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私の謝罪とその中断について。

 貴族ならではと言うべきか、スクールではヒロインを除けば全員が馬車通学。馬車から降りるのは車の比じゃないくらい時間がかかる。まぁ平民みたいに飛び降りればむしろ車より速いかもしれないけども、貴族はほら、何事も優雅にいかなきゃいけないので。

 私はまだ経験していないが、舞踏会となると階級ごとに入場時間が決まっている。その予行演習も兼ねて、馬車停の混み合い解消のために、スクールの登校時間もそれに倣う。

 つまり、王族を除けば一番上の私は登校時間が遅めに設定されている——のだが。

 それは殿下と登校時間が被るってことでもある。

 思い出していただきたい。私は何回もこのスクールの敷地内で死んでいる。それも殿下が原因で。

 最近の殿下は私にとってはもう友人的位置付けにいるのだが、入学して早数ヶ月。慣れ親しんだ行動は変え難かった。


 入学間もない私の頭の中は、身も蓋もなく簡潔に言うならば。

 朝っぱらから自分の仇の顔を見たくない。

 そして殿下は律儀な人なので、エスコートせずとも向かう先が同じであれば、連れ立って教室へ向かう羽目になる。だけどごめん、私にその勇気はない。

 殿下は見た目も中身も身分も一級品なので、めちゃくちゃ人目を引く。その横にいたら私も目に入る。そして私は注目を浴びたいという欲を一欠片も持ち合わせていない、残念な人間である。

 なので当然のように登校時間を早めにずらしていた。時間差登校は、この時間までに来い、と言う意味であって、それより前に来るなと言う意味ではない。

 屁理屈に思えるけど泣きついた私に先生が教えてくれた抜け道である。


 朝起きるのが苦手な私にとっては苦渋の選択とも言えるが、元々王宮勤めのお父様の朝は早く、それに合わせて朝食の時間も早めに設定されていたので、そもそも起床時刻自体が前倒しになるわけではなく。

 家でする自習を登校後に図書館ですれば済む話である。それから放課後に義弟とのお茶を義務付けられてしまったため、朝は早めに義弟から解放されたかったという本音もある。良い子だというのは流石にもうわかっているのだが、如何せん入学間もない頃の私の濡れた紙よりも軟弱なメンタルに長時間の対面は酷だった。

 以前、そろそろ教室へ戻ろうと、本来の登校時刻付近にたまたま(方向音痴故に)馬車停前を見かければ、殿下を遠巻きに見ているご令嬢の多さに唖然とした。

 ——アイドルの出待ち(?)ってこんな感じかな……

 場違いな感想が浮かんだ。


 というわけで、私の登校時間は貴族のボリュームゾーンの前にしてある。馬車停ですら上位・下位と別れているので、そうすればほぼ誰とも顔を合わせず図書館まで行けるというありがたい仕様。 


 だから馬車を降りようとしたら先生がいたことに驚いた。

 ――私、またクラス替え? またペナルティ? 先生の顔に傷――え?

 馬車のタラップに立ったままという不安定な姿勢で見た先生の頬には、絆創膏もなければ、傷跡もなかった。

 いつも通りの真っ新な白皙の肌。

「おはようございます」

 私にとっては聞き慣れた、温かくて優しい声。

 私は疑問と安心とがないまぜになってしばらく返事ができず、慌てたせいで若干声がひっくり返った。

 それに微笑んで、手が差し出される。

 一昨日殿下に手を差し出されてまごついてしまったばかりだ。


 ——そう、思い出した途端、何故か先生の手に触れるのに躊躇した。

 したけど、先生が優しい笑顔のまま頷いたので、どうぞ、と促されているように感じて、手を動かした。

 妙に強張っていた私の手は、関節を伸ばすのに、ぐぐぐ、と妙な抵抗があった。

 触れかけた時、また何故か汚してしまう、と思った。引っ込めそうになった手を、先生が軽く握って留めてくれた。

 ——なんだろう、さっきから。

 

 お礼を言って、手を借りて馬車を降りる。

 少し懐かしかった。先生にはエスコートをされる練習に付き合ってもらっていたから、公爵邸の馬車を使っての練習もした。

 普通は、ちょっと目線が近くなったとか思うものなんだろうけど、私は今世でもやっぱり背が低いまま。かなり小さいうちに成長が止まってしまったせいで、そこの差はよくわからなかった。

 スクールでの先生はちょっと冷たい感じがするけど、今の笑顔はちゃんと温度がある。

 だから尚更疑わしい。夢でも見てるのだろうか。


 さて困った。私の夢には痛覚がある。引き裂かれれば絶叫するほど痛いし、叫びながら目覚めた日もある。日前の話だけど。多分この世界で私が夜中に絶叫なんかしたら使用人に多分お父様とお母様が飛び込んでくる。

