私と、先生について。
「お嬢様、終わりました」
「……ありがとうございます」
「お化粧直しを終えたばかりなんです。お嬢様をまた泣かせたら承知しませんからね」
「……はい」
スクールに通い始めてからちょっと忘れていた、若干おどおどした感じの先生が戻っている。
それにちょっとだけ笑ってしまった。
私のメイドはとんでもなく強いらしい元護衛よりも先生よりも立場が上みたいだ。
多分、スクールでしか先生を知らない他の生徒が見たら驚くだろうな。
でも私にとってはこっちの先生の方が馴染みがある。
メイドがそうしたように、私も立ち上がって先生の方を振り向く。控室には化粧台だけでなく、ローテーブルとソファもある。
そちらへ移動して、先生にも座ってもらう。
お茶を用意しますと言ったメイドを引き留めた。
やめてくれ。
場所が悪い。
攻略対象と二人にしないでほしい。
よく考えたらこれでイエローカード3枚目? 4枚目?
先生をヒロインから引き離したのが1枚目、四阿の時間に執着し始めてるのが2枚目……だけど殿下に独占欲っぽいのはまだ出してないからグレーゾーンだとして欲しい、とすると護衛その2を泣き落としで部屋に連れ込んだのが2枚目なら先生と密会もどきで3枚目だ。すでにレッドカード換算されてもおかしくない。
やめろやめろ。
それに先生は乙前とは全く違う服装をしてくれてはいるけど、スクールの敷地内はむり。どうしたって断罪の時を思い出してしまう。
断罪の時だけじゃなくて、いやな思い出がそこかしこに眠ってる。
特に先生は――私は先生の機嫌にだいぶ依存してた。
ヒロインと出会ってしばらく、先生は幸せそうで、私はそれを見て幸せだった。孤立してた時も、私なりに当たり障りなく過ごしていた時も。
でも進級してしばらくすると、先生はあまり幸せそうに見えなくなった。最初はそれが心配だった。何かできることはないかと考えた。それなりにクラスメイトとうまくやっていたと思っていた頃は、みんなにそれとなく話を聞いたりして。
それで、殿下の足止めを。
だけどうまくいかない。ヒロインは殿下に惹かれて、それだけじゃなくて、先生が冷たい目をするようになって、私はそれが怖くて仕方なかった。
大人のご機嫌取りは、日前で染み付いていた。懐いていた先生の不機嫌は一番怖かった。怖くて仕方なくて、
「お嬢様」
聞けなくなって随分長いこと経った懐かしい温かい声のその呼び名。
――違う。
今は、まだ。
人前ではマリー・アン嬢、だけど、第三者のいない場では、今もまだ先生は「お嬢様」と呼んでくれてる。
「悲しませてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、私の方こそ、……ごめんなさい」
「マルクスも言っていたと思いますが、私の怪我のことでしたら、お嬢様は何も悪くありませんよ」
「……でも」
「先ほど確かめていただいた通り、跡も残っていませんから」
先生は傷があったはずの頬を反対の手で軽く撫でた。
「でも、痛かった記憶は、消えないですよね」
先生は瞬きして、それから、ふ、と微笑んだ。
「お嬢様は優しいですね」
前に同じことを言われたけど、あのときと全然違う。すごく優しい。
「もう二度と怪我はしないとお約束します」
「ほんとうに?」
「はい」
この世界の人は約束を守る。大人になればあまり不注意による怪我はしなくなる。だけど、その約束は現実的に無理がある。それが優しい嘘だと言うことを私は知ってる。
だから泣きたくなってしまう。でももう泣くわけにはいかない。頼むから働いてくれ私の涙腺。
「お見苦しいところをすみませんでした」
先ほど泣いてしまったことを謝ると、先生は少しだけ首を傾げた。艶々の長い髪が、サラサラと肩を流れる。
「お嬢様が涙を流されると、私は辛く切ない気持ちになります」
言葉通り辛そうに微笑んでそう言ってから。
「でも、お嬢様は笑顔も泣き顔もどんな時も可愛いです」
……私は多分泣き笑いみたいな顔になったと思うんだけど、先生は優しく目を細めてそう言った。
実のところ私は、可愛げがないと言われ続けて育ったので、その言葉にも弱い。ウィークポイントだらけの人間である。
顔が熱くなって先生の顔を見ていられなくなって下を向く。
ちょうどその時、ドアの向こうから「その辺にしとけよ」と護衛その2の声がした。
時間だろうか。それにしても本当にいつもタイミング良いなありがとう。
「わかっています」
先生はドアの方を向いてそう言った。
「お嬢様も、お願いです」
私に向き直った先生がそう言う。何を?
