第三十三話 影
長宗我部の臣従により、毛利の四国侵攻は、かろうじて食い止めた――
そう思った矢先、九州の大友・島津の連合が、四国へ攻め入った。
義経は、援軍の支度を、急いでいた。
「なに!」
義経の声が、評定の間に張りつめた。
自ら近衛軍を率い、四国の長宗我部元親へ向かう。
そう肚を決めた義経は、信長にも出陣を促していた。
長宗我部元親に軍容を見せつけたばかり、信貴山城の軍は、すぐにでも動けるはずであった。
その返答が、これである。
使者は、義経の立腹に汗をにじませながらも、言葉を継いだ。
「信長様ご自身が総大将であれば、喜んで出撃されるとのこと。
此度は“軍神殿”が軍を率いられるゆえ、それで十分――と……」
こうも露骨に、命に背くか。
――だが。
信長に腹を立てながらも、義経は、不思議と悪い気がしなかった。
軍神殿が参れ。
そう語りかける信長の顔が、なぜか、義経の瞼に浮かぶ。
「追って、信長には返事をする。
下がってよい」
義経は、いったん使者を退けた。
その様子を見ていた大内義興が、太田牛一と目を合わせ、軽く頷いた。
「まさに今この時――
臣従への異議を、多くの長宗我部の家臣が唱えておりましょう。
義経殿、自らのご出陣は、好機でもござる」
牛一も続く。
「政は、某と義興殿でなんとかいたしましょう。
信長様が動かれぬなら、こちらで急ぎ陣を整えまする。
参軍として、宝殿はお連れいただけたら」
「うむ。宝殿は、わが近衛隊の参軍じゃ。
誰に反対されようと、連れてゆく」
考え込んでいた宝が、名を呼ばれて、慌てて顔を上げる。
「は、はい……!
微力ながら、力を尽くしまする……!」
「頼んだぞ、宝殿」
義経は、心なしか上機嫌であった。
「義興殿、牛一殿……
急ぎの折は、梓とともに、判断をされよ」
「はっ、お任せを!」
義興が、声に力を込めた。
だが、宝の顔は、曇ったままだった。
浮かぬ面持ちの宝に、義興が言葉をかける。
「信長など頼らずとも、四国へのさらなる援軍も、十分な輜重も手配いたす。
義経殿がおらずとも、京は自軍と友軍が守る。
案ずるな」
そう言いながら、義興も、宝の胸のうちを、察してはいた。
「なに、軍師殿……
毛利が何をたくらもうと、大事ない。
だからこそ――義経殿をお支えして、四国をお守りくだされ」
「は、はあ……」
宝は義興に頭を下げたが、その表情は、晴れなかった。
義経も、宝の歯切れの悪さが、気にかかる。
「宝殿。
何か……腑に落ちぬことがあって、京に残りたいのか」
「い、いえ……!
私は、義経様のお供をいたしまする!」
「では、何に引っかかっておる」
義経の問いに、宝は、苦しげな面持ちで答える。
「四国が毛利の手に落ちぬ限り、毛利の懸念はございませぬ……
長宗我部様が、義経様を罠にかけるとも思えませぬ……
補給も、案じることはございませぬ……」
そこまで言って、宝は口をつぐんだ。
指を口もとに当てたまま、遠くを見ている。
「ただ……何となく、なのですが……」
言葉は、そこで途切れた。
「……申し訳ございませぬ。
何も、確かなことを申し上げられず……」
宝の言いよどみに、一同が、押し黙る。
その沈黙に、宝はまた慌てた。
「し、しかし……!
今できることは、仰せのとおりでございます。
急ぎ四国へ、元親様の救援に。
お供いたしまする……!」
腕を組んでいた義興が、大きく息を吐き、天井へ目をやった。
「そうじゃの。
何か引っかかりはするが――
このまま、手をこまねいてもおられぬ。
油断せず、最善を尽くすのみ。
のう、軍師殿」
***
評定を終え、義興、牛一、宝は、それぞれの持ち場へ急いだ。
部屋を出たところで、宝が、義興と牛一を呼び止める。
「あ、あの……」
まわりに聞こえぬよう、宝が、二人に囁いた。
「梓様を……くれぐれも、お願いいたしまする……」
義興の目が、見開かれた。
「……なるほどの」
義興の眼差しが、何かを捉えたようだった。
「これまで最も追い詰められたのは――
結句、梓殿であったな」
宝も、そっと頷く。
「……念には、念を。
何卒」
宝が下げた頭を、義興が、軽く撫でた。
「よくぞ申した、軍師殿。
家康の嫌疑も、まだ晴れきってはおらぬ。
信長が出陣を渋るのを疑うのも、当然のこと。
毛利も――」
義興は、牛一を見据える。
「片時も、気が抜けぬな」
牛一も、頷いた。
「誠に……」
そこへ、宝が、言葉を挟む。
「で、ですが、家康様や信長様は……」
「わかっておる、宝殿。
じゃが我らは、あらゆる筋を疑わねばならぬ立場よ。
これほど国が大きゅうなれば――
少々の冤で家臣を罰する覚悟も、せねば立ち行かぬ」
「そういう、ものでございますか……」
宝は、寂しげな面持ちを、義興に向けた。
「だからこそ、軍師殿の慧眼が要る。
疑い深い年寄りの、曇った眼を晴らすのも――
若き軍師殿に、期待いたすぞ。
はっはっは!」
義興が、宝の頭を、また撫でた。
「は、はい……」
宝は、肩をすくめて答える。
だが、義興の眼は、すぐに厳しくなった。
「……罪は、我らが引き受ける。
義経殿と、梓殿を、お守りせねばならぬ」
その義興を見て、宝の曇った表情が、ほんの少し、和らいだ。
***
数日後。
義経陣営が出陣の支度に追われるさなか、朝廷の輿が、二条城の門をくぐった。
両脇を支えられ、輿から降り立ったのは――関白・二条晴良であった。
武家を頑なに退けてきたこの身が、頼朝という男の心意気にだけは、頭を垂れた。
惣無事令への道を突きつけ、帝との謁見を、この手で整えもした。
その頼朝は、逝った。
「――鬼は、逝きおったか」
城内を見渡し、晴良は、ひとりごちた。
「さて……志を継ぐ弟は達者かの。
……この晴良の務めも、いま少し、残っておる」
晴良が頷くと、両脇の従者が、その身を支え、静かに城内へと進んでいった。
お読みいただきありがとうございました。
軍師・宝の胸には、晴れぬ影が。
毛利でもない、長宗我部でもない、補給の憂いでもない。
何が引っかかるのか、宝自身にも、言葉にできぬまま……
ただ一つ、こぼれ落ちたのは――「梓様を、くれぐれも」という願いでした。
その直感が、何を指すのか。
まだ、誰も知りません。
そして、かつて頼朝の心意気を見届けた関白・二条晴良。
いま、その志を継ぐ弟の前に、姿を現します。
老いた関白が、義経に、何を託すのか。
次回、その謁見の場を描きます。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




