第二十一話 冷や汗と悲劇
薄氷を踏むような思いで、駿府城を発った家康。
天候による進軍の遅れを祈りながら、青い空が家康をあざ笑うかのように目の前に広がる。
もぬけの殻の蒲原城で苦し紛れに家康は言う。
「本陣は岩淵でござる」
もう家康に、逃げ道は無かった。
駿府を発ち、東海道を東へ進むにつれ、家康の目はしきりに空へ向いた。
初夏の空は青く、雲は薄い。
湿った風こそ海から吹きつけているが、薩埵峠を閉ざすほどの霧も、富士川を濁らせるほどの雨も見当たらない。
荒れてほしい。
だが、荒れすぎては困る。
薩埵の道がせめてあと半日ほど塞がり、富士川の渡しが一刻ほど渋る。
ただそれだけでよい。
家康は、馬上で静かに息を吐いた。
横を進む太田道灌の目が、ちらりとこちらを向いた気がした。
「家康殿、いかがされた」
「いや……初夏の富士も、なかなか良きものと思うただけにござる」
家康の背には、今日も冷たい汗が流れていた。
薩埵峠へ差しかかると、道は急に狭くなった。
左手には山肌が迫り、右手の下には駿河湾が鈍く光っている。
道そのものは通れぬほどではない。
だが、馬を二頭並べて進むには心許なく、荷を積んだ馬が一頭でも足を滑らせれば、後ろはたちまち詰まるであろう。
海から湿った風が吹き上げ、草の葉を揺らした。
雨でも降れば、土はぬかるみ、蹄は石を噛み損ねる。
だが、空は晴れていた。
風はあるが、馬を止めるほどではない。
道は、腹立たしいほど乾いている。
家康は、その道を恨めしく眺めた。
お市は巧みな手綱捌きで、難所を難無く馬を進める。
馬を無用に早く走らせず、かといって、道灌達に疑われるほどに遅い進みでもなかった。
***
昼頃には蒲原城に到着した。
ここに軍営があれば……
祈るように馬を進めてきた家康であったが、蒲原城はただ静かに佇んでいた。
「蒲原城は最前線の城と存ずるが、誰も控えておらぬのか」
太田道灌が、家康に聞こえるように低くつぶやく。
「本陣は岩淵でござる」
家康は道灌に伝えた。
しかし、もう後が無い。
「蒲原城にて、馬をひとまず休ませましょうぞ」
薩埵峠を越え、馬は消耗していた。
しかし、上杉弓がすぐに反応した。
「その必要はございませぬ。
岩淵は目と鼻の先、難所もございませぬ。
富士川にいたれば、馬はいくらでも水を飲めまする」
家康に反論の余地はなかった。
「いや、弓殿。
お言葉に甘えて蒲原城に立ち寄ろうではないか。
まだ日はある」
道灌は蒲原城の中を確認したいのか、それとも岩淵に軍勢がいなかった時のことを考えて馬を休ませているのか――
いずれにせよ、家康は息苦しくなるばかりであった。
家康とお市は城内に入り、侍女たちに急ぎ握り飯を道灌、弓、十兵衛に用意させた。
お市と一室に入ったところで、家康の顔に喜色が浮かぶ。
「……半蔵!」
「遅くなり申した……」
「どうじゃ!戻ったか!」
わずかに差し込んだ光にすがりつくように、家康は半蔵に問いかけた。
「先ほど岩淵の対岸に忠次様の先遣隊が戻りました。
今渡河を急いでいるところでございます」
「いや、渡河しているところを見られては何もならぬ。
とにかく岩淵に布陣せよ、何事もなかったかのように……!」
「わずかばかりのお時間があれば、確実かと」
「いや、もう待てぬ……!」
落ち着かない家康を見て、お市が口を開く。
「家康様、ひとまず大丈夫でございます。
あとは忠次様にお任せしておけば、よろしいかと存じまする」
「そうじゃの、忠次であれば、大丈夫であろう」
言葉と裏腹に、家康の足の貧乏ゆすりは収まらなかった。
「ではおのおのがた、参る」
家康が声をかけ、再び馬を進めた。
背中の汗は収まっていた。
そこに、数名の騎馬武者が前から向かってきた。
「どお!」
家康たちの前で馬を止めたのは本多忠勝であった。
「これは!」
歓喜の声を上げたのは、柳生十兵衛だった。
家康との最後の合戦の際に忠勝と十兵衛は剣を合わせ、お互いを認め合った仲だった。
「十兵衛殿がいらしてるとお聞きしたゆえ、居ても立ってもいられなくての。
また蒲原の地にてお会いするとは!」
豪快に馬上で笑う忠勝だった。
「あの時の興奮は忘れられぬ!
約束は忘れておるまいの!」
先ほどまで寡黙だった十兵衛は、人が変わったように声を発していた。
「おおよ。
いつでもお相手つかまつる!」
忠勝は十兵衛から目線を離し、家康に顔を向ける。
「我が軍はいつでも動けますぞ!
殿!いつまで我々は待機をせねばならぬのですか!」
大きな声で家康に語り掛ける。
忠勝の芝居じみた口調に苦笑したが、家康の息苦しさは確実に楽になっていた。
忠勝の大声も、心地よく聞こえた。
「後ほどそなたらに話をせねばならぬ。
ご苦労であった!」
家康もいつになく声が真っすぐに発せられていた。
***
同じころ、南信濃から甲斐に攻め込むべく、源頼光の先遣隊が前線の拠点・高遠城に着陣した。
高遠城主・仁科盛信が頼光を出迎えていた。
「頼光様、よくぞお越しくだされた」
仁科盛信は、武田勝頼の異母弟。
義経の妻・武田梓の叔父にあたる。
盛信に笑顔は無かった。
「いつぞやは、信濃をお救いいただき、ご恩を忘れたことはございませぬ」
それでも盛信は、丁寧に頼光に頭を下げた。
「盛信殿、此度のことは誠に心が痛む。
梓殿のお悲しみも想像を絶する……
しかし、良くぞ我らとともに歩まれる決意をされた。
感謝申し上げる!」
頼光は馬から降り、盛信の導くままに城内に足を進めようとした。
その時だった。
「盛信様!」
武田の軍旗を背に立てた早馬の武者が、盛信のもとに走り寄ってきた。
「いかがした!」
「甲斐であらたな争いが!
武田信豊様、穴山梅雪様、山縣昌景様、そのほか謀反に加担した多くのものがお討ち死に!」
「なんと!信勝様は!」
伝令は額を地にこすりつけた。
「……お討ち死に!」
伝令もその場で慟哭していた。
「何があった……何があった!」
盛信の額にも太い血管が浮き出ていた。
「国境に軍を差し向け、兵の少なき軍議中の躑躅ヶ崎館を、小山田信茂様が急襲したとの事……」
盛信は、力なくその場で膝をついた。
「な、なんという事じゃ……
して――信茂はいかがした!」
「我らに降伏と、甲斐の武装解除を伝えてきたものの、その信茂様も何者かに討たれたとの事!」
盛信は空に震える手を伸ばした。
「父上……力なき拙者に、罰を……!
父上!」
武田信玄の息子・盛信は、信濃の空を震わせんばかりの咆哮をあげていた。
お読みいただきありがとうございました。
家康が取り繕う間に、甲斐ではさらなる悲劇が起きていました。
長篠の戦いを起こさずに、武田を守った頼朝軍でしたが、
生き延びた武田家の悲劇は止められませんでした。
次回、義経を気丈に支えてきた梓のもとに悲報が届きます。
この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。




