第三十話 毒と涙
臣従は受け入れぬまま、信長との対面だけを、元親は承諾した。
そして――
名乗るまでもなかった。
二人の傑物は、初めて対峙したその一瞬で、互いの底を見抜く。
信長が、不遜な笑みを浮かべて呟いた。
「よき客人じゃ」
岸和田の潮の匂いは、いつの間にか消えていた。
城を発った時には、まだ衣の端に海の湿り気がまとわりついていた。
だが、和泉の野を越え、河内へ入る頃には、それも馬の汗と刈田の土の匂いに押し流されていた。
秋の田は、すでに稲を刈り終えている。
村々では藁を焼く煙が細く上がり、遠くに見える山並みは、薄い霞をまとっていた。
長宗我部元親は、ほとんど口を開かなかった。
海は遠い。
土佐へ続く水の道も、ここにはない。
前方に、生駒の山影が濃く迫ってくる。
その南の端、紅葉に染まり始めた山腹に、信貴山の城が見えた。
そのとき――山の向こうで雷が鳴った。
元親が顔を上げる。
空は、高く晴れていた。
***
信貴山の麓に、一行がたどり着く。
山裾に並ぶ火縄の列は、その紅葉よりもなお不穏であった。
麓には、鉄砲隊が幾重にも列をなし、大筒が黒い口を平野へ向けている。
山腹の城からは、旗が大和盆地を見下ろしていた。
源氏の白地に笹竜胆の旗ではない。
はためく軍旗は、織田家の「永楽銭のぼり」であった。
「臣従したとて家名は守ると――
そのように、某に見せつけたいのか。
それとも――
信長という男の、独断か」
元親は、同行する鈴木重秀に呟いた。
重秀は口の端を上げる。
「どちらも……でしょうな」
元親も、軽く笑みを浮かべて頷いた。
「四国にも、大きな山城はある。
しかし――」
そこで元親は口を閉じ、信貴山城の一帯に目を向けながら、ゆっくりと馬を進めた。
眼光鋭い男が、不敵な笑みを浮かべ、馬を走らせてきた。
会ったことはない男であったが、元親はすぐに、それが誰であるかわかった。
「よき客人じゃ」
信長も、元親を見据えた。
そして、元親の横にいる、黒い法衣をまとった男に目を移す。
「軍神殿、こちらは……」
「鈴木重秀殿じゃ。
元親殿との謁見は、重秀殿のお陰でな」
信長は、頼朝の最期の折、本願寺・鈴木連合軍に、信貴山一城となるまで追い詰められていた。
その信長が、重秀に、口の端を上げながら言葉をかける。
「雑賀孫一か……
わしの首まで、あと一歩だったのう」
重秀も、意に介さぬ面持ちで、信長に返す。
「雑賀は、恨みで動かぬ。
雇い主のために力を尽くす――それだけでござる」
重秀の言葉を、信長は愉快そうに聞いていた。
そして、あらためて元親に顔を向ける。
「では、こちらへ参られよ」
信長の先導で、義経、元親の一行は、信貴山麓の陣所まで移動した。
「竹千代も、娘も、元親を説得できなかったか」
床几に座るなり、家康と宝に向かって、信長は可笑しそうに笑った。
「ですから……私はもう、二十歳です……!」
「そうであった、許せ軍師殿。
はっはっは!」
宝は、場の雰囲気もわきまえず、ついむきになってしまった己を恥じた。
家康も、頭に手をやりながら口を開く。
「元親殿のお気持ちは、某もよく分かり申す。
信長殿とて、そうでござろう……」
家康の言葉に、信長は不敵な笑みを浮かべる。
「わしは……孫一に、首を捧げてもよかったがの」
信長は、重秀にあらためて視線を向けた。
重秀が、信長に目を合わせて軽く頭を下げる。
それを見届けると、信長は元親に顔を向けた。
信長の面持ちが、変わる。
「元親……
無駄話が、過ぎたようじゃ。
まずは、見ていただこう」
信長は立ち上がり、前に出ると、静かに手を上げた。
次の瞬間、信貴山城から、そして山肌に沿って、火が上がる。
煙が山肌の紅葉を包んだところで、鼓膜が震えるほどの雷鳴が響き渡った。
麓に縦列で並んだ鉄砲隊が、一列ずつ、順に火を噴く。
煙が信貴山の一帯を覆いつくし、断続的な雷鳴が、山をも震わせる。
大量の斉射が終わり、煙の先に再び山が見え始めたところで、黒い筒が、いくつも運ばれてきた。
その大筒の先、山肌に、急造の砦がある。
再び、信長が手を上げた。
大筒が火を噴き、山肌の砦は、木っ端みじんに吹き飛ばされた。
陣所の前に、静寂が戻る。
だが、煙は立ち込め、硝煙の臭いが、一帯に漂ったままだった。
