第二十三話 踏み絵
栄光の武田家。
その中核にあった躑躅ヶ崎館は、城も、石垣も、堀も――そして人も失われた。
そして家康は向かった。
この悲劇を生みだしたと思われるもののところに……
仁科盛信と源頼光の軍が、甲斐に入った。
かつて武田の名将として名を馳せ、今は義経に降った馬場信春と秋山信友も、その列にあった。
躑躅ヶ崎館の主郭から東曲輪へ。
壁面の血のり、崩れかけた柱――
二人の老将は、変わり果てた主家の跡を、呆然と歩いていた。
彼らの瞼の裏には……胸を張り、誇らしげに粗野な声をあげていた武将たちが武田信玄を囲んでいた景色……はっきりと焼き付いていた。
今目の前に広がる世界が夢。
瞬きをした後に、本来の世界が目の前に戻っているのではないか……
そう思えるほどに、かつての武田の栄光は、老将たちには色鮮やかな景色だった。
しかし残酷な時間の流れが、二人の老将の心に、徐々に現実を流し込んでいった。
将らしき将を失った甲斐。
仁科盛信と源頼光が進軍すると、兵たちは我先に投降した。
国人衆たちも雇い入れた兵達が離散し、ただ首を垂れる以外に方法は無かった。
小山田信茂の軍勢は謀叛人を平らげたと伝えてきた後、忽然と姿を消した。
街道にあふれる骸の中に紛れているのか、逃亡したのか、誰もわからなかった。
盛信は旧知の武将を見かけては、問い詰めている。
しかし盛信の苛立ちが、実情の把握に難儀している様子を物語っていた。
「いったい……何があったのだ……」
勝者無き戦の傷跡を眺めながら、頼光は呟いた。
***
足音が地下牢に近づく。
番兵が背筋を伸ばす。
鎧のすれるわずかな音さえ、牢内に響いた。
「……外せ……」
家康がうなずくと、番兵は牢の前を離れた。
ただ歩くだけのその足音が、不釣り合いなほど大きく牢内にこだました。
蝋燭の光が、牢の中で静かに座禅を組む男の姿を映し出す。
「……正信」
家康の静かな声は、牢の中に響いた。
返答は無い。
「……すべてを葬り去ったか。
信豊たち首謀者も、それを討った小山田信茂も。
気が済んだか」
正信は目を開けた。
「それは、何よりでござる。
これで……義経は、殿に嫌疑をかけることはできませぬ」
「何度も申したであろう、某に二心は無い。
にもかかわらず、逃げ回らねばならなかったではないか……」
正信の口の端がわずかに上がったが、言葉は無かった。
「しかし、その血塗られたたくらみで――
義経様は甲斐、信濃を手に入れられた。
貴様のお陰で惣無事令に近づいたのかもしれぬ……」
言葉を発した後、家康の目線が厳しくなる。
「信長公と義経殿は――同じではない。
義経様とともに、天下静謐を目指すのみじゃ」
家康の言葉を耳にし、正信はゆっくりと顔を家康に向けた。
「信玄公の志は、意外に武田家中の結束にはつながらなかったようですな……
それどころか、頼朝の志に引かれる武田家中のものが多かったのは、驚きました」
淡々と言葉を発する正信。
ふっと息を吐いた。
「それでも……義経では天下は収まりませぬ。
殿こそが、自らのお力で収めてこそ、天下静謐となりまする」
「まだ言うか、正信。
貴様の忠義は忘れぬが、もうあきらめよ」
しかし、正信は家康を凝視したまま顔を動かさない。
家康は正信が縦に首を振らない事に、いらだちを感じ始めた。
その家康の様子を感じ取ったのか、正信は口を開いた。
「お伺いしたいことが、いくつかござる」
その低い声が、牢の石壁に反響し、家康の耳にやけにはっきりと届いた。
「殿に二心は無い、そう申されましたな」
「……その通りじゃ」
「では――
酒井忠次殿が甲斐に向かった後、義経の家臣たちは殿を信じておりましたか」
「それは……わしが義経様であれば、疑うであろう」
正信の口の端が上がった。
「そのような事ではござらぬ。
義経の家臣たちの、殿への態度でござる。
綺麗ごとの先に我らは命をかけて戦をしたのでござる。
義経が惣無事令を成し遂げたのち、頼朝の頃からの家臣たちは――
おとなしく殿に従うとお思いか」
家康の表情に怒気が浮かぶ。
「貴様は……それを某に思い知らせるために、忠次を動かしたと申すか……!」
正信は答えなかった。
しばらくして口を開いた時には、異なる言葉を家康に投げかけた。
「武田梓は、今どうされておる……」
「なぜ、そのような……」
僅かな間、正信の言葉を頭の中で繰り返したが、家康の目が突如として開く。
家康は、正信を睨みつけた。
しかし正信は続けた。
「毛利は……今どうされておる」
その正信の言葉に、家康は言葉を失った。
正信が見据えていたものが、家康の中で繋がった。
「貴様は、徳川の力が強くなれずとも……
義経様と梓様を揺さぶり――そればかりか、某まで揺さぶろうとしたのか!」
家康は声を上げた。
しかし、正信は目を閉じ、再び座禅をはじめる。
そして一言呟いた。
「さて、何のことでございましょう……」
「き、貴様……!」
家康は蝋燭を落とし、両手の拳を強く握っていた。
「番兵!
引き続きこのものを見張れ!」
番兵の鎧の音が牢に近づく。
家康が牢から立ち去ろうとしたところで、正信は再び口を開いた。
「これで……義経が信に足る君主か、見極められるが良かろう。
拙者は――いつでも喜んで斬られましょう」
家康は一瞬立ち止まった。
しかし、正信に振り返らず、牢から出た。
牢の外は、夜の闇が広がっていた。
月も隠れ、篝火があたるところだけが家康の進む道を示す。
家康は暗闇に向けて声を上げる。
「この役立たずめ……!」
「誠に、申し訳ございませぬ……」
闇の先から、半蔵の声が微かに聞こえてきた。
「数正には、陣を川越に移し、引き続き北条氏政殿をお助けするように伝えよ。
わしは、急ぎ二条城に向かう!」
「御意」
半蔵の気配が消え、家康は馬にまたがる。
鞭を強く打ち、家康を乗せた騎馬も闇の中に消えていった。
お読みいただきありがとうございました。
武田の争乱は、誰も勝者なきまま、多くの命とともに幕を閉じました。
すべてを葬り去り、なお多くを語らぬ本多正信。
その胸のうちは、いまだ誰にも知れません。
ただ一つ確かなのは――
正信の仕掛けた踏み絵が、始まったばかりだということ。
この後の展開も、是非おつきあいくださいませ。




