第二章 目覚めたその場所は
「兄者。今しがた異世界の者らが境界を越えたぞ」
「ほう。もうそんな時期か。百年という時も、あっという間だな」
兄者と呼ばれた蒼海の髪と瞳を持つ男は、微笑を口に湛えながら目の前の駒を動かした。動かす駒の先に待つ、燃えるような紅蓮の髪と瞳を持つ男はううむ、と腕を組む。
「兄者、一生の頼みがあるのだが」
「待った、は聞かぬよ。一生の頼みとやらをすでに五万六千七十二回も聞き届けているからね」
「我らの一生は無限にあるのだ。頼みとて、無限にあってもおかしくはあるまい」
したり顔で頷く紅の男に、蒼の男は肩をすくめる。
「なるほど。一生の頼み、とは、確かに一回限りとは言ってはいないな。よろしい。可笑しな言葉遊びに免じて今回限りは聞き遂げてあげよう」
一駒動きを戻して別の駒を動かすと、しばらく悩んでから紅の男は左翼の駒を斜めに動かす。それに一呼吸も置かず、蒼の男は真正面の駒を正面に動かした。また腕を組む紅の男。
「今回は、果たしてどのような結末となるのやら」
「それはこの盤上のことか、兄者。それとも、異世界の者のことか」
「どちらも、だがね。ふむ。まあ、どちらも余興に過ぎない」
「今回は我の力の大半を与えてみたのだ。つまらぬ結果にはなるまいよ。どれ、兄者の先読みで結末を教えてはくれまいか」
「それは叶わぬことだ。今回は、私も力のほとんどを注ぎ込んでしまってね」
「………先読みの力まで、与えたのか」
呆れた紅の男の声に、ふふ、と蒼の男は口元に優しげな笑みを浮かべる。
「百年に一度のお祭りさ。少しばかり派手になっても構わぬだろう?」
目が覚める。ぱちりと開いたその眼に映ったのは、どこまでも青い空と風に吹かれる白い雲だった。
雲に隠れた太陽は目を焼くこともなく。ああ空を見たのはいつぶりだろうと感慨深く思っていた礼二は、ふと今の状況を思い返す。
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………………………。
………あれ?
自分の立ち位置不明の現状ゆえに停止した体と頭。それを何とか起動させ、礼二は、がばっ、と上半身を起き上がらせた。靄のかかった頭をしきりに振る。
何でいきなり青空が広がっているんだ? ていうか、何で僕は仰向けで寝ているの? え? 僕、さっきまで何していたっけ?
前後不覚の状態のまま、礼二は視線を落とす。その右手を着いた場所。地面だ。コンクリートじゃないのって、久しぶりに見た気がするな。窓ガラス越しの北海道の情景を思い浮かべながら、手の平に食い込む小石を払った。
座り込んだままその周囲を伺うと……………どこ?
そこには、ビルがなかった。家もなかった。お店もない。道路もなくて、街灯までない。無法地帯に乱立しているコンビニすらない。先の果てない更地。北海道?と混乱する思考に疑問を挟む。ああ、確かにあそこはこんな感じだったような、と礼二は自分を無理やり納得させようとした。もちろん北海道の山間にだって街灯はあったし、道路もあった。だが人とは強制的に自分の見解の範囲で納得しようする生き物である。
そっか、そっか。北海道か。
礼二がうんうん、と視線をずらした先。更地に点々と木々が生えていた。何、別に可笑しなことではない。ああ、その曲がりくねった新種っぽい形をしていなければ。
…………何だよ、ここ。
少なくとも、バスの中じゃない。
そこでようやく思い出す。バス………。そうだ、バスが落ちたんだっけ。
崖の下? と改めて周囲を見回す。誰かいないものかと思ったのだ。すると、その更地の奥に小さな染みのようなものがあるのを礼二は発見した。立ち上がり慌てて駆けていくと、そこに居たのは髪と制服を乱したまま寝転がっている霧島杏奈だった。辺りを見回しても、他には誰もいない。裕二も、由紀も、春名も真琴も、誰も。
どうなっているんだ。バスが落ちて、何でこんな場所に?
