第二十二章 嗤う彼等
握ったこの手を離しはしない。
例えそれがなんであれ。
それだけが唯一の救いだったから。
裕二は走っていた。もはや慣れてしまった四足で駆ける。邪魔な木々はその体でなぎ倒し、ただ我武者羅に目の前の小さな人影を追っていた。人影は遠い。しかし、追いつけない距離でも、スピードでもない。
走る、走る。その後ろから聞こえてくる魔物の鳴き声。足音。一度地面を蹴る音がしたかと思うと、鋭い痛みが尻を貫く。走りながら振り向けば、どうやら尻尾に噛みつかれたようだった。痛みよりも歩みを邪魔されることへの苛立ちが強い。そのまま尻尾を地面へと打ち付ける。肉が潰れる音。ぐしゃり。尻尾に噛みついたアイオンは地面へと強打されその口を離した。裕二はもう後ろを見てはいない。
裕二の白い体毛に覆われていたはずの体は、今や鮮やかな血で彩られその色を失っていた。いつもなら倒れていてもおかしくないほどの傷。イシュティナだって限界を迎えるころだろう。もうダメだなんて言って、透やルディルさんに全部パスしてサリアさんに優しく介抱してもらう。いつもならそうだった。命をかけて必死になんてならなかった。だってルディルさんやサリアさんはきっと俺たちを助けてくれたから。そう信じていたから。
しかし例え体がいくら傷つこうと、今回限りは倒れてしまうわけにはいかない。今度は俺が助ける番だから、倒れるわけにはいかないのだ。
何に、とか。何で、とか。そんな理由はどうでもよくて。
礼二は、助けてやらないとだめなのだ。今ならわかる。作り笑顔の裏で、あいつはきっと泣いていた。誰よりもあいつは孤独だったから。だからちゃんと声を聞いて、言葉を聞いて、今度は俺が、助けてやらないとだめなのだ。
バカ野郎、礼二。何で、逃げるだよ。
「俺は味方だ!」
その言葉が届いたのか、願いが通じたのか、目の前に迫った礼二は、その足を止めた。小さな粒が人並みの大きさを取り戻したところで、裕二も静かに足をならし、駆けていた足を止める。後ろを追ってきたアイオンたちも心得たかのように立ち止まり、裕二と礼二を囲った。ぐるりと円になったアイオンたちはまるで二人の再会を嘲笑う観客のよう。ならば、ここはさながら劇場か。演じるのは悲劇か喜劇か。
本能に従うはずの魔物であるなら異常な行動であるアイオンたち。しかし、裕二の視界にそんなアイオンたちは入らなかった。ただこちらに背を向ける人影に呼びかけた。
「――礼二」
人影は沈黙で返した。顔をこちらに向けることもなく、相変わらず背を向けたまま。
息の詰まりそうな沈黙。
その態度にむっとした裕二は獣の足を前に出し、礼二の前に回り込もうとした。その面が今どんなふうになっているか、拝んでやる。意気込んだその行動も、しかし、自然と止まることになる。礼二が肩を震わせていたからだ。
「………礼二?」
「ク、クククク、クハッ、クハハハハッハハハハハハハハハッハハハハハハ!!」
手を広げ、礼二は笑う。狂ったような笑いは森の中に木霊した。木々たちも笑いだしたかのようにざわめき始め、鳥たちは一斉に羽ばたいた。するとそれに倣うかのように、周囲を囲むアイオンたちも空を見上げ慟哭する。
世界が嗤う。
それはけたたましいオーケストラ。悲劇を彩る喜劇の幕開け。騒然と化した異様なその場に、裕二は立ちつくした。
「おい、礼二。何笑ってんだ。聞いているのかよ、こっち向けよ!」
この騒々しい場を前に聞こえるはずのない叫び。
しかし、ぴたりと止まる一人の人間の笑い声。
たったそれだけ。一人の沈黙だけでうねりは収束を迎え、アイオンたちも忽ち声を抑える。木々はそよ風に靡いた。さっきまでの騒音が嘘のような静けさがその場を支配する。
もう一度だけ、笑いを含めて肩を震わせる人影。その人影――礼二は焦らすかのようにゆっくりと振り向いた。
見えてくるその顔に裕二は眼を見開く。
「なっ!」
「残念でした、裕二くん」
「紅月!」
仮初の名で与えられた力。
空に上る三日月と同じ色に光る刃は、灼熱を宿し目の前の敵を斬る。
一匹、二匹。
耳を劈く魔物の悲鳴。切りつけられた箇所から溢れ出す緑色の血液。けれどもう怯みはしない。命を絶つ覚悟を、すでに透は身につけていた。洞窟にいたあのときとは違う。今躊躇えば、戦えない人たちまでも傷つくのだから。
光の刃を振い、薙ぎ、突く。しかし、それも命を奪うまでには至らなかった。見れば先ほどの二体ももう体を起き上がらせている。