 脱線したけど、だから定番の頬をつねるをやっても意味がない。

 なんてことを考えていたら、先生が私の前に立った。こうやって正面から見上げてみても、やっぱり傷跡はなかった。

 先生のもう片方の手が気遣わしげに私の頬に触れる。

 ——え。

 先生の手は綺麗だけど大きい。耳を掠められて反射で首が竦む。

 ——これが夢なら、逃げないと、殺される。

 夢の中でも現実でもいずれ殺されるのは変わらない。けれど夢の中はもっと醜悪だ。日前の地獄みたいな経験が混じり合う。やはり反射でぎゅっと閉じた目を開けてしまえば、きっとそこに先生の跡形も無い。指の関節どころか全身が強張る。

 目を閉じたまま逃げるべきだ。きっと開けたらそこにあるのは黒い靄のような得体の知れない何か。

 足を後ろへ引けば良い。後は——

 逃げるための準備。急な動きに深呼吸は必要ない。逃げるために必要なのは、相手に気取られないこと。

 細く短く吸えば十分。

 息を吸う。後ろ足に重心を。


 ——あ。

 

 そこで、気づいた。

 私の夢には嗅覚がなかった。痛覚も触覚もあるが、嗅覚だけはなかったのだと今知った。

 多分通算でもう百年以上生きてると思うけど、今更自分の生態(?)で気づくことがあるとは。


 私はバニラの匂いが好きだった。多分、古書がバニラに似た香気を持つからだろう。祖父が持っていた古い本は、送り仮名がカタカナだったりしてそれが面白くて子供の頃によく見ていた。

 日前に住んでいた町で私の唯一の逃げ場だった町の図書館。閉架書庫の出入りを私は許されていた。経年劣化した本だらけの、あの空間は私の救いだった。


 頬に触れられるくらい近づけば感じて当然だ。と言うことは、また無意識に呼吸が浅くなってたのか。

 私にとっては安心できる、バニラに似た香り。

 私は香水を使ったことがないから小説で得た知識しかないし、これが香水なのかどうなのかもわからないけど、会った時から変わらない。

 先生の匂いだ。

 

 と言うことは、これは夢じゃなくて多分現実、のはず。

 多分ここまで数秒くらいしかかからず一気に考えて結論付ける。

 若干残る恐怖心に目を開けるべきか迷っていると、それほど力を入れられた気はしないのに、顔を少し上げられた。

 驚きで目を開けると、顔を覗き込まれていた。

「やはり少し目が赤いですね」

 心配そうに眉が寄る。

 温かい掌。

 手を繋いだことはある。今も片手はまだ緩く繋がったままだけど、手と顔だと感覚が違う。

 ――嫌悪感は、ないけれど、でも、怖い。

 悪夢か現実か迷ったからだろうか。先生だとわかったのに、怖いと感じたのがショックだった。

 声が、音として耳に入ってるはずなのに、声として拾えない。耳に入った音を、言葉として脳がうまく処理できない。

 先生の声なのに?

 一番聞き取りやすかったのに。

 先生は頬から手を離すと、その場に膝をついた。

 え。

 一昨日の殿下が被る。

 待って、まず――

「っ」

 無理やり押さえつけていた嫌悪感が沸き上がる。ひくりと喉が鳴った。あれだけ私に合わせてくれる優しい殿下に対して、そう感じてしまう自分が心底嫌になる。

 ちっとも成長してないじゃないか。今更震え出した指先が腹立たしかった。

 一昨日触れられた部分を意味もなく掻き毟りたくなる。これ以上は掻き壊してしまうからやめろ。また心配させるのか。


 さっき離れた先生の手が私の手に重なる。咄嗟に振り払いたくなってしまう自分をなんとか宥める。

 ちゃんと見るんだ。今ここにいるのは先生。ここは日本じゃない。だから大丈夫。

 先生が私の震えを抑えるように、優しく手を握る。

「ご心配をおかけしてすみませんでした」

 手が暖かくて、自分の手がすっかり冷え切っていることに気づいた。

 それで、無意識に息をちょっと吸って、吐いた、というか吐けた。

 多分また息を止めてたんだ。

 

「……傷」

「ええ、この通り、もう治りました」

 先生が私の手をそっと持ち上げる。大きなガーゼが当てられていたはずの頬へ導かれる。

 汚い私が触ったら汚してしまう、と思って、制動がかかる。

 でも先生の手の中であんまり意味がなかった。

 ほとんど力を入れられてる感じはしないのに、あれかな、先生が人体の仕組みとかに詳しいからなのか。

「大丈夫ですよ」

 先生は昔、私に、冗談みたいに、「服を掴んでも、手を繋ぐのも、抱きついてくださっても良いんですよ」と言ってくれたことがあった。それを思い出す。

 あれは最初冗談だと思って、その後ダンスの練習相手になるからだったのかと納得したけど、この分だと本当に、先生は私に抱きつかれても平気っぽいな、となんとなく思った。

 そういえば膝に抱き上げられたこともあったから平気なんだろうな、実際。

 その時も思ったけど、親の顔すら触ったことのなかった私には完全にキャパオーバーである。

「ね?」

 優しい笑顔の先生に力が抜けた。

 この世界の私の体は背も低いから手も小さい。いくら先生がモデルのような小顔であっても、先生の手と違って頬を包むことはできないけど、温かい肌は滑らかで確かに傷はなかった。

