表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/35

第三十四話 友として

出陣の支度に沸く二条城へ、朝廷の輿が静かに寄せられた。


輿から降り立ったのは、関白・二条晴良。

公の使者としてではなく――

亡き頼朝の、友として。


老いた関白が、鬼の弟に託すものとは。

「ほう、なかなか味わい深い」


二条晴良は満足げに、梓が点てた茶を口にした。


「……いつぞや、これと似た茶を頂戴した。

武家など、生涯相容れぬと決めておった、この身が――

あの一服で、頑なさを解かれ申した」


茶碗に目を落としたまま、晴良は続ける。


「茶は……

点てた者の心を、表しますな。


誠に、不思議なものよ」


梓が恐縮して頭を下げる。


「甲州育ちの田舎者に、関白様からそのようなお言葉。

過ぎたる誉れでございます」


「内大臣のお子を授かったと伺った。

何よりです」


晴良は茶碗を畳に置き、梓に優しく微笑みかけた。


挿絵(By みてみん)


そこへ、義経が口を開く。


「梓の実の父・勝頼、そして武田家の惨状が続き……

こうして子を授かれたのは、我らにとって、せめてもの救いでござった」


「……誠に。

名門武田家が、まさかあのような最期を迎えるとは……


どのような言葉も、奥方の心の傷には無力。

しかし唯一、子は、母に力を与えましょう」


晴良の言葉を受けて、義経と梓は目を合わせる。

梓は微かに微笑みながら頷いた。


あらためて義経は晴良に向き直る。


「して、晴良様。

お体が優れぬと聞いております。

そのような中、この二条城までお運びいただき、恐縮でござる」


「……歳には勝てませぬな」


晴良は二条城から望む、京を囲む山々に目を向けた。


「頼朝殿さえおらねば――

帝も、私も、今頃は御所を離れ、穏やかで気楽な毎日を過ごしていたはずでござった」


苦笑いを浮かべる。


挿絵(By みてみん)


「しかし帝は、そなたら鬼の兄弟に免罪符を渡すまでは、禅譲をせぬとのご意向を持たれた。

私も、最後まで帝を支える所存であった……」


晴良は義経に向き直る。


「今日の内大臣殿との話を最後に、関白を辞す。

その後は……

頼朝殿に迎えに来てもらうのを、楽しみに待つとしよう」


「そのような弱気なことを申されますな。

この義経はまだ力不足。

晴良様の引き続きのお力添えなくば、兄の志を成し遂げられませぬ」


神妙な面持ちの義経であったが、ためらいながらも続けた。


「ところで晴良様……

その、“免罪符”とは、いったい」


晴良の手が、止まった。


「……これは失礼いたした。

あの日のことを、内大臣殿はご存知なかったのでござるな」


晴良はふっと息を吐き、しばし目を伏せる。


「惣無事令のことでござるよ。

なれど――言葉の意味は、それだけではない」


顔を上げた晴良の眼が、遠くを見た。


「あの日、清涼殿にて。

頼朝殿は、帝の御前で申された。

『某は鬼にござる。この世に、正しき鬼などおりませぬ』と」


義経の指先が、わずかに動く。


「帝は、こう問われた。

その鬼が薬となるか、猛毒となるか――いかにして見極めればよい、と。

無力なる帝に、何ができようか、と」


晴良の声が、低くなる。


「されど帝は、こうも仰せられた。


――朕の前におる、その鬼。

そして、その鬼の弟であれば。

免罪符を、与えてみてもよいのかもしれぬ。


その鬼が、この朝廷を滅ぼすことになったとしても――

その責めは、すべて、この朕が負う、と」


義経が、息を呑んだ。


「お分かりか、内大臣殿。

免罪符とは、罪を許す紙切れではござらぬ。

帝が、そなたら兄弟の罪を、御身に引き受けると仰せられたのです」


晴良は、まっすぐに義経を見た。


「そして帝は、あの日、初めから――

“鬼の弟”を、数に入れておられた」


義経の口が、開いたまま、動かなかった。


「頼朝殿の罪を背負うのは、その鬼の弟。

帝は、そう承知の上で、免罪符をお約束なされた。

そなたを、見ておられたのでござる」


静かな言葉であった。

しかし、その一つ一つが、義経の中で響く。


挿絵(By みてみん)


同時に、帝や関白までもがその志に心を動かされる、兄・頼朝という存在の大きさを痛感する。

その存在の大きさは、今の義経にとって――


「近々出陣されると聞いて、急ぎ参りました」


義経が思いを巡らせているのを知りながら、晴良は構わず続けた。


「朝廷の公の使者としてではなく、亡き頼朝殿の友として、内大臣殿と奥方とのみ、話をしたかった。

ご了解賜り、ありがたく思います」


晴良は茶を手に取り、口を潤した。


「さて、内大臣殿……

率直に申し上げる。

今の朝廷の中は、まことに不穏」


「不穏とは……」


「内大臣への、悪評でござる」


義経の顔が曇る。

そこへ梓が口を挟んだ。


「関白様。

今の源氏の軍団は、不幸なことが続きながらも、武田領、長宗我部領を押さえました。

そして上杉様より越前を賜りました。

お約束の、日ノ本の半分の領有に近づいております。


それが、なぜ悪評など……」


「だから、なのかもしれませぬな。

源氏をよく思わぬ者たち――

これ以上源氏が力を伸ばせば、取り返しがつかぬと考えるでしょう。


朝廷内で、源氏に肩入れする者への悪評も広がっております。

何者かが、手段を選ばずに動いておるやもしれませぬ。


そのような者が動くとき、最も恐ろしきは――」


晴良は、そこで咳き込んだ。

梓が心配して駆け寄り、その背中をさする。


挿絵(By みてみん)


