第二十九話 ”守る”ということ
鋭い眼光で義経たちの意図を見抜く長宗我部元親。
義経は志を、家康は現実を、宝は実利を語る。
しかし元親は、冷ややかに言い放つ。
「四国の力を――見下しておるのか」
岸和田城の部屋に、しばし誰の声もなかった。
障子の向こうから、秋の潮風が細く入り込んでくる。
城の外では、浜の者たちが荷を運ぶ声、舟板を踏む音、綱を引く軋みが、途切れ途切れに聞こえていた。
魚と塩と薪の匂いに混じり、どこか火薬の焦げたような匂いも漂っていた。
雑賀衆の元締めである鈴木重秀の居城。
廊下の陰にも、庭先の石垣にも、雑賀の鉄砲持ちが立っている。
彼らは座敷の中へ目を向けない。
ただ、何かあれば一瞬で火縄に火が入る――その気配だけが、城内の空気を張り詰めさせていた。
長宗我部元親は、障子の向こうの海へ一度だけ目を向けた。
そして、その冷たく静かな眼差しを家康へ向ける。
一度は敵として立ち、今は義経の側に座る男。
そして、義経自らの登場。
さらに、元親自らが投げかけた言葉への、義経一行の沈黙。
その意味を、元親は見誤らなかった。
「なるほど」
元親の短い一言だった。
だが、その一言だけで、座敷の空気はさらに冷えた。
口を開いたのは義経だった。
「他にお守りする方策が考えつかぬのだ……元親殿」
義経は真っすぐな眼差しを元親に向けていた。
しかし元親は一笑に付す。
「それは、四国勢を軽く見ているからであろう。
そうではないか、宝殿……」
宝は、元親の柔らかな表情の奥にある冷徹な眼差しを向けられ、ぎょっとする。
思わず視線を外して、下を向く。
「四国を毛利に抑えられては、さすがの源氏も簡単には参らぬ。
同時に、表向き我らに味方をして、毛利と今すぐ事を構えるわけにも参らぬ。
つまり……」
宝は元親に迫られているかのような、圧迫感を覚えていた。
「四国の力を――見下しておるのか」
義経たちが言葉を見つけられずにいる。
元親はその様子を目にして、口を開く。
「毛利に共闘を打診されておるのは……
某が降伏しなかった時には、将来の毛利への抑止を考え、四国を攻め取るつもりであろう……」
元親はふっと息を吐いた。
「だからこそ、弱き我らをお守りいただくため――
義経殿に臣下の礼をとるしかない。
それを伝えにここまで参られたか」
言い終わると、元親は目の前の茶碗を手にして、口元に運んだ。
もう義経たちとの話が終わったかのような、落ち着いた様子だった。
「まあ、まあ、元親殿」
家康が、朗らかな面持ちで口を開く。
「形だけでござる、表向きだけのことでござる。
徳川も、すべての領土、家臣、そのまま某ごときにお任せいただいておる」
元親は茶碗を畳に置いた。
「では徳川殿……お聞きする。
……なぜ、源氏と戦われた」
元親が再び家康を見据える。
家康は、あくまでも朗らかな様子を崩さずに答える。
「某が武門の意地などという、くだらぬ思いで目を曇らせており申した。
その某一人の意地が、何万もの将兵を犠牲にしてしもうた。
もっと早くに頼朝殿と話をしておったら、あのような愚行には……」
「なるほど」
元親は一言、心のこもらない言葉を発した。
家康を見据える視線は変わらない。
「家康殿……
実際に、戦わずに臣従はできましたかな。
そして……
今の家康殿の家臣たちは、義経殿に忠節を尽くしておりますかな」
家康の視線が厳しくなる。
元親だけであればいくらでも言いようはあったものの、義経に、お互いの家臣が二分していると伝えたのは、つい先日のことだった。
元親にごまかしがきかないと、家康自身が思い知らされた瞬間だった。
元親は家康に言葉を続けた。
「四国は――貧しい国土でござる。
一領具足などは、兵農分離が進んでいる本土からすると、時代遅れであろう……
だが、貧しい国なりに力を合わせてここまで参った。
望む、望まぬにかかわらず、某が四国の民のすべてを背負って参った。
四国は民の持ちたる国。
それを崩すものあらば、命を懸けて守る。
そうではないか、家康殿……」
「元親殿、何も変わらぬのじゃ。
源氏は、捕虜も殺さぬ。
今臣従しておる一色家も、山名家も、すべて元のまま。
我ら徳川も、依然、何も変わらぬ。
もちろん、元親殿がご指摘されたこと……時が解決することもござる」
家康が真剣な面持ちで頭を下げる。
「元親殿は、四国の民を大切にされている、そのように伺った」
義経が口を開いた。
「わが兄も、不本意ながら領土を広げねばならなかった。
しかし、もともとそれは、美濃の民を守るためであった……
その先に、日ノ本の静謐、つまり日ノ本の民のために命を捧げねばならなくなってしまった。