 それにちょっとだけ罪悪感が軽くなる。

 軽くなりすぎて、涙腺も一緒に力が抜けたのか。涙がまたほろほろ落ちた。

「……ごめんなさい」

 一番謝らなきゃならない相手の先生に、ようやく謝れた。

 先生が小さく苦笑するような吐息が聞こえた。添えられたままの手のせいもあって、勝手に許されたような気になってしまう。

 先生って本当に温かいな。

 たくさん寝たはずなのだが、キャパオーバー過ぎてなんだか眠くなってきた。

「朝っぱらから噂で済まなくなるだろ場所考えろこのバカ!」

 ……先生をバカ呼ばわりできる元護衛って凄いな。いや私か? 私を怒ってる?

 どこかから猛ダッシュしてきたと思しき元護衛に、眠気も吹き飛ぶ私。

「それからお前は良い加減紳士的な振る舞いってやつを覚えろ! 女の子が泣いてたらハンカチくらい出せ!」

 口調も荒い元護衛が、穏やかな感じの先生に向かって紳士のなんたるかを説教してるのはなんというかものすごい違和感があるけど言ってることは間違ってないと言うか、でも先生ちゃんとハンカチ出してくれたよ? 元護衛と先生が並んだところ初めて見てパニック起こして泣いちゃった日も、殿下にDV疑惑かけられて私が告げ口したと思われると思って怖くて泣い日も。今は泣き出した直後だから。

 先生は手を離して立ち上がると、ハンカチ、ではなく、指で――いやちょっと待ってそれ私普通に怖い無理助けて――

 ゴン、とかドン、みたいな音がして、手が止まった。

「失礼しました」

 護衛その1の言葉に、そういえばまだ馬車帰ってなかったと思い出した。

 元護衛が護衛その1を見て大きく頷く。

 なんの意思疎通?

「お嬢様、どうぞ」

 メイドがハンカチを渡してくれた。

 私の涙腺はおとといからどうなってんだ一体。眠気は吹き飛んだけど涙はまだ止まってなかった。

 私がハンカチを受け取ると、メイドは先生を睨みつけた。

 見てなかったから気づかなかったけどちょっと不機嫌?

 違う、この涙は全く全然これっぽちも先生に非はないし、害そうとされたどころか救われたせい。

「生徒たちが登校する前に、マリー様は念の為化粧直しを。例外としてお前を同席させてやるから話はそこでつけろ。良いか、絶対にマリー様を遅刻させるなよ。今立ってる噂をこれ以上デカくするような真似は頼むからやめてくれ」

「わかっています」

 ……今立ってる噂?

 私は孤立してるから噂には疎い。

 たまに立ち聞きしてしまうくらいで。でも今、私の耳に入る噂はほとんどない。

 聞きたいんだけど結構怒ってる気がして怖い。その前に謝りたいんだけどなんかもうおとといみたいな優しさを感じられない。



 

 入学式の開会前に使った控室に案内される。

 じっと鏡の中を見つめても、化粧直しが必要かどうかわからなかった。

 なんか化粧——ええと、メイク用品? とかを開発しまくる悪役令嬢の話とか読んだことあるけど、ベースメークで精一杯だった私にはそんな知識もない。

 ウォータープルーフ? とかなんじゃないかな、この化粧品。既に。マスカラは要りませんねって言われたからつけてなくて、涙で落ちるのって他なんなの? 白粉? だめだ、やっぱり人の顔ってよくわからない。


 ちなみに先生も私の背後の壁際にいる。元護衛と二人でなんかやりとりしてるけど、流石に聞こえない。小声なのか、もしかしたら読唇術でやり取りしてるのかも。

 元護衛が右手? 鏡で反転してるからもしかしたら逆かも——の手の甲を逆手で指差しながらなんか言ってるっぽい。偶然、私がさっき掻きむしりそうになって我慢したところと同じ。


 メイドに促されて目を閉じる。断りを入れられて、目の下に化粧用の筆が這う。これもやっぱり苦手だった。化粧の仕方を教わって、自分でしていたのだけど、多分、私が……食事を、抜き始めた頃から、メイドがするようになった。

 多分、私の化粧が未熟で色々カバーできてないんだろう。今もそうだけど、私は顔の見分けがあまりつかないせいか、微妙な違いがわからないので。

 


「マリー様、俺は一旦外に出ます。そろそろ騒がしくなる時間帯ですし、まぁここはほとんど式典でもなきゃ使う人間はいないので大丈夫だと思いますが、念のため」

 申し訳ないが目を閉じたまま、振り向きもせず声だけで返事をする。

 目の下に化粧してる時に動いたら危ない。

 だけど、元護衛にはいつ謝ろうか。出会い頭を逃すとタイミング難しい。

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