第十九話 竹千代の汗
義経に忠義を誓った家康。
にもかかわらず、自らの居城の中をこそこそと寝所に戻る。
駿府で家康を待っていたのは、家康と激闘を重ねた、太田道灌だった。
富士川を越え、家康は蒲原城下に差し掛かった。
もぬけの殻となっている吉原の陣所、蒲原城の脇を抜け、家康は苦々しく馬を走らせる。
崖と駿河湾の波に挟まれた薩埵峠を、馬の蹄の音を響かせて駆け上がった。
新緑の先には圧倒的な初夏の富士が、駿府の街並みとともに出迎えている。
義経から勅命を受けた、宿将の一人、太田道灌が駿府で家康の到着を待っている。
あの威圧感のある老将が、舌打ちしながら待ち受けていると想像すると、馬に鞭打つ力が入らない。
忠次の進軍が道灌に知れてしまえば、もはや言い逃れなど思い当たらない。
いよいよ駿府城が近づいたところで、太田道灌率いる先遣隊の陣が目に入る。
太田道灌と顔を合わせぬよう、祈りながら城門までたどり着くと、お市が出迎えていた。
「お市殿……いや、いち……」
お市は軽く頭を下げると、家康を導くように勝手口に足を進めた。
遠回りをして家康の寝所に向かいながら、お市は耳元にささやいた。
「道灌様と副将の皆様には、城内にてお休みいただいております。
お会いいただく前に、お伝えしたきことがございます」
「出迎えてもらい、命拾いじゃ。
ところで、忠次が甲斐に向かっていることは……」
「道灌様が到着する直前に、半蔵様の使いからお話を伺いました。
案の定、道灌様はここまで兵らしき兵がいないことを訝しんでおります」
家康は、ひとつ胸を撫でおろした。
「半蔵が手をまわしてくれておったか……」
***
人目に触れず寝所に入り、家康はほっと一息入れる。
「我が城にも関わらず、逃げ回らねばならぬとは……」
鎧を外しながら、お市にこぼす。
「……いったい、何があったのですか」
「十中八九、正信じゃ……
壮大な陰謀を巡らせ、何かが大きく外れたようじゃ……
いずれにせよ――義経様が大事にされている梓様のお身内の惨状。
義経様の指示も無く、我らが勝手に攻め滅ぼそうとするなど、怪しまれてもおかしくはなかろう」
「でも家康様……義経様は家康様を心より信じていらっしゃいます。
全て家康様にお任せするとも……」
「わしも義経様への忠義は変わらぬ」
お市が家康の着物を整える。
久々の再会だというのに、生きた心地がせず、落ち着かない自分を隠すことができない。
「此度の一連の動き……宝殿であれば、説明のつかぬところから綻びを嗅ぎつける……」
お市は微かに微笑む。
「あの可愛らしい宝様を、余程怖れていらっしゃるのですね」
「きっと、あの容姿も、相手を油断させるために、生まれる前に考えた恐るべき策じゃ……」
「まあ、家康様ったら……」
お市はくすくすと笑いながら、家康の帯を締め終わった。
「ところで家康様。
此度いらしている太田道灌様……先の戦で副将の坂田金時様を失われております。
ご立派な方ですが、その分配下の将へのお気持ちも、とても強い方でございます」
「……しかし、一方的に攻めて来られたのは我ら徳川じゃ。
我らとて、必死であった……ご理解賜りたいものよ」
「はい、そこは道灌様もわきまえてはいらっしゃると存じます。
問題は……
太田道灌様の部隊の副将となられたのが、上杉弓様……
上杉景勝様のご息女で、坂田金時様に嫁がれました。
気性の激しい女将と聞いております……」
家康は目を閉じ、気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返した。
自らを戒めるように、両手で自らの頬を軽くたたきながら、口を開く。
「宝殿に断罪されるまでもなく、隙を見せたらば、目の前の虎たちに食いちぎられるかも知れぬの。
心してかかるしかあるまい……」
お市は怯える家康の様子に、微笑む。
「相変わらずですね、竹千代様」
「よくぞこのような臆病者を、待っていてくれたものじゃ……」
「家康様も、頼朝様も、ご自身のお力をご存じありません。
そのような御仁に……弱い女子もいるのです」
お市はあらためて家康を見据える。
「いざとなれば、私も……義経様に命乞いをいたします。
宝様も、家康様を信じていらっしゃいますよ」
お市に励まされ、苦笑いをしながら覚悟を決めた。
「さて……お市殿。
お会いするのは、明日としよう。
少しでも時を稼ぎたい……」
「かしこまりました」
お市は微笑みを絶やさず、静かに頷いた。
