第十一話 源氏の妻
家康は本多正信に詰め寄る。
だが正信は、淡々と言ってのけた。
「……何のことやら」
問い詰める家康に、正信はついに本心を明かす。
「義経は、信長公と同じ臭いがいたします」
「皆の者、下がれ……」
家康は陣幕の中にゆっくりと顔を出し、歩みを止める。
家臣に顔を向けず、俯いたまま静かに指示を出した。
顔は篝火の影となり、表情は見えないが、家臣達はその背中からただならぬ様子を感じ取る
「……正信……」
顔を上げた家康の眼差しが、闇の中から正信を捉えていた。
家臣達が陣幕から足早に退出する。
正信は前を見据えたまま、家康の言葉を待っている。
家康が正信の前に立つ。
「……正信。
そなたは、これまで某のために、良う力を尽くしてくれた……」
「拙者の如き卑賤のものが、今日まで生きながらえているのは、家康様のお陰。
ご命令とあらば、喜んでこの場で命を断ちましょう」
正信は軽く頭を下げたまま、落ち着き払った声で語る。
「……ならば、正信、説明せよ……」
静寂の中を、篝火が二人の横顔を揺らす。
正信がゆっくりと顔を上げた。
「一体、何のことでございますか」
家康の刺すような眼差しにも、正信の目線は一切揺れない。
「ならば、善光寺に……手のものを忍ばせたはなぜだ……」
「家康様……それは今に始まったことではございませぬ。
それは家康様も良くご存知のはず。
それとも――」
家康を静かに見据えた。
「拙者の忠義をお疑いで」
家康の口の端が少しだけ上がった。
「疑ったことは、無い。
……その忠義、だからこそだ」
家康は、正信にさらに顔を近づける。
「申したであろう……我らが主君は、義経様だ」
「家康様……」
家康の言葉を正信は遮った。
「主君とは――」
正信の目が見開かれた。
「それにふさわしきものが、勤めねばなりませぬ。
奥方に支えられているようでは、いずれ国は乱れまする」
「その君主を支えるものの父を亡き者にするとは――
そなた自らが国を乱そうとしているのか」
声は静かだが、家康の耳は熱を帯びている。
「……何のことやら」
家康は立ち上がる。
拳が震えている。
「この期に及んでとぼけるか……正信!」
正信は家康の足元に目を向けたまま、動かない。
「良いか、正信……
頼朝殿は、義経様に過酷な役割を与えた。
その後の日ノ本を某に託されたのじゃ。
掻き回すのは、止めよ」
「……まさか、家康様……
その口約束を、本気にしておられるわけでは、ございますまいな……」
「何を……」
家康の怒気を受けながらも、正信は立ち上がる。
「頼朝には不思議な魅力があるようでござる。
我が殿すらも術中にかかるとは……」
「そなたは頼朝殿を知らぬ。
頼朝殿の覚悟を耳にすれば、そなたもわかるであろう」
正信の表情が動く。
「会わぬからこそ、目が曇らず、理解できておりまする……!
頼朝の志という危きものは、日ノ本を火だるまにいたしますぞ」
家康は、はじめて言葉に熱を込める正信を見た。
「頼朝の志は、あの義経という武人を早かれ遅かれ壊しますぞ。
日ノ本の半分を支配せよ、同時に武家を守れと。
そして何より――」
正信は家康に詰め寄る。
「義経は、信長公と同じ臭いがいたします」
「何……!」
「また、あのような信長公の下の、屈辱的な日々に戻られますか……家康様……」
家康は言葉を失う。
「今は、頼朝が義経の中に生きております。
そのせいで、義経は、今は身動きが取れませぬ。
しかし、いずれその箍が外れ……
その時には――信長公の様に、いやそれ以上に、苛烈なものとなりましょう」
正信の語気が強まる。
「道は二つに一つ。
義経の箍が外れる前に、頼朝との口約束が生きている間に――早くに領土を広げ、家康様に軍団長の地位を譲る条件を整えるか。
箍が外れて国が乱れる時に備えて、我らが力をつけるか。
いずれの場合も、武田は滅ぼさねばならぬのです」
言い終わり、正信は平伏した。
「お気に召さねば、この場で、この正信を斬り捨てられよ……」
正信の声色は、いつもの抑揚のない声に戻っていた。
家康は怒りに身体を震わせている。
しかし、何に対する怒りか、自らもわからずに肩が大きく上下に動いていた。
家康は震える拳を自ら掴み、呼吸を抑えた。
口から、一つの言葉が出た。
「……悪党め」
家康は正信を見下ろす。
正信は、さらに頭を下げ、地に額をつけた。
「いかようにも……」
家康はゆっくりと自らの床几に戻り、正信に退出を促した。
陣幕の中で一人になった家康は、篝火を見ていた。
突然立ち上がり、手に持っていた扇子を地に叩きつけ、床几を蹴飛ばした。
家康は誰もいない陣幕の中で、呟く。
「半蔵……
急ぎ上野、北信濃、南信濃にも忍びを放ち、武田の動きを探れ。
忠次に至急遠江の軍を、蒲原に布陣させるように伝えよ!」
陣幕の外で、微かな声が伝わり、静寂の中の篝火の音だけが残る。
***
二条城には、東美濃の池田輝政と、武田軍飯田城主・秋山信友が、義経に緊急の謁見を求めていた。
かつて武田軍とともに南信濃で徳川と戦い、今は東美濃を治める池田輝政である。
義経、梓、大田牛一が顔を出した。
秋山信友が、畳に額を押し付けている。
「梓様……申し訳ござらぬ!