「どうか、ご自身を傷つけるようなことはしないでください」
「……先生も」
「はい。お嬢様を傷つけてしまうとわかりましたから。もう二度としません」
本当に言ったんだな、護衛その2。
でも、こう言ってくれる人が、殺してくるんだから、人生はわからないものだ。
「お嬢様は、泣くのを我慢しないでくださいね」
――昔は我慢できたのに。
周りにいたのが私を嫌いな人間ばかりだったから。
泣いてもうるさいと言われない環境だと私は理解したんだろう。
だからああやって馬鹿みたいに泣き喚いた。
泣いている時に優しい言葉をかけられると余計泣けてしまう。それは、優しい人の前だと簡単に泣くってことでもあったんだ。
殿下もお父様もお母様も誰も私を傷つけようとはしてないってことを、いまだに理解してくれないくせに。
優しい人たちを傷つけておいて、泣き喚いて困らせる。そんな自分が本当に――大嫌いだ。
「人は涙を流すことで、心の澱を少しだけ外に出すことができるんです」
慈愛の籠った微笑み。耐えられなくてまた下を向いた。
きっと日前の私が、いや、ちょっと前の、私が聞いたら多分、言い訳を貰えたことで嬉しくて今頃号泣してる。でもあんなに泣き喚いた後に言われたら、余計罪悪感が強くなった。
「淑女は感情をあまり表に出してはならないと言われますが、それは社交の場で、大切なものを守るためです。お一人の時や、信頼できる限られた人の前でまで、無理をして律する必要はないんです」
でも、裏表のある人は嫌われるじゃないか。内弁慶とか、それを悪く言う言葉はたくさんある。誰にでも平等で優しい人が好かれるんじゃないの?
「……もう、周りの人を困らせたくないんです」
「困る、とは少し違いますね」
「え?」
「できれば笑顔でいてほしいです。でもそれは、無理をしてでもと言うわけではなくて。……世界がお嬢様にとって優しくあってほしいという願いです。それが叶わなければ、私の手で何とかしたいと思います。それすら望めない時は、我慢せずに――語弊がある言い方だと思いますが、……無理せずに、泣いてほしいと思います。泣いてもらえるくらいに、信頼していただけたら、嬉しいと、そう、思います」
自身の胸に手を当てて、きっと頭がいいから、私にも理解できるように、たくさんの言葉の中から、伝わりやすい言葉を選んで、だからこそ若干自信なさげな声音で、伏し目がちに。
――あぁ、そっか。
中学の頃好きになったラノベで、親友に対して「泣いて良い」と言うキャラクターがいた。泣いちゃダメと言う風潮の中で育ってきた私はそれにひどく驚いた。
特に母に汚い女みたいに泣き喚くなとよく言われていた私は、男の人は尚更泣いてはいけないと思っていた。
主人公は男性で、その親友である件のキャラクターも男性だったから、こういう時は泣いて良いんだ、と言うセリフに、私はとても驚いて、その言葉をうまく飲み込めなかった。
泣いて良い時など、あるのだろうか、と思った。
その場は、とても切羽詰まっていた。私の好きなラノベなので、危機といえばそれは人間関係的なものというよりかは世界の安寧とか人類の存亡とかがかかっている。
その、切羽詰まった状況で、泣いて良い、という言葉が。
いつも泣いてる暇なんかないでしょ、というような言葉と共に生きてきた私にとって、棘のように刺さっていつまでも抜けなかった。
主人公は泣かなかった。そんな場合じゃないと、私の考えと同じセリフで。
泣いたのは、親友を取り戻せないと分かった時。
初めて泣いた親友を見たそのキャラクターは、「泣いてくれてありがとう」と言った。
ずっとそれがよくわからなかった。
私が、誰かに泣かれるのが苦手なのは、私にどうしようもできないことが多くて、それが嫌だったから。
感情をぶつけられると、それを要求だと思っていた。
私の周りは弟を始めとしてよく泣いた。誰それに何をされたとか、こんなに辛いことがあったとか言っては、私の前でよく泣いた。
私は困った。何とかできる範囲では動いたのだけど、何にもできないことが多くて。
どうにもできない自分が歯痒くて困り果てていて。
どうして私の周りの人はよく泣く人が多いんだろうと困惑してもいた。
人は必ずしも何かの要求があって泣いているわけではないのに。
日前の家族が私に感情をぶつける時は、自分の機嫌を直せということだったから、そこがわからなかったのだ。
先生や、あの主人公の親友みたいに、その悲しみをただ受け入れるという考えはなかった。
