第十七話 君主の器
何とか忠次を止めないと――
馬に必死に鞭うつ家康に、本多忠勝が訝し気に問う。
「何を焦っておいでか……」
家康の恐れは……武田でも、義経でも無かった。
「某が恐ろしいのは、宝殿じゃ……!」
夜を徹して箱根を越え、陽が山間から顔を出す頃には、馬はすでに白い泡を吹いていた。
鼻息は荒く、首は低く垂れ、蹄の運びにも乱れが見えはじめている。
それでも家康は手綱を緩めなかった。
峠を下れば道は楽になる――そう己に言い聞かせてきたが、下り坂は下り坂で馬の脚を削る。
さすがの本多忠勝も、たまりかねたように声を上げた。
「殿、これ以上は馬がもちませぬ!」
家康は答えなかった。
ただ、鞭を握る手に力を込めた。
だが次の瞬間、蹄の運びが大きく乱れ、その手は宙で止まった。
「……少しだけ、休ませる」
家康は、苦い声でそう命じた。
「何を焦っておいでか……
謀叛を起こした武田など、恐れるに足りませぬぞ」
「そうじゃ、忠勝……武田など怖くはない。
某が恐ろしいのは、宝殿じゃ……!」
早々に馬からおりた忠勝は、馬上の家康に手を差し伸べる。
「宝殿とは、最後に蒲原に参られた……あの小さき女子のような軍師の事でござるか……」
「……そうよ、忠勝。
正信の小細工など、宝殿にはお見通しじゃ……!
何としても忠次を止めねば、申し開きが立たぬ!」
家康の額の汗は、馬を飛ばしたことによる汗だけでは無かった。
「殿が臆病なのは存じておるが、今はあの小さき女子が怖いのでござるか……
これは愉快でござるな」
忠勝は豪快に笑い転げていた。
それを家康は恨めしそうに見ながら吐き捨てる。
「笑っていられるのも、今の内ぞ。
忠勝は宝殿の恐ろしさが分からぬのだ……」
「いやいや、殿。
考えてみたら、あの小さきものの作戦で凍え死に寸前まで追い込まれたのは、我らの部隊でござったな」
「そうよ!
ここで忠次が義経様の命令なく攻め込んでしまえば――
梓様の父上を謀殺した嫌疑は、このわしに、かかるであろう!」
「まあ、殿、ここで慌てても仕方ありませぬ。
この泡を拭いている馬をご覧くださいませ。
今晩は湯にでもつかりましょうぞ」
そこに早馬が西より到着した。
「太田道灌様、手勢を率いて駿府城に到着。
本隊も続々と駿府に向けて進軍しているとの事」
家康の額から汗が噴き出していた。
さらに伝令が続ける。
「武蔵、駿府、北と南信濃に軍勢が集結するまで、決して軍を動かすな、と。
義経様より厳命をうけておりまする」
家康は明らかに顔を強張らせていたが、伝令には腹の底から息を押し出して返答した。
「ご苦労であった。
わしもすぐに駿府に参ろう。
道灌殿に粗相が無きようお迎えせよ!」
早馬を送り返したところで、家康は馬の足元に、がっくりと腰を落とした。
「……遅かったか……。
我らの生き恥もここまでじゃ……忠勝……」
その家康の様子を見て、忠勝は山が震えるほどの大声を出して、伝令を呼び戻した。
「何か……」
伝令が言い終わる前に、忠勝はその伝令を馬から引きずり落とした。
そして忠勝自らが馬にまたがる。
「……ご心配なく。
忠次は拙者が止めて参りましょう。
殿は馬が休まり次第駿府に」
忠勝はニヤリと笑って家康を見る。
次の瞬間、呆然とする伝令を横目に、馬を走らせた。
気を取り直したように家康は足に力を入れ、立ち上がった。
転がっていた伝令に手を差し伸べ、微笑む。
「あそこに留め置かれた忠勝の馬が休まり次第、乗っていくが良い。
某もすぐに駿府にて、道灌殿にお会いいたす」
伝令は起き上がり、怪訝そうな顔をしながらも忠勝の馬の鞍を確かめに行った。
家康の顔からはすぐに微笑みが消え、西の空をしばらく睨みつけていた。
***
二条城では、義経と梓のもとに、参謀本部の三名、太田牛一、大内義興、源宝が現れた。
「待っておった!」
