表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/36

第十九話 竹千代の汗

義経に忠義を誓った家康。

にもかかわらず、自らの居城の中をこそこそと寝所に戻る。


駿府で家康を待っていたのは、家康と激闘を重ねた、太田道灌だった。

富士川を越え、家康は蒲原城下に差し掛かった。

もぬけの殻となっている吉原の陣所、蒲原城の脇を抜け、家康は苦々しく馬を走らせる。


崖と駿河湾の波に挟まれた薩埵峠を、馬の蹄の音を響かせて駆け上がった。

新緑の先には圧倒的な初夏の富士が、駿府の街並みとともに出迎えている。


挿絵(By みてみん)


義経から勅命を受けた、宿将の一人、太田道灌が駿府で家康の到着を待っている。

あの威圧感のある老将が、舌打ちしながら待ち受けていると想像すると、馬に鞭打つ力が入らない。

忠次の進軍が道灌に知れてしまえば、もはや言い逃れなど思い当たらない。



いよいよ駿府城が近づいたところで、太田道灌率いる先遣隊の陣が目に入る。

太田道灌と顔を合わせぬよう、祈りながら城門までたどり着くと、お市が出迎えていた。


「お市殿……いや、いち……」


お市は軽く頭を下げると、家康を導くように勝手口に足を進めた。

遠回りをして家康の寝所に向かいながら、お市は耳元にささやいた。


挿絵(By みてみん)


「道灌様と副将の皆様には、城内にてお休みいただいております。

お会いいただく前に、お伝えしたきことがございます」


「出迎えてもらい、命拾いじゃ。

ところで、忠次が甲斐に向かっていることは……」


「道灌様が到着する直前に、半蔵様の使いからお話を伺いました。

案の定、道灌様はここまで兵らしき兵がいないことを訝しんでおります」


家康は、ひとつ胸を撫でおろした。


「半蔵が手をまわしてくれておったか……」


***


人目に触れず寝所に入り、家康はほっと一息入れる。


「我が城にも関わらず、逃げ回らねばならぬとは……」


鎧を外しながら、お市にこぼす。


「……いったい、何があったのですか」


「十中八九、正信じゃ……

壮大な陰謀を巡らせ、何かが大きく外れたようじゃ……


いずれにせよ――義経様が大事にされている梓様のお身内の惨状。

義経様の指示も無く、我らが勝手に攻め滅ぼそうとするなど、怪しまれてもおかしくはなかろう」


「でも家康様……義経様は家康様を心より信じていらっしゃいます。

全て家康様にお任せするとも……」


「わしも義経様への忠義は変わらぬ」


お市が家康の着物を整える。

久々の再会だというのに、生きた心地がせず、落ち着かない自分を隠すことができない。


「此度の一連の動き……宝殿であれば、説明のつかぬところから綻びを嗅ぎつける……」


お市は微かに微笑む。


「あの可愛らしい宝様を、余程怖れていらっしゃるのですね」


「きっと、あの容姿も、相手を油断させるために、生まれる前に考えた恐るべき策じゃ……」


「まあ、家康様ったら……」


お市はくすくすと笑いながら、家康の帯を締め終わった。


挿絵(By みてみん)