だけど多分、先生が言ったことは、今私の周りにいてくれる優しい人たちに対して、私が思っていることと同じ。
泣いてほしいとまでは、まだ思えない。そこまでの度量がどうしても持てる気がしない。自分のことで手一杯。
それでも、無理してほしいとは思ってない。我慢もしてほしくなくて、それがうまく言語化できずに、日前でもほとんど幼児のころにしかしたことのなかった取り乱し方をして、護衛その2には申し訳ないことをした。
「……ありがとうございます」
返すべき言葉に迷った末に出たのは、やっぱりそれだった。
思い返してみても、私には親友と呼べる間柄の人はいなかった。
だから、フィクションの登場人物が与えられるようなしあわせを、私がもらえるとはまるで思っていなかった。
勿論先生は私の親友ではないし、いずれ蛇蝎のごとく嫌われるのだけど。
先生は何度も私を救ってくれる。
どうにもできないが故の悲しみを、傍で受け止めてくれる、というのは、とても――
「――ぁ」
先生の小さい声に目を瞬く。
多分、今頬を滑り落ちたのは涙だったと思う。
……一昨日から全く仕事してくれないんだけど、私の涙腺はなんなの。
一応、一粒で止まりはしたけども。
確かに断罪まであと一年もないとは思うけど、義弟の入学式まではなんとか持ってほしい。
そうしたら、スクールは辞めて、お父様とお母様が最初に考えてくれたプランで行こう。
一応義弟の本心だけは聞く必要があるけど。
この精神状態だと、断罪の日まで持たない気がする。
……殿下が、早くヒロインに恋してくれれば、殿下をきっと傷つけなくて済む。
いつからだろうか。
やっぱり舞台が開幕するのは、きっと攻略対象が揃ってからだろう。
となると、義弟が入学すれば?
ヒロインが誰を選ぶのかわからないのがちょっと不安要素ではあるのだけど、恋は盲目というから、相手の思いがどこにあれ、恋している間は多少他で嫌なことがあってもそんなダメージないんじゃないかな。
私もちょっと前まで、恋ではないけど、あの四阿での時間を楽しみにしてる間は、いつもの嫌なこと無限ループ思考に陥ることもなかったわけで。
「すみません」
何故か先生が謝るので、私はこれは違う、と言おうとして口を開いた。
立ち上がった先生が、回り込んでこちらに来る。
膝をついて、座ったままだった私の手を包む。
それから、耳元に顔を寄せる。
「消毒がまだでした」
そう言って、耳元から正面に。
私はそれに、お披露目の日と同じで笑えてしまった。
先生も笑った。
あの日みたいに、ちょっとだけ強く、でも不思議と優しく感じられる強さで手を握って。
「本当に、よく、頑張りましたね」
うん、我ながら、頑張ったと思う。護衛その2にあんな……まぁ一種のあれは甘え、だったよね……真似しちゃうくらいには、頑張った。
本当は子供達の前で歌うのも怖かった。なんでか私は昔から、年下には舐められるし、小さな子供には纏わり付かれる。人数が多いから怖かった。
「もう大丈夫です」
先生の言葉は魔法みたいに安心をくれる。
先生は片手で私の両手を持ち直すと、一番嫌だった、唇で触れられそうになった手の甲を、祓うような仕草でそっと撫でる。
自分で浴槽に沈みながら何度擦ってもどうしても消えなかった嫌な感触。手袋越しでも感じた嫌な温度。
それが嘘みたいに消えていった。
きっと多分、護衛その2は、先生に一昨日のことを全部伝えてくれたんだ。やっぱり謝るよりもお礼を言うべきだろうか。
また小声で。
「消毒しましたよ。ね?」
右手と左手で上下から包まれた両手。ちょっとだけ力を入れて、でも優しく、先生はあの日みたいにそう言った。
冷えていた手は指先まで、先生の温かさをもらったみたいにポカポカになっていた。
熱平衡ってあったな、と言うのと、先生の手って大きいな、と言うのが頭の片隅に同時に浮かぶ。いや、私の手が小さいのか、でもやっぱり温かい。
あぁ、息がしやすくなった。気休めみたいな物だったはずが、本当に効き目がすごい。プラシーボ効果万歳。
「はい。……ありがとうございました」
「ごめんなさい」
「申し訳ありません」
私と先生の、メイドに対する謝罪が被った。
メイドは珍しく苦笑して、それから。
「お嬢様にお化粧するのは私の特権ですから。お化粧直しは楽しいから良いんです」
そう言われて驚いた。
「……悲しませたら承知しない、という意味だったんですね」
苦笑しながらの先生のその言葉で、なるほど、と思った。
「この程度ならお化粧直しも要りませんし」
