第二話 積もる雪
頼朝を亡くした悲しみに向き合う間もなく、
慣れない政務に忙殺される日々が続いていた。
兄・頼朝と自らを比べること自体おこがましい――
そう自らを戒めながらも、
義経は牛一を前に、思わず呟いた。
「……兄上は、これを毎日、こなしておられたか」
雪は、まだ降り止まない。
頼朝の鎮魂の儀から、ひと月が過ぎていた。
雪はいまだ止まず、二条城の白い屋根を厚く覆い続けていた。
家臣たちはそれぞれの領国へと戻り、城内は急に静かになっていた。
しかし義経の前には、書状の山が積まれていた。
頼朝の死とともに、判断を仰ぐべき相手を失った案件が、日に日に増えていく。
その日も、評定の間に大田牛一が一人、書を抱えて現れた。
「少しお耳に入れたきことが……」
人払いをしたのち、牛一は声を潜めて義経に近寄った。
「荒木村次殿の件でございます」
「……京を制圧できたのは、荒木村重殿の帰順があったからこそ、と聞いた。
村重殿を継いだのが、甥の村次殿であったな」
「仰せの通りでございます……」
牛一の表情は、さらに曇った。
「我らは荒木家に恩義がございます。
しかし頼朝様が京に移られた頃より、荒木家中から悲鳴を聞いておりました。
頼朝様は佞臣による讒言か、事実であるのか、慎重に調べるようにご指示されました」
「……その牛一殿の話ぶりからすると、事実、という事じゃな……
して、いかがいたす」
「某が参った世では、高山重友が、かの国を良く治めておられた。
荒木家の中でも、重友殿を推す声も耳にいたします」
「それで、良いではないか」
しかし、牛一の顔は晴れない。
「宣教師たちとのつながりが強く……注意が必要かと存ずる。
ただし、今は重友殿の他に、摂津を穏便に収めるものも思い当たりませぬ」
「その、宣教師とやら……引っ掛かるのか、牛一殿」
牛一の声に、これまでに無い慎重さが滲んだ。
何かを抱えている――義経もそれは感じ取った。
「義経様……」
言葉を発したものの、牛一は眉間に手を当て、何やら思慮を重ねている様子だった。
「……いや、今は日ノ本のことだけをお考えくだされ。
いずれ、お話いたしたきことがござる。
ただーー宣教師が義経様に謁見を求めてきた時は、ご注意を」
「心しておこう……。
感謝する、牛一殿」
宣教師――信長との結びつきは強かったらしいが、頼朝軍が織田軍を追い出すとともに、信長と行動をともにした。
今の義経には、それ以上を聞き出すだけの余裕が無かった。
目の前の村次のこと、摂津のこと、明日の評定のこと――。
(……一つひとつ、こなしていくしかない)
宣教師のことは、義経の中の「いずれ向き合うべきもの」の山に、また一つ積まれた。
「ところで、村次殿はいかがいたす」
「人望の厚い前田利家殿が治められている、越前に移っていただくのがよろしいかと。
旧織田家の家臣の多くは、羽柴秀吉殿筆頭に、利家殿の軍団に配属をいたした。
新旧の織田家の家臣が多く、村次殿も大人しくすると存じまする」
前田利家とともに、多くの旧織田家の捕虜の前で帰順を促し、お市の方始め、多くの旧織田家重臣が帰属した時の事を、義経は思い浮かべた。
「利家殿であれば、安心じゃな」
「はっ! 摂津の件、あとはお任せを」
義経は、ふっと息を吐き、牛一に向ける眼差しを和らげた。
「牛一殿に何もかも頼ってしまっておる。
かたじけない」
牛一は平伏する。
「何ほどのこともございませぬ。
ただし、拙者も歳を取っており……」
「そのような事を申すでない。
力なき拙者を支えてもらいたいのじゃ」
牛一は、僅かに微笑む。
「ありがたきお言葉なれど、歳には勝てませぬ……
そこで、一つお願いがござる」
牛一の話に穏やかに耳を傾けていた義経――その顔つきが、急に変わった。