信長が、元親に振り向く。
冷たい眼差しだった。
「悔しくは、ないか……」
元親は無言のまま、目の前に広がる軍勢を、見据えていた。
信長は続ける。
「己が力を尽くしたとて――
及ばぬことの、多きことよ」
硝煙が消え、軍勢が、何事もなかったかのように、目の前に布陣していた。
「元親……
天険の山城にこもれば勝てると思うておるなら、それは昔の戦いじゃ。
……わかったであろう。
軍神殿の軍勢は、兵が強いだけではない。
兵が多いだけでもない」
信長の言葉を耳にして、元親は静かに口を開く。
「城など――
すでに、守るための代物ではなさそうじゃ。
城では、民は守れぬ、ということか。
義経殿の軍勢そのものが、鉄の城のようなもの。
山ごと吹き飛ばせる、軍神の軍か……」
信長は、ふっと笑う。
「頼朝さえいなければ、わしがとうに貴様を滅ぼしていた。
今日まで命長らえておるのは、わしを滅ぼした軍神殿のお陰と思うが良い。
四国をまとめるのは、並大抵のことではない。
四国の兵は、強かろう。
貴様も……恐ろしい男だ」
信長は、元親が睨み返すのを待つかのように、その顔をのぞき込んでいた。
元親と視線が合ったところで、信長は続ける。
「だが……ここで止まるのを恨みたくば、四国に生まれたことを恨め」
だが、元親の涼しい目元は、変わらない。
そして元親は、宝に目を向けた。
「軍師殿が、某に引き合わせたかったのは、この男であったな」
「あ、あの……
はい、そうなのです……」
宝は俯きながら、言葉を絞り出した。
元親はしばらく、宝の様子を眺めていた。
そして、息を軽く吐く。
「この者は、いけすかぬ」
元親の言葉に、宝は慌てて平伏する。
「も、申し訳ございませぬ……!」
「いや――
いけすかぬが……申すことは、正しい」
元親は立ち上がり、義経に近づいた。
「百聞は一見に如かず……
それを、伝えたかったのでしょう。
同時に、臣従を断れば、この者が四国に攻め込むであろう……と」
この者――元親は、信長を見据える。
信長は変わらず、笑みを浮かべていた。
「さすがだ、元親。
わしは、この軍勢の力を試してみたくての。
早々に四国へ攻め込むことを、軍神殿に進言したのだがな。
軍神殿も娘も、回りくどいことを考える」
元親は、ここで初めて口の端を上げ、信長を見据えた。
「興味本位で、四国の民の血を流そうとするとは……
しかし、信長殿は、よほど義経殿に心服されているようじゃの」
信長は口を開かなかったが、ふっと笑う。
それが、返事となっていた。
そこで、義経が元親に言葉を紡ぐ。
「元親殿、形だけでよい。
何かあれば、お守りするという口実じゃ。
四国の民の難しきところは、拙者にはわからぬ。
じゃが、我らにできることは、ござろう……」
元親は、義経の目の前に立つと、跪いた。
「毛利には、長宗我部が臣従したと……
ひとまず、そのようにお伝えくだされ。
ただ、しばし、家臣と話をする時間をいただけぬか」
「承知した、元親殿!
まずは、毛利を止めることができる。
後のことは、じっくりとお考えくだされ」
義経は、元親の手を取った。
元親は、あくまでも涼しげな面持ちのまま、義経に頭を下げる。
だが、その手に力がこもったことを、義経は感じ取った。
そこへ、信長の大きな声が響く。
「娘! いかがした!
はっはっは!」
宝に目を向けると、その目に、涙がにじんでいた。
「ですから……娘では、ありません……」
「喜ぶのは早いぞ、娘。
元親は、決めたわけではないぞ」
「は、はい。
わかっておりますが……ひとまず、四国の民は……」
元親はあらためて、信貴山城と、山を取り囲む黒雲のような軍勢を、眺めていた。
お読みいただきありがとうございました。
理屈では心を動かされなかった長宗我部元親も、
圧倒的な現実を目の当たりにして、冷静に決断をくださざるを得なくなりました。
ただし四国の難しさを知る元親は、家臣達の説得に向かいます。
義経陣営は毛利に長宗我部への共同戦線を打診しながら、侵攻を止めなくてはなりません。
義経陣営の目論見通りに、四国を安定させ、毛利を封じ込める事はできるのでしょうか。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