よくわからなかった。崖など見当たらないので、崖の下ではないのだろう。
では何かと思い浮かぶのは地獄、または天国。情景的には前者だろう。普通、あそこから落ちたら死んでいるわけだし。でも、やけに現実的な死後の世界だよなあ、と礼二は首を捻る。
ま、とりあえず。ここに一人じゃなくてよかった。霧島とは別に特別親しくもないが、見知らぬ場所に一人でいる心細さには適わない。
霧島を揺り動かし起こすことに努力し始めた礼二は、そこで思わぬ副次的効果に気付いた。乱れたスカートが身体を揺らすたびにさらに乱れ、パンツが見えそうになる。いや、見ないけどね。僕、紳士だし。礼二は誠実な男だった。いや、ほんと。ピンクって、可愛いな。礼二は自分に正直な男だった。
しばらくそうしていると、ぼんやりと霧島は目を開いた。まさか死んでないだろうな、と心配になり始めたところだったのでほっと一安心。
「…………あれ? ここ、どこ? あ、宍倉」
「起きた?」
まだ寝ぼけ眼のまま霧島は身体を起こして、ふああ、とまたも大欠伸。背筋と腕を伸ばして、うーんとうねった。やっぱり猫みたいだな、と礼二はその姿を見て思う。
「何? ここ、北海道?」
「だったら良いね。そう見える?」
きょろきょろと辺りを見回し、しばらくぼーっとしてから、ぶんぶんと霧島は首を振る。
「見えない」
「まだ寝ぼけているの?」
「少しね」
半狂乱になるでもなく、ぼけっとした霧島の態度に礼二は呆れた。だが、また救われもした。これで泣き喚かれたりしたら大変だ。困ったもんだ。目突きくらいはしたかもしれない。爽やかな笑顔の裏でそんなことを考える礼二。
それから霧島はスカートの乱れに気付いたようで、そそくさと直してから礼二を見た。
「見た?」
「まさか」
「まだ何も言ってないけど」
「今の視線の動きから考えていることくらいはわかるよ」
あっそ。と霧島は呟き、立ち上がった。膝立ちになっていた礼二も立ち上がりズボンについた砂を落とした。
「ま、見られて減るもんじゃないし、いいけどさ」
「何だ。だったら見とけばよかったよ」
「見たいの?」
「…………はい」
正直に答えたのに、ばーか、と舌を出された。何だ、胸がときめいた。
「馬鹿やっている場合じゃないって。ねえ、本当にここどこ?」
「知らないよ。僕も気付いたらここに居たんだ」
あっちこっち首を振りながらその黄昏めいた荒地を見渡す霧島。礼二も同じように見渡すが、やっぱり何も無い。まったく、何も。
「ねえ、これって、私たち死んだのかな?」
「そう思う?」
「全然」
だよね、と礼二と霧島は頷き合う。現実感がないわりには、夢とか死後の世界とか、そういうものではない気がするのだ、ここは。
北海道も目じゃない唖然とするような大地の広がりも、風が運ぶ砂と葉のざわめきも、乾燥した空気の臭いも、唇を濡らす舌の感触も、何もかもが、リアル過ぎた。
「ま、死んだことないからわかんないけど」
「で、どうする?」
礼二が聞いてみると、霧島は腕を組み、考え中のポーズ。礼二も真似してみたが、あまりいい案は浮かばない。というより、選べる選択肢はあまり多くなさそうだった。
「探す、しかないよね」
「やっぱり?」
自分たちだってここにいたんだから、他の奴らだってここにいるだろ――というのはまあ、大筋間違っていない結論のはず。それで現状がどうにかなるわけでも、この場所がわかるわけでもないと思うが、人が多いことに越したことはない。ま、色々と。
「じゃ、とりあえず散策開始か。宍倉はあっち。私はこっち」
「はいはい」
礼二は頭をかきながら霧島に背を向け大人しく指図に従う。
まだなんとなく理性が追いついていない感じだった。五感が伝える刺激はここが現実だと告げるし、礼二もそうだと思っているが、何となく信じられない。凝り固まった十八年の人生経験がその夢物語を否定している。
ま、今は考えなくて良いことか。悠然と広がる大地を眺めながら、礼二は思った。
しかし、見たところ人っ子一人いない。そもそも霧島意外には誰も見当らなかったのだ。どこまで歩かなくてはいけないのだろう。下手したら僕も霧島もはぐれちまうぞ。
そう礼二が考えたときだった。
「あ、そうだ」
霧島のその声に、はぐれない方法でも見つけたのかと期待して振り向いた礼二。霧島はとてとてと礼二から離れてくるりと振り返り、叫んだ。
「私、彼氏いるから。変なことするなよ」
「…………しないよ」
唇の端が引き攣るのを感じながら、礼二は言ってやった。