晴良は義経に、これまでにない眼差しを向けた。


「最も恐ろしきは、敵国の軍にはござらぬ。

内大臣のような大きな軍を足元から崩すのは、“猜疑の心”でござる」


言葉が、続く。


「内大臣殿の足元を揺さぶる――

忠臣の悪評、裏切りの噂、濡れ衣。

常套手段でございます。


朝廷内がすでに不穏――

当然、内大臣のお膝元も、平穏ではないのではあるまいか」


晴良の背中をさすっていた梓の手が、止まる。

梓は義経に顔を向けた。

義経は頷いた。


晴良は咳き込みながら、続ける。


「朝廷内の内大臣殿の悪評も、当然、家臣にも広められているでしょう。

君主と家臣、家臣と家臣、あらゆる猜疑こそが、大きな軍を倒す武器……」


「どのような悪評が、流れているのでしょうか……」


晴良の横で、梓が問うた。


「お聞きになりたいか……」


晴良は、梓、義経と順に目を向けた。

そして義経は、晴良に頷いた。


「……あくまでも、意図的な悪評。

大切なことは、その悪評の中身ではない。

その背後の意図に、心を傾けるのがよろしかろう」


晴良は、もう一口、茶を口に運んだ。


「……内大臣は、戦は強い。

しかしまつりごとには明るくはない。

人望もなく、家臣の心が離れている。


そして……

奥方なくば、何事も立ち行かぬ。


そのような者に惣無事令など発布させては、日ノ本は立ち行かぬ」


晴良が、一呼吸置く。


「一言一句違わず、このような噂が流れております」


唖然とする義経だったが、すぐに口の端が上がった。


「晴良様。

それは、意図的な悪評ではない……

すべて、事実……」


義経が苦笑いを浮かべる。

梓は心配そうに、義経の顔を覗いている。


その様子に、晴良がため息をついた。


「……本日参った甲斐が、あったかもしれませぬな」


晴良は、背中をさすり続けてくれている梓に、軽く手を上げた。

もう大丈夫、と手振りで伝える。


「よろしいか、内大臣殿。

悪評とは、説得力がなくば広まらぬ。


ある程度は事実をもとに、話を組み立てますぞ。


大切なことは――

内大臣殿の内情を知る者が、黒幕の手先かもしれぬ。

それを、お伝えしたかったのです」


義経は肩をすくめて、ため息をついた。

晴良は続ける。


「しかし、これだけは、お忘れあるな」


徐々に、晴良の顔色が悪くなっていった。

それでも晴良は、腹に力を入れて、言葉を絞り出す。


「帝のお言葉を、お伝えいたす」


その声が、初めて、公のものに変わった。


挿絵(By みてみん)


「帝は、『待つ』、と仰せであられた。


心に、しかと刻まれよ。

この晴良が去り、朝廷の中で何が起きようとも――

帝は、鬼の弟を、命ある限り見守っておられる」


義経の胸に、兄の声が甦る。


“……鎌倉の時の兄よりも、よほど酷い兄じゃ……許せ、義経……”


義経は立ち上がり、晴良のもとに近づき、膝を落とした。


「晴良様……

お体が優れぬ中で、お運びいただき、誠に嬉しく思いまする。


拙者はすぐには変われぬが……

帝のお心は、大きな支えでございます」


そして、顔色が優れぬ晴良の手を取った。


「拙者の知らぬところで、晴良様のように心を尽くされている御仁がおられた。

それも理解せずに、自らの未熟ばかりを責めていた己を、恥ずかしく存ずる……」


晴良も、義経に手を重ねた。


挿絵(By みてみん)


「内大臣殿は、頼朝殿とは違いますぞ。

……清廉な武人であることを、変えてはなりませぬ。


信頼できる側近とともに、あらたな源氏をつくるのです……」


義経は、何度も頷いた。

梓も横で、深く頭を下げた。


「さて……私も、思い残すことはございませぬ」


晴良は従者を呼び、肩を支えられながら立ち上がる。

そして、梓に顔を向けた。


「授かったお子は、大切になされませ。

頼朝殿の願いは、武田の血を未来に残すことでもござった。

今頃、喜んでいるでしょう……」


従者に支えられながら退出する晴良の背中に、義経と梓は、いつまでも頭を下げていた。



二条晴良は、義経が四国に軍を進めていた、天正十八年(1590年)の暮れに、静かに息を引き取った。

お読みいただきありがとうございました。


梓の点てた一服の茶から、始まる一話となりました。

かつて武家を頑なに退けていた晴良が、頼朝の軍勢に心を開いたのも――

亡き頼朝に寄り添っていた出雲阿国の点てた、一服の茶からでした。


晴良が義経に伝えたのは、あの日、清涼殿で交わされた言葉。

帝が、鬼の兄弟のために引き受けようとされたもの。

そして、「待つ」という、ただ一言。


義経は、明日から変われるわけではありません。

それでも、己の知らぬところで心を尽くしていた人がいたと知ることは――

この不器用な武人にとって、確かな支えとなるはずです。


四国へ、そして京……

それぞれの地で、静かに何かが動き始めます。


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