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第二十話 お市と上杉弓

夫・坂田金時を失った悲しみを胸に、

上杉弓が、お市に食ってかかる。


その激情を、お市は静かに、しかし毅然と受け止めた。

「おだまりなさい、弓様!」


二人の女が抱える痛みを、まだ誰も知らない。

「頼朝様を近くで支え続けてこられた、お市様のお言葉とも思えませぬ」


上杉弓はお市にも容赦しなかった。


「戦国の世で、勝ち負けは世の常。

負けたにもかかわらず、旧領、家臣も据え置かれたのは、頼朝様の温情。


先陣の入れ替えごとき、つべこべ言わずに従うべきでございましょう」


お市にさらにまくしたてた。

しかしお市は静かに首を横に振る。


「弓様……あなたは、頼朝様の事を何もご存じない……


頼朝様がどのようなお気持ちで、家康様と戦うことをご決断されたか。

不本意な決断をしながらも、最後まで礼を尽くそうと模索されていました。


それを――

家康様を敗者のごときご発言、頼朝様の温情を語る資格はございませぬ」


弓の言葉に一切動じないお市の態度が、弓をさらに激高させた。


「戦う前から……誰が見ても結果は明らかでした。

にもかかわらず徳川は何度も勧告をはねのけ、無謀にも挑んだのです。


そして……

我が夫は、無用に命を落としたのです……!」


「おだまりなさい、弓様!」


お市が間髪をいれずに弓の言葉を止めた。


「弓様は、義経軍の幹部のお一人。

私情でお話をされるのはお控えなさいませ。


大切な金時様を失われた弓様のお悲しみ……

同情を禁じえませぬ。


しかし、徳川は万を超える将兵を失ったのです。

それを攻めかかった我々が降伏しないのが悪いなどと……


お控えなさい!」


今にも刀を抜いてお市に切りかかりそうなほどに、弓はお市を睨みつけていた。


挿絵(By みてみん)


「お市様……お市様に何がわかるというのです……!


現にあなたは、ご自分の大切な方、家康様を必死に守っておいでではありませぬか。

大切な方を失ってみたものにしか、この気持ちはわかりませぬ!」


弓は絶叫に近い声を出した。


それを見た柳生十兵衛が、弓の肩を支える。

静かに弓を見つめる十兵衛は、弓が倒れない様に支えているようで、お市に飛び掛からないように抑えているようでもあった。


挿絵(By みてみん)


「弓殿……それは、違う」


道灌の低い声が響く。


「お市殿は、最愛の方を殺されたのじゃ……しかも実の兄に。

それでも、その兄・信長のために必死に戦っておられた……。


そなたの気持ちは、誰よりもわかっておる」


道灌は弓に近づき、肩に手をのせる。


「金時殿が亡くなられたのは、わしとて辛い……!

だが、お市殿の申される通り。

今は……私怨はつつしまれよ」


弓は言葉にならない声を出し、畳に突っ伏した。


挿絵(By みてみん)


道灌はしばらく弓の背中をさすっていたが、間もなく立ち上がった。

あらためて家康に向けて口を開く。


「確かに、旧徳川の将兵は、多様な想いがござろう。

無用な困惑は避けねばならぬ」


道灌は声を和らげていた。

しかし、すぐに眼差しが鋭くなる。


「では、こういたそう。

徳川殿が富士川の軍勢に話をされる際に、わしら三人も同行いたそう。

わが軍勢が集まるまでは、先遣隊も駿府に留めおく」


そして、道灌の口の端が上がる。


「徳川殿がご説明に窮されたときには――

わしらが義経様のご意向をお伝えすれば、家康様への傷はつかぬ」


道灌は一歩、家康に身体を近づけた。


「いかがであろう、徳川殿」


家康は、納得したかのように、背筋を力いっぱい伸ばした。


「道灌殿、我ら徳川の事情をお汲み取りいただき、感謝申し上げる。

では、数日準備が整い次第……」


「明朝、出立とさせていただきたい」


すぐに道灌が家康の言葉を遮った。


「承知いたした……

それでは、明朝出立いたしましょう。

お気遣い……感謝申し上げる」


家康は丁寧に頭を下げた。


道灌は弓を抱き起こし、十兵衛とともに部屋を退出した。



しばらく退出する三人を眺めていた家康であったが、足音が小さくなったところで、手を後ろについて足を投げ出した。


「生きた心地がせぬ……

なぜ、ここまで隠し立てをせねばならぬ……わしに二心は無いのじゃ」


お市は、家康に微笑んでいた。


「某の失言から窮地に陥ったが――

いちのお陰じゃ、いや、やはりお市殿じゃ……!」


「私は策などろうしておりませぬ。

申し上げたことは、真のことでございます……


お若くて、お気持ちが昂り、弓様のお言葉が適切ではございませんでした」


お市も、ふっと息を吐いた。


「でも、そのお陰で――今日のところは窮地を脱しましたね」


「いやはや、また明日以降どうするかじゃな……

富士川に参ったとて、軍勢がおらねば……」


家康は上体を起こした。


「長政殿はご立派な武人であられた。

それに比べ、某は……」


お市は、静かに微笑むだけで、言葉は無かった。


家康は、お市のところに這っていった。

そして、お市の膝に頭をのせる。


「家康様、このようなときに……」


「このような時だからこそじゃ。

明日には、あの弓という武辺ものに切り捨てられるかもしれぬ。

いちにも失望されるかもしれん。

後悔無きよう、今を生きねば……」


家康はお市の腰に手をまわす。


「本当に、竹千代様ですね……」


お市も家康の頭に手をのせた。


「明日は、私が先導いたしまする。

私であれば馬を走らせずとも、道灌様にお許しいただけるでしょう……」


「ありがたい……」


家康は子供のように、お市の膝に顔をうずめたままであった。


挿絵(By みてみん)


***


翌朝。


家康とお市が馬を引いて城門を出ると、すでに道灌、弓、十兵衛が騎乗にて家康を待っていた。


静かに佇む道灌の横で、弓の眼差しは相変わらず敵意に満ちていた。

十兵衛はその二人から少し下がったところで、家康とお市を目にすると、軽く頭を下げた。


お市も、頼朝軍と戦ったとき以来の鎧をまとっての登場だった。

そのお市の姿をみて、道灌が笑みを浮かべる。


「お市殿には、頼朝殿も、トモミク殿も、散々に戦場でやられておりましたな!

そのお姿、思い出しましたぞ!」


愉快そうに高笑いする道灌だった。

お市も笑顔で会釈した。


「いちは、戦場におったのか……」


信長軍でお市が部隊を率いていたことは、家康には初耳だった。


「そうでございますよ、家康様。

家康様に何かありましたら、私にお任せを」


お市は意地悪そうに家康に微笑む。

そのまま馬に素早くまたがり、道灌たちの前に馬を進めた。

家康もあわてて馬に乗る。


「それでは、参りましょう」


一行は駿府城を出て、薩埵峠に向かった。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


誰もが等しく胸にする忠義。

頼朝の志を継ごうとする者たち。


それぞれの想いを胸に、駿府を出ました。


次回、義経に臣従した高遠城主・仁科信盛の元に甲斐から早馬が届きます……


この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。

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