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第三十二話 つかの間の呼吸

天正十八年、秋。

京の町は、冬支度の喧騒に包まれていた。


薪を運ぶ男、干し柿を求める女、白い息を吐いて駆ける子ら――

義経が守ろうとしているのは、この、ささやかな営みであった。


西国の乱も、ひとまず鎮まったかに見えた。

束の間の、呼吸。


――だが、その静けさの底で、何かが、蠢いている。

天正十八年(1590年)、秋も深まっていた。


東山の紅葉は、遠目にはまだ美しい。

だが、京の町で人々の目を引いているのは、色づく山ではなかった。


薪を積んだ荷車が、朝から幾台も大路を行き交っている。

市には炭俵が並び、干し大根や干し菜、柿を吊るした縄が軒先に揺れていた。

商人の呼び声、値を争う町人の声、桶を叩く音、馬の蹄――そのすべてが、冬を迎える都の喧騒であった。


民は、冬を越すために動いている。


その当たり前の営みが、義経には重く見えた。

京を守るとは、御所や二条城を守ることだけではない。

薪を運ぶ男を、干し柿を買う女を、白い息を吐いて走る子らを、寒さと飢えと戦から遠ざけることなのだ。


守れなかった顔が、いくつも浮かんだ。

養父・勝頼。妻・梓が失った、多くの親族。

自らの軍団が守り続けてきたはずの武田を、義経は東の惨事から救えなかった。

北方の敵に圧迫され続ける北条のことも、頭の隅に重く沈んでいる。


それでも――

西国の戦乱の気配だけは、新旧の家臣たちの働きで、いったん鎮まった。

長宗我部は臣従の意を示し、毛利の侵攻も引き延ばせた。


義経は、白い息をひとつ、長く吐いた。


奇妙なことに、と義経は思う。

頼朝の頃からの股肱の臣に、自らは失望されているのではないか――その疑いが胸から消えぬのに、後から加わった家康や信長と接するときにかぎって、なぜか心がほどけるのだ。

古い忠臣に見限られる恐れが、新しい者への安堵に、裏返っている。

そのからくりを、義経自身、うまく言葉にできなかった。


わからぬまま、それでも、こうして冬支度の京の喧騒を肌に感じ、深く息を吸えるようにはなっていた。



その義経の前には、鳥取から戻ったばかりの大内義興と、前田玄以。

傍らには、太田牛一と源宝が控えている。


挿絵(By みてみん)


二条城の門をくぐるなり評定の間へ通されたのか、義興と玄以は旅装のままの謁見であった。



「まずは義経殿。

長宗我部の臣従、何よりでござった!」


義興が口火を切った。


「これも、皆のお陰よ。

拙者は毛利から長宗我部侵攻の打診があった際、ただうろたえるばかりであった……」


己の未熟さに苦笑を浮かべながらも、義経は真っすぐに答えた。


挿絵(By みてみん)


「恐れ入りまする!

主君よりそのようなお言葉を賜ることこそ、家臣の誉れでござる」


義経の心境をすべて見越したうえでの言葉と、義経には感じられた。

その一言一言に、義興の老練さがにじんでいる。


「そなたにはかなわぬ……

して、毛利はいかがであった」


ふと宝に目を向けると、興味津々といった面持ちで、義興の言葉を待っている。


「鳥取城にて吉川元春と安国寺恵瓊と、一度は膝を交えましたが……

急ぎ長宗我部の臣従を伝えたところ、もはや会う必要はないと」


義興は苦笑しながら続ける。


「毛利のご立腹も、わからぬではない。

毛利は九州の大友と、こう約定を交わしておった――四国に九州勢の矛先を向けることで、周防での毛利と大友の戦を避ける。

それが、長宗我部侵攻の裏でござった。


ゆえに長宗我部が我らに下ったことは、毛利からすれば痛手でしょうな」


「そのようなことが……」


つい、宝が誰に聞かせるでもなく呟いた。


「玄以殿、毛利輝元殿にお伝えせよ。

九州勢が毛利を攻めたときは、我らを頼みにせよ、と。


いずれ毛利とは雌雄を決せねばならぬかもしれぬ。

なれど今は、毛利が刀を収めてくれたことに、応えねばなるまい」


「それは、しばしお待ちを……」


義興が、義経の言葉を遮った。


挿絵(By みてみん)


