。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




