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第三十七話 鉄の筒と強兵

夜が明けても、島津・大友は動かなかった。


霧の谷底で、敵が据えたのは――丸串を砕いた、あの鉄の筒。

山を砕くには足りずとも、兵の心を砕くには、十分であった。


歴戦の元親をもってしても、底の見えぬ戦が、始まる。

夜が明けても、島津・大友の軍は動かなかった。


長宗我部元親は、河後森へ続く山道の上から、谷を見下ろしていた。

冬の朝霧が谷底に低く溜まり、敵の陣を半ば隠している。


昨日、追撃してきた島津勢は、土佐街道の入口で雑賀衆の伏撃を受け、谷へ転がり落ちた。

火縄の白煙が山道を覆い、あの猛りきった兵たちの足を、確かに止めたはずであった。


だが、敵は退いていない。

霧の向こうで、止まっている。


その静けさが、元親には、昨日の鬨の声よりも不気味であった。


隣で、鈴木重秀が目を細めた。


「……来ますな」


「攻めてくるか」


「いえ」


重秀は、谷底を見たまま、静かに言った。


「山を、殺しに来まする」


挿絵(By みてみん)


元親は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。


やがて霧が薄れ、敵陣の形が滲み出す。

島津の兵が前に出ていた。

だが、昨日のように山道へ無造作に踏み込んでくる気配はない。


竹束を抱えた者。

盾を並べる者。

荷車を縄で固定する者。

そして、その後ろに――大筒があった。


丸串を砕いたものよりは、小さい。

だが、山へ引き入れるために、あえて選ばれたのであろう。

車に据えられた筒が数門、山道の入口へ、ゆっくりと向きを変えていた。


元親の背後で、一領具足たちが息を呑む気配がした。


あの鉄の筒……

丸串の城壁を割り、櫓を裂き、兵の叫びを業火の中へ呑み込んだ。

それが今、城ではなく、土と木と石でできたこの山道に、向けられている。


「……あれが、丸串を砕いた大筒か」


「山を砕くには、足りませぬ」


重秀が、低く言った。


「されど――兵の心を砕くには、十分にございましょう」


元親は、答えなかった。

答えれば、己の声が震えることを、知っていたからである。


***


「伏せよ」


重秀の声は、静かだった。


「まだ撃つな。誰も、撃つな」


雑賀衆は山腹の陰で火縄を守り、一領具足は尾根の裏、岩陰、倒木の後ろに身を沈めた。


敵は、こちらが撃つのを待っているかのようであった。

昨日と同じ戦をしてはならぬ――そう己に言い聞かせながら、元親は谷を睨んだ。


谷底で、大友の指揮官が軍配を上げた。


直後、轟音が山を叩いた。


山道の入口の杉が、幹の半ばから裂ける。

土が跳ね、石が弾け、砂が雨のように降りかかった。

一発では終わらない。

二発、三発と、大筒が続けざまに火を噴く。


砲弾は、伏兵の潜みそうな場所を、一つずつ潰していった。

昨日、雑賀衆が火を放った斜面。

人が隠れられそうな藪。

わざと残しておいた焚き火の跡。

そのことごとくが、黒い土ごと、掻き消されていく。


「あそこには……昨夜まで、兵がおりました」


若い一領具足が、掠れた声で言った。


重秀は、答えなかった。

ただ、砲煙の向こうを、じっと見ている。


伏兵がいてもおかしくないところを全て撃つ、こちらに思い知らせるための砲撃だ。

撃たれるたびに、兵の一人一人が、己の隠れる岩陰を、信じられなくなっていく。


山を砕けずとも、心は砕ける。

重秀の言葉の意味が、元親の腹に、重く落ちた。


やがて砲声がやむと、敵陣から鬨の声が上がった。

島津の先手が、盾を掲げ、ゆっくりと山道の入口へ進み出る。


「重秀殿」


「はっ」


「これは、昨日までの戦とは、違うな」


「敵も、昨日の敵ではございませぬ」


重秀は、砲煙の向こうを見据えたまま言った。