「どうも、他に何かあるように思えてならぬのです……」


義興は悩ましげな面持ちを浮かべる。


「何か、気になる動きでもあるのか、義興殿」


「……いや、年寄りの勘でござるが……

いずれにせよ、毛利領の奥深くに我らの軍勢を向けるのは、少しばかり気にかかり申す」


「義興殿がそう申されるからには、何かあるのであろう。

しかし、毛利への筋目はいかがいたす。

鳥取城の城門を閉ざされたままでは……」


義経が家臣たちを見回した。

そこへ、前田玄以が口を開く。


「義興殿。

まことに援軍を送らぬにしても、ひとまず我らの意向をお伝えするのはいかがであろう。

その折に、先方の様子も、この目で確かめて参りまする」


「そうじゃの……

あとから約定を違えたと言われぬよう、慎重に運んでいただくか……」


義興は額に手をやりながら、歯切れ悪く玄以に答えた。

ふと宝に目をやると、斜め上をぼうっと見つめている。



その様子に、義興がにやりとした。


「……軍師殿。

何か、見えておられるか」


いつものように、宝は現実に引き戻されて慌てる。


「あ、申し訳ございませぬ……!」


「誰も軍師殿を責めてなどおらぬ。

可笑しきものよ、はっは!


何度もご一緒しておるからの。

軍師殿の目が浮世から離れておるときは、我らに見えぬものを見ておられるからの」


義興は、愉快そうに宝へ迫った。


「いえ、まだ何もわかりませぬ。

ですが……」


宝はまた斜め上へ目を向け、しばし考え込んだ。

一同は、その言葉を待つ。


「あ、あの、ただ腑に落ちぬだけでして、何も見えてはおりませぬ。


ただ、腑に落ちぬのは――

大友が、島津と手を結んだこと。

大友にとっては、島津に奪われた旧領を取り戻すことこそ悲願のはず……

それならば、東に脅威のない毛利と誼を結ぶのが、定石かと。


でなければ、島津と結んだうえで、毛利領の周防を狙いたいはず……」


「ほう、さすがじゃの、軍師殿」


義興が腕を組み、宝の言葉に耳を傾ける。


「それだけではありませぬ……

島津とて、伊予の山城を得るよりは、九州の統一こそが悲願のはず」


宝の眼差しが、一段と遠くなった。

遠くを見たまま、首をかしげて続ける。


挿絵(By みてみん)


「毛利にしても、大友、島津にしても……

それぞれが宿願とする野心に比べれば、貧しき四国を分け合ったところで、割に合わぬのではないでしょうか……」


そこで宝は、一同が自らを凝視していることに気づいたように、慌てた。


「で、ですが、何も確証はございませぬ……!」


なぜか、必死に頭を下げる宝だった。


牛一が、口を開く。


「いや、宝殿の申されることは、事実ばかりじゃ。

義興殿のお話を伺うたとき、某も初めは、毛利の説いた四国攻めの大義は、九州勢との約定として筋が通っていると思うた。

しかし――義興殿の勘のとおり、何かある気配はいたしますな」


牛一は、義経に顔を向ける。


「ここは玄以殿のご提案どおり、援軍の意向をお伝えしつつ、様子を見ましょう。

表立って毛利と事を構えるのは避けたいところ。

何事も、慎重に運ぶのがよろしいかと……」


義経も頷いた。


「皆の申すとおりじゃな。

玄以殿にはご苦労じゃが、いま一度、毛利へ行ってはもらえぬか」


「かしこまりました」


玄以も頭を下げた。



そこへ――急使が到着した。


「大友・島津の連合勢、豊後水道より四国に上陸した模様!」


「何!」


義経が、反射的に立ち上がった。

義興が顎に手をやり、低く呟く。


「……動きが早いの」


宝は、立ち上がらなかった。

ただ、その眼差しが、また一段と遠くなる。


――やはり、何かある。


胸の内で、ばらばらだった事実が、少しずつ、あるべき場所へ寄り始めていた。

まだ、盤面は見えない。

見えないが、それを描くための石が、いままた一つ、置かれた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


長宗我部の臣従により、西国は、いっとき静けさを取り戻し、

義経も、冬を迎える京の喧騒の中で、ようやく深く息を吸うことができた――

そのはずでした。


されど、鳥取から戻った大内義興の胸には、拭えぬ違和感が。

軍師・宝もまた、腑に落ちぬものを抱えます。

毛利、大友、島津――

それぞれの野心に比して、貧しき四国を分け合うのは、あまりに割に合わない。


その問いに答えを出す前に――現実が、動きました。

大友・島津の連合勢、豊後水道より四国へ。


つかの間の呼吸は、早くも断ち切られます。

この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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