義経が立ち上がり、歓迎する。
義興が顔を上げ、口火を切った。
「牛一殿より、事情は伺いましたぞ。
東に、西に、ややこしきこととなりましたな」
義興の言葉と裏腹に、顔には笑みが浮かんでいる。
「……この事態、義興殿は何とも思っておらぬ様子じゃな。
何か良き策でもおありか」
訝し気に義経が義興を見返した。
「義経殿。
我らには宝殿がおりますゆえ、何があろうとも慌てる事はございませぬ」
「え、いや、義興様……お話が違いまする……」
いつもながら慌てる宝。
神妙な顔をしていた梓も、宝の姿に思わず微笑んでいる。
義経も愉快そうに宝を見ていた。
しかし、すぐに顔が曇る。
「此度は拙者も、汚名をかぶらねばならぬのか」
沈んだ声で義経は呟くように、義興に言葉を投げた。
「失礼ながら、義経殿……汚名とは」
「これまで兄上は、友軍を守るために戦って参った。
此度は兄上が築いてきた軍団の志を、壊すこととなろう。
わしが鬼となり、汚名を甘んじる覚悟が必要ではないか――
そのように思うておる」
義興の双眸は、義経を捉えたまま動かなかった。
やがて、義興の口がゆっくりと開く。
「……義経殿」
義興の口の端がわずかにあがる。
「これは異なことを耳にしたものでござる。
汚名やら、志やら、鬼の覚悟やら……」
「今、何と申した……!」
義経は自らの覚悟を嘲笑されたかのように、義興を睨みつけた。
それでも義興は顔に薄笑いを浮かべたまま、言葉を続ける。
「いったい義経殿は――
頼朝殿の志を、どのように心得る。
ご自身が鬼として羽ばたくための妨げ。
そのようにお考えか」
義興の言葉に、たまらず義経が立ち上がる。
「義経様……」
梓が心配そうに義経を制止しようとするが、義経の目には入らない。
「義興殿、そなたに何がわかる。
攻めても、攻めずとも、兄上が積み上げたことは台無しとなろう。
拙者はその志を継ぐような器ではない。
兄上は、それを分かっていたのだ……」
義経は、拳を震わせながら義興に近づく。
「兄の志を継げぬ拙者には――
家臣も領民も……友軍も離れてしまうであろう……!」
「志とは……!」
間髪を入れずに、義興は義経に返した。
「……志が大きければ、必ず歪みが出まする。
その歪みを、主ひとりの心で受け止めようとなされば、主が先に折れますぞ」
義興はゆっくりと立ち上がる。
「人は大義に頭を下げ、利に従いまする。
美しき言葉ほど、後ろに算盤を置かねばなりませぬ」
さらに義経に詰め寄る。
しかし、義興の顔は穏やかだった。
「そのために……我らが、おりまする」
急に怒りを収められない義経は、呆然と立ちすくんでいた。
そこに梓が口を開いた。
「義経様……
まずは、お話を伺いましょう……」
そっと義経の手を引いて、もとの座に義経を促した。
梓の手に導かれるがままに、上座にがっくりと腰を落とした義経。
額に手を当てながら、言葉を絞り出した。
「……続けよ……」
義興は、宝に目くばせをする。
一連のやりとりに生きた心地がしなかったのか、宝の眉はハの字に寄っていた。
しかし、義興に促され、正座のまま足を引きずり、身体を義経に向けた。
「僭越ながら、申し上げまする……!」
頭を目いっぱい下げる。
「毛利に、打倒長曾我部の共同作戦の打診を!」
「な、何……?!」
俯いていた義経の目が大きく開いた。
お読みいただきありがとうございました。
とうとう、君主としての器のなさへの恐れを、自らの口にしてしまった義経。
その揺らぎを、義興は痛いほど分かっていました。
分かっていたからこそ――慰めなかったのです。
次回、宝は何を語るのか。
そして家康は、宝の読みが張った網に、自ら飛び込まずに済むのか。
この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。