「ところで家康様。

此度いらしている太田道灌様……先の戦で副将の坂田金時様を失われております。

ご立派な方ですが、その分配下の将へのお気持ちも、とても強い方でございます」


「……しかし、一方的に攻めて来られたのは我ら徳川じゃ。

我らとて、必死であった……ご理解賜りたいものよ」


「はい、そこは道灌様もわきまえてはいらっしゃると存じます。

問題は……

太田道灌様の部隊の副将となられたのが、上杉弓様……


上杉景勝様のご息女で、坂田金時様に嫁がれました。

気性の激しい女将と聞いております……」


家康は目を閉じ、気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返した。

自らを戒めるように、両手で自らの頬を軽くたたきながら、口を開く。


「宝殿に断罪されるまでもなく、隙を見せたらば、目の前の虎たちに食いちぎられるかも知れぬの。

心してかかるしかあるまい……」


お市は怯える家康の様子に、微笑む。


「相変わらずですね、竹千代様」


「よくぞこのような臆病者を、待っていてくれたものじゃ……」


「家康様も、頼朝様も、ご自身のお力をご存じありません。

そのような御仁に……弱い女子おなごもいるのです」


お市はあらためて家康を見据える。


「いざとなれば、私も……義経様に命乞いをいたします。

宝様も、家康様を信じていらっしゃいますよ」


お市に励まされ、苦笑いをしながら覚悟を決めた。


「さて……お市殿。

お会いするのは、明日としよう。

少しでも時を稼ぎたい……」


「かしこまりました」


お市は微笑みを絶やさず、静かに頷いた。


***


「よくぞ参られた、道灌殿!」


家康は腰を低め、歓迎の意を示す。


「これは、徳川殿。

すっかり、源氏の御旗が似合われる御仁になられた!」


道灌の大きな声が部屋に響く。

部屋の中の軍旗は、徳川の葵の御旗が飾られていたのみだった。


道灌の横に目をやると、お市の言葉通り、女将が鋭い眼差しを家康に向けていた。

その家康の目線に気が付いたのか、道灌が自らの副将に手を向ける。


「徳川殿、こちらが上杉弓殿。

上杉景勝殿のご息女。先の戦で未亡人となられたが、上杉に戻らずわしの部隊の副将を引き受けてくれておる。

そして、その横にいるのが柳生十兵衛」


十兵衛は家康に頭を下げるが、弓は微動だにしなかった。


「これはこれは。

先の戦では道灌殿の先陣にはわが軍も辟易しておりましたゆえ……」


「何を申される。

わが隊ほど徳川殿の強さを思い知らされた部隊は無かろう」


「生き恥をさらしながらも、頼朝殿の志のもと、ともに戦えるのは、わが徳川にとって光栄の至り」


家康の背中には、汗が伝わっていた。


太田道灌は、口の端を上げながらも、凍り付くような眼差しを家康に向けている。


「何と申しても、徳川殿は、将来の我らの君主となられるお方。

そのような事を言われると、こちらが恐縮いたす」


道灌の大きな声が、家康の耳を打つ。


「ところで、家康殿――」


道灌が肩を前に出す。

上がっていた口の端は、見る影もない。

獲物を狩る獣のような口に、家康には感じられた。


「軍勢は、今どちらに」


道灌と弓の眼差しは、獲物を狙う虎のようだった。

そのような臆病な自分に苦笑する余裕も許されない。


挿絵(By みてみん)


「当初は北条の援軍として、川越に布陣しておりました。

今は八王子にてその軍勢は待機しておりまする」


額に汗が浮かばぬように、呼吸を整えながら口を開いていた。


「それで全軍でござるか……

この駿府に至るまで、どこの城ももぬけの殻のように感じたのは――

拙者の思い違い、でござるか」


「残りの軍勢は、富士川沿いで布陣をしておりまする。

義経様からの命があれば、すぐに動けるように待機を命じておりまする」


家康の口の中は異様に乾いていた。

しかし、道灌の眼差しはますます鋭くなる。


「では、すぐにその軍勢を引かれよ。

義経様からの勅命で、先陣は我々が引き受ける」


牙を向けたかのような声を上げたのは、上杉弓だった。


「これは異なことを承る。

この家康が義経様から直々に武田、北条などの関東の有事をお任せくだされた。

それを軍を退けとは、某を信じておらぬのか」


「信じておらねば、いかがいたす。

我らは義経様からの勅命に従うのみ」


弓の容赦のない言葉が家康に投げかけられる。

しかしここで蒲原への進軍を安易に受けるわけにもいかない。


とうとう家康の額から汗がにじみ出てきた。

動揺を悟られぬためには、怒ってみせるしかない。


「我らも義経様からの信を得て東日本の安寧を任されておる。

義経様より直々にお話を伺えねば、家臣に示しがつかぬ……」


「家臣……とは――」


家康の言葉に間髪入れず道灌が反応した。


「徳川殿の配下は、義経様の家臣であらせられる。

……お忘れか」


低く静かな道灌の声であったが、家康を刺すような一言である。


そこに割って入ったのはお市であった。


「道灌様……

先ほどからお話を伺っていると――

お味方同士のお話とは思えませぬ」


「お言葉でござるが、お市殿。

義経様からの勅命を拒むようなことを申されておるのは、徳川殿ではないのか」


道灌はお市に厳しい眼差しを向けた。


「それは、道灌様……問答無用に軍を退けなどと言われましたら、困惑するのは当然でございます。

家康様とかつての家臣の皆様が、どのようなお気持ちで義経様に忠節を尽くそうとしているか……


それを、問答無用で軍を退けなどと。


家康様がどのような思いで頼朝様の志を知り、大役を引き受けられたか、お考えになったことはございますか」


お市は穏やかながら、揺らがない声を道灌に発した。

すぐに道灌は言葉が見つからなかった。


しかし、道灌も弓もお市に敵意があるかのような視線を浴びせていた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


参謀本部から家康への警戒を託された、太田道灌。

かつて死闘を演じた相手を前に、家康の冷や汗は止まりません。


その窮地に、お市は何を語るのか。

そして、忠次の軍は、無事に退くことができるのか。


甲斐では、新たな悲劇が、静かに動き出しています。


この後の展開も、お付き合いくださいませ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