口は閉じ、牛一の言葉を待っていた。
「犬山におられる大内義興殿を、義経様のもとにお呼びしたく存ずる。
かのものは、天下人と呼ぶにふさわしき方でありました。
武人としてお力添えをいただいていたが、我が軍で誰よりも政を知るものと存ずる」
少し安堵した表情を浮かべた義経だった。
「隠居でも言い出すのかと気が気でなかったが……牛一殿がそこまで申されるのであれば、義興殿をお呼びしよう」
「ありがたき幸せ。
しかし義経様……某は先の世ではほぼ隠居の身同様、家康様のもとで書を書く日々を過ごしておりました。
家康様、信長様が帰順された今となっては、義興殿のような方が義経様をお支えするのが良いと存ずる」
「……そうであったか。
ただ、兄上を近くで支えていた牛一殿、秀長殿は、今のわしには必要じゃ。
もうしばらく、辛抱をお願いできぬか」
「はっ。
最善を尽くしまする……」
牛一の声には、否定とも肯定ともつかぬものが滲んでいた。
その後、牛一の報告相談は続いた。
旧織田家の家臣の処遇。
旧徳川領・織田領の修繕計画。
上杉、本願寺、毛利、長宗我部からの謁見依頼。
内大臣任官の段取りと朝廷工作の計画。
ひとつ判断するごとに、また次が積まれる。
火急の件のみの対応で、牛一が書面を閉じた時には、陽は沈んでいた。
「……兄上は、これを毎日、こなしておられたか」
呟いた義経に、牛一は静かに頭を下げた。
「頼朝様は、方向さえ定まれば、迷われることはございませんでした。
義経様も、すでに見事に裁いておられます」
労いの言葉だった。
しかし義経の耳には、それが慰めとしか響かなかった。
「……かたじけない」
短く返した義経の声に、牛一は顔を上げない。
何かを言いかけて、口を閉じる。
そして書面をまとめ、静かに部屋を辞した。
寝所に戻るとすぐに、義経は寝台に体を横たえた。
とっくに寝具を身にまとっていた妻の武田梓は、義経の横にそっと腰を下ろす。
「家康殿が臣従されたのじゃ。
那古野城に戻らずとも良かろう」
「そうも参りませんよ、義経様……」
梓は微笑みながら、力無く横たわる義経の手を握る。
義経は寝所の天井に目を向けたまま、口を開いた。
「……梓。
兄上と、拙者を比べること自体おこがましい。
わかっておる……」
言葉を呑み込んだ。
梓は、わずかに躊躇った後、続けた。
「その通りです。
義経様は、頼朝様ではございません……」
梓は、自らも義経の側に身体を横たえ、義経の頬に手を添えた。
義経は、自らの手を梓の手に合わせた。
「……どうなさったのですか」
義経は顔を横に向け、梓と目を合わせた。
梓がはじめて目にする義経の眼差しだった。
「何もない……このような男であった、昔から……」
その眼差しに、梓は思わず手を伸ばしていた。
そっと義経の首に腕を回し、引き寄せる。
すると、義経の太い腕が、梓を包み込んだ。
その力が、いつもより、わずかに強かった。
「……那古野城は、家康様の領に組み込みましょう……
弥助様も、義経様のそばに置かれると、心強いですよ」
梓は義経の胸に顔を埋めた。
義経が頷いたのが、直接伝わった。
部屋の中の灯りはいつの間にか消え、火鉢の火が僅かに部屋を暖めていた。
外では、まだ雪が降り続いている。
梓の温もりだけが、その夜、義経の傍にあった。
お読みいただきありがとうございました。
戦神と呼ばれ、鎌倉でも戦国の世でも、兄のために戦ってきました。
しかし、今やその兄は、義経には何も語ってはくれません。
梓の腕の中で、義経は何を抱えていたのか。
牛一は、何を呑み込んだのか。
頼朝の遺した軍団は、静かに、けれど確かに、揺らぎ始めます。
この後の展開も、ぜひお付き合いくださいませ。
雪は、まだ降り止みません。




