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第十六話 心の重石

信長の言葉が、義経の心を捉えて離さない。

進むべき道。律すべき己の心。


恨めしく見上げる月の下、

その傍らに、そっと寄り添う者がいた。

「こちらでしたね……義経様」


満ちはじめた月が、その光を日ごとに強めていた。

静まった京都の街は、その月明かりに朧げに浮かんでいた。

義経はそれを静かに眺めていた。


挿絵(By みてみん)


「……梓か」


「何かお悩みの際には、ここにいらっしゃいますね……

ここからの景色が、お好きでいらっしゃいますか」


そっと寄り添う梓に、義経は苦笑いを浮かべる。


「逆じゃ……

何かある時は、あの月を恨めしく眺めておる」


義経は月に目を向ける。


「わしが嘆こうが、怒ろうが、嘲笑うかのようにどっしりしておる。


それだけではない――


あの月は好きな時に現れ、好きな時に姿を消す。

拙者の願いなど聞き届ける意思など、これっぽっちもない。

腹が立たぬか、梓……」


義経の言葉に、梓も月に目を向けた。


「義経様は、こちらで月に当たり散らしていらっしゃるのですか?」


梓は微笑む。


「でも……私も、今の月は、嫌いでございます……」


梓はそっと義経の腕に手を回した。


挿絵(By みてみん)


「でも……義経様。

あの月も、思い通りにならぬと嘆いておりますよ。


意に反して雲が月を隠し、望みもせぬのに満ち欠けを繰り返しておりまする……」


「ほう……月すらも、世を思い通りにはできぬか。

それは、考えてもみなかった、梓……」


義経は月を見上げた。


「だがーー

月は何があっても、落ちることは無かろう……」


「やはり、月はお嫌いですか……」


「いや……わしの身勝手な嘆きや怒りを一手に引き受けてくれておる。

感謝せねばな」


天守に吹く細やかな風は、初夏の香りをほのかに運んでいた。

梓の髪も、わずかな風に揺れていた。

義経はその髪を手で押さえながら口を開いた。


「梓は、信長が嫌いか」


「あの者は……好きにはなれませぬ……」


間髪入れずに梓が答えた。

冷静な梓も、信長の話となると心が乱れる。

しかし、努めて顔を和らげて義経に続けた。


「確かにあの者は、理にかなった話をいたしまする。

でも……あおります。

義経様を……よからぬ方にお連れしようとされているようで……」


「そうだな……梓の見ている通りじゃな」


義経は寝静まった京の街並みに目線を落とした。


「しかし……あのものは、拙者の心の奥底が良く見えておる。

無礼な物言いではあるが、話すことに合点がいくのじゃ……」


梓は、語る義経の横顔を見ていた。

肩で一息つく。


「義経様……

忠臣の進言とは、元来耳に痛いものでございます。

佞臣とは、君主の耳に心地よき言葉を囁きまする。

……お分かりと存じます」


義経の腕を掴んでいた手に、力がこもった。


「しかし、あの信長という男――

何やら恐ろしき力を感じずにはいられません。

義経様のお心を、どこかにお連れしてしまいそうで……」


義経は、はっとした。

父・勝頼を亡くしたばかりの梓。

悲しみに打ちひしがれているはずが、常に義経を心配している。

その姿が、急に義経の心に映った。


義経は、思わず梓を胸元に引き付けた。


挿絵(By みてみん)


「信長はただ者ではない。

揺れるわしを翻弄することなど、わけもないのであろう……」


梓にまわした腕に力を込めた。


「毛利のことは――義興殿や、宝殿とも話をしよう。

信長の利も、牛一殿の利も、あの二人であれば正しく受け止めるであろう……」


梓は、義経の胸の中で、静かに頷いていた。


***


水桶を抱えた下女たちが井戸と台所を幾度も往復し、下げられた膳椀が板場の端へ次々と積まれていく。


「こちらは御前の膳じゃ、粗末に扱うでない」

「椀は先に水へ。飯粒が乾けば落ちませぬ」


女中たちの声に、小者の足音、薪の爆ぜる音、桶の水が揺れる音が重なった。

朝餉を終えたばかりの二条城の台所は、戦場とは別の熱を帯びている。


挿絵(By みてみん)



その喧騒を背に、城の一間で大田牛一は、大内義興と源宝と向き合っていた。


「義経様とのお話の前に、お二方のお考えを伺っておきたい……」


牛一は声を沈めながら、義興と宝の顔を覗き込んだ。

真っ先に上機嫌に義興が口を開く。


「しかし、信長が真っ先に飛び込んでくるとは、面白いではないか」


挿絵(By みてみん)


牛一の視線が落ちるのを、目にした義興。

言葉を続けた。


「近頃の義経殿は牛一殿に冷たく当たるが、心配はいらぬ」


「……そのような事は気にしておりませぬ。

ただ、義経様が信長様に心酔しないかと……」


俯く牛一の肩を叩きながら、義興は本題を切り出す。


「しかし、信長とは油断のならぬ男ではあるが、間違ってはおらぬ。

少なくとも――

毛利にも長宗我部にも、どちらにも手を出さずに静観するわけにも参らぬ……」


「そこでござるよ……義興殿。

これまで我が軍団は、友軍を守る事を大義と掲げて参った。


惣無事令のためには、皮肉にもその大義をどこかで崩さねばならぬが――

それこそ、崩すための新たな大義名分が必要ではなかろうか……


特に、今は東で火種がくすぶっておりますゆえ……」


牛一は眉間に皺を寄せながらも続ける。


「何よりも……義経様ご自身が頼朝様の“大義“を持て余しておられる。

そこを巧みに煽られるのが、信長様……」


「義経殿は信長の手の上か、はっはっは!」


「笑い事ではございませぬぞ、義興殿……

義経様の心の重石が急に取れ、平家を滅ぼされた時の如くに一気に毛利を攻め滅ぼされては、それこそ我が軍団の屋台骨を自ら崩すこととなりかねませぬ」


配膳の侍女たちが足早に廊下を進む足音が、部屋の中にも響いていた。

義興は自らの顎髭に手を置きながら、牛一を見据えた。


「義経殿には戦に出ていただき存分にお力を発揮していただく。


そのためのお膳立て、大義を整える――

それこそが、我らがなすべきことであろう、牛一殿。


義経殿には血の罪を引き受けていただき、我らはこの城に留まり“人の思惑“という泥をかぶる。

頼朝殿亡きこの軍団の姿とはそのようなものであろう……」


牛一は義興の言葉を受け止め、ため息をつく。


「義興殿の申される通りかも知れませぬな……」


義興はおもむろに、宝に顔を向けた。


「さて……軍師殿。

年寄りのよもやま話の間に、考えがまとまったであろう」


遠い眼差しをしていた宝は、義興の突然の言葉に我に返る。

反射的に、慌てて頭を下げていた。


挿絵(By みてみん)


「よもやま話などと、と、とんでもございませぬ。

お話を伺いながら、思うところがございました!」


義興と牛一は目を合わせ、宝の姿に微笑んだ。


「では、是非お聞かせ頂こうか!」


義興の低くも上機嫌な声が、部屋の中に響いていた。

お読みいただきありがとうございました。


友軍を守る大義と、惣無事令への道。

その狭間で揺れる義経に――

妻の梓が、そして新たな参謀本部が、静かに手を差し伸べます。


一方、家康は。

運命と思惑に翻弄されながら、ただ馬を走らせるのみ。


この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。

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