***
「よくぞ参られた、道灌殿!」
家康は腰を低め、歓迎の意を示す。
「これは、徳川殿。
すっかり、源氏の御旗が似合われる御仁になられた!」
道灌の大きな声が部屋に響く。
部屋の中の軍旗は、徳川の葵の御旗が飾られていたのみだった。
道灌の横に目をやると、お市の言葉通り、女将が鋭い眼差しを家康に向けていた。
その家康の目線に気が付いたのか、道灌が自らの副将に手を向ける。
「徳川殿、こちらが上杉弓殿。
上杉景勝殿のご息女。先の戦で未亡人となられたが、上杉に戻らずわしの部隊の副将を引き受けてくれておる。
そして、その横にいるのが柳生十兵衛」
十兵衛は家康に頭を下げるが、弓は微動だにしなかった。
「これはこれは。
先の戦では道灌殿の先陣にはわが軍も辟易しておりましたゆえ……」
「何を申される。
わが隊ほど徳川殿の強さを思い知らされた部隊は無かろう」
「生き恥をさらしながらも、頼朝殿の志のもと、ともに戦えるのは、わが徳川にとって光栄の至り」
家康の背中には、汗が伝わっていた。
太田道灌は、口の端を上げながらも、凍り付くような眼差しを家康に向けている。
「何と申しても、徳川殿は、将来の我らの君主となられるお方。
そのような事を言われると、こちらが恐縮いたす」
道灌の大きな声が、家康の耳を打つ。
「ところで、家康殿――」
道灌が肩を前に出す。
上がっていた口の端は、見る影もない。
獲物を狩る獣のような口に、家康には感じられた。
「軍勢は、今どちらに」
道灌と弓の眼差しは、獲物を狙う虎のようだった。
そのような臆病な自分に苦笑する余裕も許されない。
「当初は北条の援軍として、川越に布陣しておりました。
今は八王子にてその軍勢は待機しておりまする」
額に汗が浮かばぬように、呼吸を整えながら口を開いていた。
「それで全軍でござるか……
この駿府に至るまで、どこの城ももぬけの殻のように感じたのは――
拙者の思い違い、でござるか」
「残りの軍勢は、富士川沿いで布陣をしておりまする。
義経様からの命があれば、すぐに動けるように待機を命じておりまする」
家康の口の中は異様に乾いていた。
しかし、道灌の眼差しはますます鋭くなる。
「では、すぐにその軍勢を引かれよ。
義経様からの勅命で、先陣は我々が引き受ける」
牙を向けたかのような声を上げたのは、上杉弓だった。
「これは異なことを承る。
この家康が義経様から直々に武田、北条などの関東の有事をお任せくだされた。
それを軍を退けとは、某を信じておらぬのか」
「信じておらねば、いかがいたす。
我らは義経様からの勅命に従うのみ」
弓の容赦のない言葉が家康に投げかけられる。
しかしここで蒲原への進軍を安易に受けるわけにもいかない。
とうとう家康の額から汗がにじみ出てきた。
動揺を悟られぬためには、怒ってみせるしかない。
「我らも義経様からの信を得て東日本の安寧を任されておる。
義経様より直々にお話を伺えねば、家臣に示しがつかぬ……」
「家臣……とは――」
家康の言葉に間髪入れず道灌が反応した。
「徳川殿の配下は、義経様の家臣であらせられる。
……お忘れか」
低く静かな道灌の声であったが、家康を刺すような一言である。
そこに割って入ったのはお市であった。
「道灌様……
先ほどからお話を伺っていると――
お味方同士のお話とは思えませぬ」
「お言葉でござるが、お市殿。
義経様からの勅命を拒むようなことを申されておるのは、徳川殿ではないのか」
道灌はお市に厳しい眼差しを向けた。
「それは、道灌様……問答無用に軍を退けなどと言われましたら、困惑するのは当然でございます。
家康様とかつての家臣の皆様が、どのようなお気持ちで義経様に忠節を尽くそうとしているか……
それを、問答無用で軍を退けなどと。
家康様がどのような思いで頼朝様の志を知り、大役を引き受けられたか、お考えになったことはございますか」
お市は穏やかながら、揺らがない声を道灌に発した。
すぐに道灌は言葉が見つからなかった。
しかし、道灌も弓もお市に敵意があるかのような視線を浴びせていた。
お読みいただきありがとうございました。
参謀本部から家康への警戒を託された、太田道灌。
かつて死闘を演じた相手を前に、家康の冷や汗は止まりません。
その窮地に、お市は何を語るのか。
そして、忠次の軍は、無事に退くことができるのか。
甲斐では、新たな悲劇が、静かに動き出しています。
この後の展開も、お付き合いくださいませ。