元親殿が大切にされる四国の民も、同じじゃ。
我らとともに歩まぬか、元親殿」
義経の言葉に、元親がふっと笑う。
「本日良いことが一つだけあった。
それは、伝説の源義経を直接この目で見られたこと……
清廉で、真っすぐな武人。
まさに、某が抱いていた軍神そのものじゃ。
だが……」
元親の面持ちが変わる。
「某は、自らを武家の君主とは思うておらぬ。
某は、四国の民の“蓋”……
誰よりも、四国という地を知り、民を知り、そして守る。
だからこそ、皆がその下で暮らしておる。
某は、そのように信じておる」
元親は土佐の方角に目を向ける。
「蓋がすぐに他家に臣従したらば――
民も、ともに戦ってきた仲間も、もはや某を“蓋”とは思わぬであろう……
四国の民を戦乱に巻き込みたくはない。
しかし今の、ともに築いた、あの土地だからこその結びつきは、簡単に変えることはできぬ」
「あ、あの……」
勇気を振り絞って、宝が言葉を発した。
「もし、同じ源氏の旗の下にいらしていただけるのであれば……
土地の灌漑も、交通網の整備も、城郭の普請も、武器弾薬も……
元親様の民も、家臣も、幸せにいたしまする!」
必死に頭を下げる宝を眺め、元親はかすかに微笑む。
「宝殿……
そのお気持ちはありがたい。
しかし――
今与えられた中での調和こそが、平和でもあったりする。
あらたな調和を目指すことが、必ずしも民の平和とは限らぬ」
「確かに、私は四国の土地をよく存じ上げませぬ。
元親様のお陰で、きっと民の皆さまも日々の幸せを享受されていらっしゃるのかもしれませぬ……
しかし、四国の海の外が、それを許さぬ状況になっておりまする。
私の実家の一色家も、そのことを目の当たりにして、早くに頼朝様に臣従いたしました」
「ほう、軍師殿は、一色の姫であらせられたか」
「はい……
私ごときを、頼朝様は養女としてお迎えくださいました。
しかし、父も家臣も、頼朝様にお守りいただき、臣従しなかった時の恐ろしさを目の当たりにいたしました……」
元親は、微笑みを絶やさずに、宝に返した。
「つまり、初めの話じゃ。
そなたらは、四国勢を弱き兵とお考えなのであろう……
お聞きするお話は、それを前提としておられる」
宝は緊張しながらも、もう一度頭を下げた。
「元親様。
ぜひ会っていただきたい方が……もう一人いらっしゃいます」
「……それはどなたかな」
宝は大きく息を吸って、言葉を絞り出す。
「お、織田信長様でございます……」
「ほう……」
元親は、あごに手を当てる。
「あの者が臣従したと聞いてはいたが、他人に頭を下げるような輩とは思えぬが」
「それが、義経様のことはお好きみたいでして……」
この期に及んで、突然“好き、嫌い”という言葉を発する宝に、元親は微笑まずにはいられなかった。
「……軍師殿が申されるのであれば、会わせていただこう。
どのような面で、義経殿に従っているのか、某としても興味がござる」
「あ、ありがとうございまする!」
宝がこれ以上ないほどに頭を下げてお礼を告げた。
「かたじけない、元親殿!」
義経も頭を下げ、家康も続いた。
***
堀の水面に夕刻の光が揺れ、そのさらに向こうで、茅渟の海が鈍く光っている。
部屋の中にも差し込む夕日を浴びながら、元親は重秀に呟いた。
「いかがか、重秀殿」
「外交のことはよくわからぬが、ここまでの元親殿のご苦労を知ればこそ、納得はできますまい……」
元親は、ため息をつきながらも、口の端を上げる。
「某のことなど、小さきことよ……
毛利や九州勢に蹂躙されたらば、四国は草刈り場となるだけであろう。
わかってはおるが、戦わずに首を垂れるわけにも参らぬ。
見極めなければ……」
重秀は声を落として、元親に呟く。
「源氏の“人を生かす”そのやり方に、激しくお怒りの者がおられる……」
「ほう、それは……」
「憎き信長を討ち果たすはずが、源氏がそのまま信長を保護している……
何万もの信徒の無念を一心に背負っている、本願寺顕如様じゃ……」
元親の目が光る。
「大きくなる時は、皆その志に惹かれるが――
大きくなった後に、すべての者の“蓋”となるのは至難の業じゃ……」
岸和田城に入り込む秋の潮風に混じる、港の喧騒は小さくなっていた。
お読みいただきありがとうございました。
四国の統治に苦しんできた元親には、元親だけの理がある。
義経陣営の言葉は、容易にその心を動かしません。
されど――元親は、義経という武人に、確かな何かを見た。
だからこそ、次なる引き合わせを、受け入れます。
次回、元親の前に立つのは――織田信長。
その対面は、吉と出るのか、凶と出るのか。
この後の展開も、お付き合いくださいませ。




