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第三十五話 頼朝の想い

出陣を明日に控えた夜。

義経は、東へ戻る家康と、盃を交わしていた。


臆病で、老獪で、それでいて情に篤く、頼朝に心服した男――

京を離れる前に、どうしても伝えておきたいことがあった。

京の町は、冬を迎える支度をしている。

だが、その喧騒の底には、いつもと違う重さがあった。


二条城から南へ向かう道に、馬の列が続いている。

米俵を積んだ車、火薬箱を抱えた小者、槍を束ねて運ぶ足軽たちが、次々と洛外へ流れていく。


民の暮らしを乱さぬよう、義経は諸隊を鳥羽、伏見、淀、槇島の一帯に分けて集めさせていた。

宇治川の水面には、荷を積んだ小舟が幾艘も浮かんでいる。

巨椋池の方から吹く湿った風に、馬の汗と火薬の匂いが混じった。


その都を守る軍が、間もなく四国へ発つ。


***


出陣を明日に控えた夜、義経は家康と夕餉をともにしていた。


「某は、明日、駿府へ戻りまする」


盃を置き、家康は義経に頭を下げた。


「東も、静かではござらぬ。

北条は伊達、佐竹、最上に攻めたてられ、今は家康不在の我が旧臣が、前線を支えておりまする。

そろそろ某も、自らの軍に戻らねば。


義経様も、四国でご武運を」


家康は、義経の盃を満たす。


「旧武田領には頼光殿が甲州に張りつき、美濃の主力も動けぬ。

兄が亡くなり、一年半。

東に西に、随分と乱れたものじゃ」


義経は、遠くを見ながら盃を空けた。


「すべては、拙者の力不足。

……兄も、今頃あの世で、拙者に呆れておるであろう」


自嘲であった。

その口の端には、笑みとも苦渋ともつかぬものが浮かんでいる。


家康は、その一言を、聞き逃さなかった。


「いや、義経様」


盃を置き、家康は義経に向き直る。


「某は、なぜ頼朝殿があそこまでご自身を罪びとと名乗られたのか……

このごろ、分かった気がいたしますぞ」


「ほう。

それは、ぜひ聞かせてもらいたいものじゃ」


今度は義経が、家康に酌をした。


挿絵(By みてみん)


「頼朝殿は、かつて鎌倉にて、日ノ本を鎮められた。

であれば、国がこのように乱れることも、ご存じであったはず。


だからこそ、惣無事令を急がれた。

なれど、ご自身の命あるうちに、それが叶わぬことも――目の当たりにされた」


「それが、兄の“罪びと”という言葉と、どう繋がる……

家康殿の話は、いつも拙者に、謎解きをさせるようじゃ」


「……これは、申し訳ござらぬ。

臆病な男ゆえ、あれこれと考えてしまうのでござる」


家康は頭をかきながら、注がれた酒を口にした。


「まず、頼朝殿の罪の一つ目。

日ノ本を鎮めるため、鎌倉でなされたこと。

義経様への仕打ち、奥州征伐、多くの御家人の粛清……


この時代に来られたからこそ、ご自分のなされたことが、よく見えてしまわれた」


義経は、苦笑いを浮かべた。


かつて衣川で、信じた兄に追われ、逃げた先にも裏切られ――

神も仏も我を見捨てたかと、呪いのうちに果てようとした男である。

その義経を、この時代へ連れてきたのが、ほかならぬ頼朝であった。


家康は、その苦笑いを見ながらも、続けた。


「当初は、武田や家臣、領民を守るため、覇権を捨てられた頼朝殿。

なれど、この時代でも、日ノ本を鎮める決意をされた。


京に上るまでにも、多くの血を流された。

そして、その先も、罪を重ねねばならぬ。

……あらためて、覚悟をなされたのでしょう」


「確かに、家康殿の申されるとおりじゃ。

領民や家族を大切に思いながらも、惣無事令を目指す覚悟を決めた。

そこは、鎌倉の頃の兄と変わったところと、拙者も思うておった」


「しかし……頼朝殿は、命あるうちに惣無事令を発布できぬと知り、その罪を、義経様に背負わせると決められた。


二つ目の罪は――弟君に、罪を背負わせたこと。

それこそが、頼朝殿が最後まで、苦しまれていたことです」


常に朗らかな家康が、珍しく、義経を見据えた。


「……覚悟を。

義経様も、覚悟を決められよ。


今起きていることも、義経様のお苦しみも――

すべて見越したうえでの、無念の最期にござった」


義経の面持ちが、変わる。

それは、家康の言葉への感謝ではなかった。


「……我が家臣たちは、兄の志にこそ心酔しておる者たち。

拙者では、ない。

家康殿とて、そうであろう」


「義経様……」


家康は、哀しげな顔を義経に向けた。


「なぜ、義経様は――頼朝殿を、お信じにならぬのです」


「どういうことじゃ……」


「義経様に継がせると、決められた。

その、実の兄のお考えを――

なぜ義経様ご自身が、お信じにならぬ」


「何を……!