「向こうも、学んでおりまする」


元親は、拳を握った。

しかし、口の端をあげ、重秀に顔を向ける。


「……強敵、じゃな」


重秀も微かに笑みを浮かべながら頷く。


「まずは――敵が何を捨ててくるか、見極めましょうぞ」


その言葉の終わらぬうちに、島津の鬨が、山道に響いた。


***


先手の勢いは、ただの斥候のものではなかった。


盾持ちが前に出て、竹束の兵が脇を固め、槍を短く持った軽装の兵が、低い姿勢で山道の端を駆け上がる。

昨日、雑賀衆の鉄砲に足を止められた同じ軍とは、元親には思えなかった。

砲撃で入口を荒らした、その土煙を突き破るように、飛び込んでくる。


倒れても、後ろの兵が、すぐにその盾を拾う。

一人斃れれば、一人が前へ出る。


緒戦で味わった、あの島津の恐ろしさ。

それが、山道を這い上がってくる。


「このままでは、入口を抜かれまする!」


家臣の叫びに、元親は歯を食いしばった。

敵の真意が、元親には見えていなかった。

その一瞬の逡巡を、島津の先手は、さらに十間、詰めてきた。


「殿!」


元親は、軍配を握りしめた。


「……撃て」


その一言を待っていたように、山が火を噴いた。


挿絵(By みてみん)


左右の斜面から、雑賀衆の鉄砲が一斉に鳴る。

白煙が岩陰から吹き出し、島津の盾持ちが、次々と倒れた。

一領具足が上から石を落とし、倒木が斜面を滑って、竹束ごと敵兵を谷へ押し流す。


「かかれ!」


山道の脇から、槍を構えた一領具足が飛び出した。

島津の強兵が、崩れる。


止められる――

そう思って、元親の胸に、わずかな安堵が差した。


だが、重秀だけは、表情を変えなかった。


「早い」


「何がじゃ」


「崩れ方が、早すぎまする」


次の瞬間だった。


白煙の奥から、別の影が走った。

倒れた盾持ちの、さらに後ろ。

霧に沈んでいた山裾から、島津の兵が一斉に、斜面へ取り付いた。


鎧は軽く、槍は短い。

刀を抜いた者もいる。

山道を正面から来ず、伏兵の潜む左右の斜面へ、獣のように駆け上がってくる。


元親は、背筋が凍った。


さきほど火を噴いた火縄の煙。

石を落とした場所。

槍兵の飛び出した横道。

そのすべてを、敵は見ていた。


先手の崩れは、伏兵を炙り出すための、捨て石であったのだ。


「しまった……!」


雑賀衆の一隊が、再び玉を込める間もなく、斬り込まれる。

火縄を握ったまま、刀を抜く暇もなく、兵が倒れた。

一領具足が槍で受けるが、敵は盾を捨て、身体ごと間合いへ飛び込んでくる。


挿絵(By みてみん)


山道のあちこちで、白煙が乱れた。

銃声は、もう続かない。

代わりに、刃のぶつかる音と、短い悲鳴とが、朝霧を裂いた。


「退けッ!」


重秀の声が、山に飛んだ。


元親は、采配を握ったまま、動けずにいた。

歴戦の己が、この山で、まだ何一つ、敵の底を見ていない。

その事実が、大筒のどの一発よりも、重く、腹を打っていた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


河後森城の前に広がる、土佐街道の山道。

島津・大友は、昨日とは違う戦を仕掛けてまいりました。

一領具足も、雑賀の鉄砲衆も、じりじりと追い詰められていきます。


歴戦の元親をもってしても、いまだ敵の底が見えない。

その不安こそが、大筒のどの一発よりも、重く腹を打ちます。


それでも、口の端を上げて「強敵じゃな」と、分かち合える将――

敵の捨て石の癖を、静かに見透かす男が隣に。


義経隊の合流は、まだ遠い。

どこまで持ちこたえられるか……


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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