死んでお詫び申し上げる!」
梓は、猛将のただならぬ様子に、すぐに胸騒ぎを覚えた。
取り乱す信友に代わり、池田輝政が口を開いた。
「武田領内で謀反!
勝頼様が……」
「義父が如何した……」
義経がたまらず立ち上がる。
「お討死いたしました……!」
輝政の言葉に、梓は片膝を立てるが、次の瞬間意識を失った。
義経は慌てて、梓を抱き抱える。
「姫……!」
梓の姿に、たまらず秋山信友も駆け寄る。
しかし、倒れた梓よりも、その梓を目にして瞬時に義経が正気を失っていた。
怒りの矛先は信友に向く。
「一体、何をしておったのだ!
武田が今日あるのは、我らが力を尽くしたからであろう!
それが……梓の父を討つとは、許せぬ!」
「誠に、申し訳ございませぬ!
慚愧の念に耐えませぬ!
それがしが腹を切ってお詫び申し上げる!」
「そなたが腹を切ったところで、勝頼殿は戻らぬ!」
一段と、信友に怒りの矛先を向ける義経。
そこに池田輝政が必死に割って入る。
「義経様……
お気持ちはわかりますが、どうかお静まりを……
このもの達は……」
「何がわかるというのだ、貴様に……!」
池田輝政の言葉に反応して、義経が声を上げる。
流石に、大田牛一が義経の前に出た。
義経は怒りの眼差しを牛一に向けるが、牛一は気が付かぬふりをした。
「輝政殿……続きを……」
「はっ!
秋山信友様、仁科信盛様、馬場信春様、飯田城から深志城にかけた旧武田の家臣達は、義経様に帰順を申し出ております。
何卒、お認めいただきたく」
しかし、義経は収まらない。
「何もできなかった輩が、庇護を求めるのか……!
えーい、今すぐ出陣する!
拙者自ら、義父の仇を討つ!」
立ち上がった義経の着物が引っ張られた。
梓だった。
朦朧としながらも、義経の着物を強く握り、頭を下げている。
「……梓、すぐに仇を取る。
勝頼殿の弔いじゃ……」
義経の声が柔らかくなる。
しかし、梓は首を何度も横に振り、声を張り上げる。
「義経様……お静まりを……!」
涙を流しながらも、義経を叱りつけるような声だった。
その場の家臣達が息を呑む。
「私は……源氏の棟梁の妻。
源氏の棟梁が、私怨で動くなどあってはならぬこと……」
肩で息をする梓。
声を震わせながらも、必死に息を吸い込む。
「それこそ――父が嘆きまする!」
梓の手から力が抜け、その場に崩れる。
「姫……姫……!」
梓の姿を見て秋山信友が脇差を抜き、自らの腹に突き刺そうとした。
その信友の懐に飛び込み、手を止めたのは、義経であった。
飛び込んだ拍子に、義経の体は信友もろとも倒れ込む。
「……すまぬ、秋山殿……」
義経は信友の脇差を取り上げ、そのまま畳の上に大の字になった。
息を乱しながら、天井に向けて言葉を放つ。
「切腹などしたら……帰順は許さぬぞ」
ゆっくりと起き上がり、脇差を信友の鞘に戻した。
義経は泣き崩れたままの梓の横に戻った。
梓の背中に手を当て、牛一に顔を向ける。
「いかがいたす……」
牛一は着物を正し、あらためて義経に平伏した。
「まずは待機させている美濃の軍勢を、南信濃に進めるのが第一。
第二に、家康様には今のまま川越に駐屯いただきながら、国境に軍を進めていただきましょう。
第三に、上杉にも急ぎ打診を」
「……牛一殿の申す通りに進めよ……」
牛一は義経に頭を下げたのち、信友に向き直る。
「おそれながら……秋山殿……
この後、詳しくお話を伺いたい」
信友は力無く頷く。
「歩けるか……梓……」
梓は力無く頷く。
義経は足元が定まらない梓の肩を支えながら、その場を後にした。
牛一と輝政は、沈痛な面持ちながら、言葉なく、互いに目を合わせていた。
お読みいただきありがとうございました。
必死に守ってきた武田家。
軍団の後継として望みを託した徳川家。
頼朝の死から一年を経て、義経の足元の歪みが、不快な音を立てはじめました。
義経の暴走を抑えたのは、かつて勝頼が娘の梓にかけた言葉でした。
「そなたは、武田の娘である前に、義経殿の伴侶」
継ぐ者にも、それを支える者にも、試練は続きます。
この後の展開も、おつきあいくださいませ。