てっきり仕事を増やすなという意味に受け取っていたんだけど、違ったらしい。
先生は私の頭の中も丸わかりだったようで、良かったですね、と言わんばかりの笑顔を向けられた。
私もほっとして笑った。
「……先生」
「はい」
「私、……義弟の入学式を終えたら、多分いっぱい泣きます」
「……それは」
ちょっと待ってみても、先生は続きを言わなかった。
「その時まだ、先生が同じ気持ちでいてくれたら、……少しだけ私に時間をもらえると嬉しいです」
すぐに返事はなかった。
良いんだ。知ってる。その時先生はきっともうヒロインが好きで、私を嫌いになってるころだ。
社交辞令を間に受けて恥ずかしいという思いもある。
でも確かに嬉しかったし、信頼はもうとっくにしてるという意思表示のつもりだった。
だから、先生が、とても嬉しそうに微笑んだのにひどく驚いた。
「ええ」
それは相槌なのか承諾なのだろうか、と驚きながら首を傾げてしまって、涙が伝った跡をコットンで軽く抑えていたメイドの手が止まる。
私は小声でメイドに向かって謝った。メイドは微笑んで首を横に降った。
「はい。――必ず」
大きく頷いて、そう先生が言う。
必ず。
随分強い言葉に私は少し笑ってしまった。
「申し訳ないのですが、少し化粧道具を貸していただけますか」
先生の申し出に、私とメイドが顔を見合わせる。
用途はわからないが、とりあえず頷く。
先生には頼み事ばかりしているから、されたら断れない。
メイドが一式先生に手渡す。
先生は中から化粧用の筆と、……ええと、何だっけ。コンシーラーかな、をいくつか取り出して色を見ている。
「お嬢様、お手を」
手?
何だろう、と思いつつ手を出すと、先生は絵の具のパレットみたいなのの上で混ぜ合わせたコンシーラーを、私の手の甲に塗り始めた。
……おお。
塗られた部分の、色味が肌の他の部分と同化していく。
掻きこわさないように気をつけてはいたけど、改めて注視すれば、赤くなったり白くなったりしていた。
そっか、万一殿下に見られたら、殿下だって傷つくよね。日前でバイキン扱いされてた私はその気持ちよくわかる。
「……上手ですね」
感心したようにメイドが言う。
「知識の応用です。お嬢様の傷を癒す魔法は使えませんが」
先生って本当に何でもできるんだな。
でも何だか、先生は困ったような顔をしている。
「私が付いていれば……こんな」
これは、あれか。先生は自責の念に駆られてる?
いやでも殿下って先生がいると余計ピリピリしない?
それに殿下がいただけであんなに注目されたのに、そこに先生まで加わったら注目されるのが苦手な私には針の筵アイアン・メイデン状態になるのでは?
それに私がヒロインと課外学習で、みたいなこと言った時に、護衛その2に怖いこと言われたよね?
貴族女性の嫉妬という名のブリザード、絶対に喰らいたくない。
殿下の横にいても喰らうかもしれないけど、それは婚約者という立場上仕方ない。我慢する。でも冤罪で喰らうのは御免被る。私は波風立てずに生きていきたいのだ。
「……あの、これは、」
乙前の記憶とごっちゃになるのはよくあるんだけど、日前の記憶までごっちゃになったのは初めてで、それで記憶の濁流に溺れて殿下を藁代わりにしたせい。
その私の手を離させ、なおかつ私の今の家族の機嫌を治すという離れ業を殿下は一気にやってくれた。
流石は攻略対象。王子様。婚約者に振り払われるとか、良い気はしないだろうに、それでも波風立てないために泥を被ってくれた。殿下はきっと良い旦那さんになる。
「殿下は、……私のために」
先生は硬い顔で頷いた。
ええと、これじゃダメか。多分経緯は護衛その2から聞いてるよね。
なんて言えば。
先生は多分、自傷行為、か、それに類する行為を、したことがあるんだと思う。護衛その2ははっきりとは言わなかったけど、それを窺わせる口振りだった。
だとしたら、自責感情は消しておかないとやばい。
私も相当おかしくなってた時、自分の腕に噛みついて怒りをやり過ごしてたことがある。今はちょっと距離を置いて振り返れるようになってるけど、あの頃はそれが自傷だとも思ってなかった。あの頃の私にとって自傷に当たるのは、ニュース記事で読んだリストカットだけ。
だから多分、護衛その2が怒っても、大袈裟なと思われるのがオチだ。原因となる感情そのものを取り除いた方が良い。
「……私、が、その。練習、してなかったので」
先生の表情がふっと解ける。
あ、よかった。正解?