わしは、誰よりも兄を信じておる!」


義経の声が、変わった。

それでも家康は、引かなかった。


挿絵(By みてみん)


「頼朝殿は、義経様のことを、誰よりもご存じでありました。

ご自身亡き後、義経様が何に苦しまれるかも、よくご存じであったはず。


国が大きくなれば、誰が主君となろうと、難しき舵取りを迫られまする。

だからこそ――最後の最後まで、義経様への詫びの気持ちを、強く持たれておられた」


家康は、大きく息を吐いた。


「……蒲原にて、義経様に首をはねられていたほうが、どれだけ楽であったか。

某とて、そう思うこともござる……」


義経は、しばらく厳しい視線を家康に向けていたが、ふっと、力が抜けた。

だが、口は固く閉ざされたままだった。


「某が頼朝殿と話をした折――

某が義経様をお褒め申し上げると、頼朝殿は病床にありながら、これ以上なく破顔なされた」


家康は、一拍置いた。


「“わしも今や義経を大切に想っており、誰よりも頼りにしておる”


そのように、申されましたぞ」


義経が、顔を上げた。


「兄が……そのようなことを、家康殿に……」


「そうでござる。

頼朝殿は、誰よりも、弟君を信じておられた」


家康の目に、力が入る。


「ご自身を責めるのは、おやめなされ。

偉大なる兄が信じたもの――

軍神・源義経を、信じられよ。


それが……頼朝殿を信じることではござらぬか」


義経に、逃げ道はなかった。

追い詰められたように、身体が動かない。


しかし、家康はここで、微笑んだ。


「頼朝殿は、某のことも、信じてくだされた。

この先、何があろうと――某のことも、信じていただきたい。


それも、頼朝殿を信じることとなり申す。


……それを、申し上げたかったのでござる。

はっはっは!」


大仰に笑い、家康は盃に残った酒を飲み干す。


挿絵(By みてみん)


「いただけますかな」


家康は、自らの盃を義経の前に差し出した。


「喜んで」


義経は、その盃に酒を注いだ。

家康は一気に飲み干し、立ち上がる。


「では、義経様。

あらためて、ご武運を」


深く頭を下げ、ゆっくりと義経に背を向けた。

部屋を出ようとするその背を、義経が呼び止める。


「家康殿……」


義経は、軽く頭を下げた。


「頼りに……しておる……」


言葉を、絞り出したような声だった。


家康は、満面の笑みを浮かべる。


「東は、お任せを。

何かあれば、すぐにでも京に参りましょう」


そう言い残して、家康は部屋を後にした。


挿絵(By みてみん)


***


夜も更けていたが、二条城の内も、周りも、慌ただしく人が動いていた。

篝火が多く焚かれ、出陣を控えた緊張が、あらゆる所作から伝わってくる。


部屋を出たときの家康は、朗らかな面持ちであった。

しかし廊下を進むにつれ、その眼差しは、厳しく前を見据えていた。

お読みいただきありがとうございました。


晴良に続き、今度は家康との一献でした。


自らを責め、家臣は兄の志に従っているだけで、自分にではない――

そう俯く義経に、家康は問います。

なぜ、頼朝殿を信じないのか、と。


義経に継がせると決めた、その兄の判断を疑うことは、兄を疑うことではないか。

義経が最も信じている、その一点を突いて、家康は義経の逃げ道を塞ぎます。


“わしも今や義経を大切に想っており、誰よりも頼りにしておる”


かつて病床の頼朝が家康に遺した、この一言。

それが、弟のもとへ、ようやく届けられました。


義経は、明日から変われるわけではありません。

それでも、絞り出した「頼りにしておる」の一言が、この不器用な武人の、精一杯でした。


朗らかに笑って去った家康。

その背が廊下で見せた、もう一つの顔の意味するところとは――


四国へ、そして東へ。

それぞれの持ち場へ、皆が向かいます。


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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