「ダンス、みたいに、練習してたら」
きっと平気だった。おまじないかけてもらったあとは大抵いつも平気だったのに、多分自覚できてない時にも引っ掻いてたのは、色々覚悟が足りなかったせいだ。
「お嬢様っ」
メイドの制止するような呼び声にびっくりする。
しまった。これじゃ先生を責めてるみたいになってる? エスコートに含めとけよ、みたいなカリキュラムに物申したかったわけじゃないのに!?
「あ、間違、すみま」
「そうですね」
先生は私の言葉を遮るように言い、嬉しそうに微笑んだ。嬉しそう? あと先生、基本的に私のとっ散らかった話の最中も黙って最後まで聞いてくれるのに、今遮られた?
「赤みが引いたら」
先生は筆を置きながらそう言った。
見れば、もうどこが赤くなっていたかわからない。多分完成?
お礼を言おうとしたけど、まだ先生の話終わってないな、多分センテンスの途中?
と思って手から先生の顔に視点を戻す。
終わったのなら離されるだろうと思った手を、先生は何故か少しだけ、先生の方へ引き寄せた。
「練習しましょう」
一昨日の殿下よりも離れているけど、多分騎士の誓いみたいなアレの練習だと一目でわかる素振り。
見た目は全然騎士っぽくない先生なのに、妙に様になってる。
見惚れるほど優雅な仕草は、恐ろしく絵になる。
「ね?」
顔を上げた先生は微笑む。
——うん、あれだ。男というだけでときめきの対象外になる私は感心するだけで済むけど、これは老若男女問わず恋に落ちるのでは。
護衛その2は私が涙の出し入れ自由だったら傾国なんて大袈裟なこと言ってたけど、先生がもし女性だったら間違いなく傾国の美女だな……。
かぐや姫みたいに、本人に非はなくとも周りが勝手に熱を上げるタイプの。歓心を得ようとして、国の金とか際限なく使い込みそう。
……っていうか、私この顔に間近で覗き込まれて怖さしか感じなかった辺り、やっぱりかなりアレな精神状態になってたんだ……。
半ば無意識に頷きながら、消毒(?)はなるべく日を跨がずにしてもらおう、と思った。
殿下に顔覗き込まれても有難迷惑、と感じられる程度の余裕はあったのに。あの乙女の憧れ的誓いのポーズは私にとっては日前の地獄みたいな記憶の呼び水にしかならないらしい。
ここはプラシーボ効果に頼るに限る。
そういえば、メイドがすぐそばにいたはず。
……結婚しないって言ってくれてたけど、これを見ちゃったら……でも先生はちょっと無理だと思うからできれば恋に落ちないでいただけるとありがたい。先生はほら、ヒロインに恋しちゃうから……。
あとごめん、メイドにまで裏切られたら私多分その時点でもう心が折れる。それはもう綺麗にぽっきりと。多分日前の精神状態一番やばかった時に戻る。化粧はもちろん、着替えも風呂も歯磨きも覚束なくなる。だからどうか神様お願い。
そう思ってチラッとメイドの様子を伺うと、親の仇でも見るような顔で先生を睨んでいた。
何故。
意味がわからなすぎて思わず二度見してしまった。最初はチラッとだったけど、2回目は結構ガッツリ動いて見てしまったせいか、先生が手を離してくれた。
お礼を言おうと思って先生の方を見ると、ちょっと血の気の引いた顔になっていた。
……うん、怖いよね。私も怖い。
先生にぽーっと見惚れられてたらどうしようと思いはしたけど、安心とかどっか行った。ひたすら怖い。
「ええと、その、今日は……あまり、触れないようにしてくださいね」
先生が私の手の甲を示す。やっぱりメイドが怖いんだと思う。めっちゃおどおどしてる。
ああ、ヨレるっていうんだっけ。お化粧崩れね。これも化粧の一種には違いないのだろうし。クマ隠しみたいなもんだよね。
大丈夫。もう嫌な感覚全然ないから。ありがとう先生。
私はそれに頷きながらお礼を言って、もう一度メイドを見る。まだ怖い顔してる。
「あ、あの、怒って、ます?」
泣いてもないのに吃りながらそう問えば、メイドは「お嬢様には怒ってません」と護衛その2みたいなこと言い出した。
「で、でも……」
「目障りな虫が調子に乗っていたので、燃やしたいなと思っていただけです」
先生の後ろに虫がいたってこと?