浅かったのか。舌打ちを一つ。けれど気を抜く暇はなく、飛びかかってきた魔物へ刃を向ける。寸前でかわされたそれ。懐に入られた。アイオンはその大きな口で透を飲み込もうとするが、かわされた光の刃を鞭のように捻じ曲げて後ろから串刺しにする。寸前で止まる口から臭うのは肉食獣特有の異臭。
傾くアイオンの体。顔にかかる液体を拭う時間はなく、息絶えた死体に手間をかけることもできない。すぐさま刃を消し、再び迫りくる敵のために刃を作る。
たとえ肉を切り裂き、骨すら溶解させる刃であったとしても、触れなくては意味がない。積み上げた死体はさほど増えてはいなかった。ゴブリンのように容易く攻撃を受けるアイオンではなく、未だ素人の域を抜け出せない透の斬撃は次第に見切られ始めていたのだ。今のように相討ち覚悟で挑まなければアイオンを倒すことはできなかった。
さらに言えば、数も多い。さすがにあのときのゴブリンほどではないにしろ、一体が持つ力を比較すればあのときよりも洒落にならない状態であるのは簡単に推測できる。疲れに鈍くなっていく体で刃を振い、敵を荷台に近づけないように牽制しつつも、透の心の縁には絶望という名の澱が溜まっていく。
……このまま、死ぬんだろうか。
杏奈に会うこともできずに。
こんな見知らぬ世界で……
そのまま絶望に囚われそうになったとき、聞こえてくるのは背後の轟音。励ますかのようなそれ。
振り返る余裕はないが、それでも恭介はまだ戦っているのだろう。諦めることなく、絶望に囚われもせずに、あの皮肉気な笑いを携えて、きっとまだ戦っているのだ。
なら、自分が諦めるわけにはいかないじゃないか。
恰好をつけなきゃ、男じゃないだろ。
ここでへばったら、何て言われるかわかったもんじゃない。
「ああああああああああああああああっ!!」
声を出し、斬撃。自らを奮い立たせる。背後に守るのは真理と直人とサリアさん。全員が全員、大事な人だから。だから、誰も、傷つけさせはしない。もう二度と、誰も、俺の前で傷つけさせはしない。
――背中に衝撃。
右手から迫った敵の首を刎ねた。溢れた血は噴水のように流れ、一面を緑色に染める。トカゲの頭が宙を回りながら燃え尽きていくのを見て、
――生暖かい何か。それは背中から。
振り返らずに刃を回す。息のかかる距離にいたアイオンは刃の餌食となり一刀両断。ふらつく足に檄を入れながら敵を威嚇するように睨む。
――鉤のような爪が、突き出るように、生えていた。
「透!」
真理の声の必至さが、自分の今の状態を知らせる。
さきほど裕二の時に声を荒げたのにも驚いたのだが、真理も叫ぶときはあるらしい。友人の以外の一面を知れたことに透の顔は綻んだ。ふらつく体は、うん、大丈夫。まだいける。
「………な、なおと」
「と、透くん。ど、どうしようこれ。だ、大丈夫、じゃないよね。そ、そうだ! サリアさんを起こして――」
「に……にげろ。まりを、つれて」
「……え?」
条件反射。真理に迫った敵を斬りつける。まだ動くと思っていなかったのか、敵は回避することも敵わず燃え尽きた。悲鳴を上げる直人。真理は声も上げず、透を見ていた。涙を堪えて、責めるような眼差し。それに透は微笑みで返した。
「何格好つけてんだ、てめぇ」
傍に迫ったアイオンが二、三体同時に吹き飛ばされる。さっきまで反対側にいたはずの恭介は、苦々しげ表情で透の傍に立っていた。霞む視界で透は笑う。
「何だよ、今、いいとこだったのに。悲劇の、ヒーロー、っぽい、ところだろ」
「黙っていろっつーの。もうあっちは片づけた。あとはこっちだけだ」
「早いな、恭介。やっぱり、お前は強いよ」
膝をつく。真理が傍によって肩を抱いた。温かいはずなのに、今はとても寒い。がたがたと歯がなる。何で、こんなに寒いんだろう。
「これを透に飲ませろ。ヒルビアの雫っていうレアアイテムだ。盗賊団に入った時にがめたやつだが、多少は助けになるかもしれねぇ」
「どうしよう。ねぇ、抜いたほうがいいの、これ」
「抜くな。余計に血が出る。今からこいつらを掃除して、そしたらあのねぇちゃんの指示通りにすりゃあいい。そうすりゃあ治るし、何も変わらず今まで通りだ。大丈夫に決まっている。決まってんだよ」
だから、と恭介が言う。その顔はもう見えない。
「だから、勝手に死ぬんじゃんねぇぞ!」
「なーんだ、つまんない」
ふと可笑しな言葉が聞こえて、真理は顔を上げた。恭介は眼を見開いて、自分の腹を見ている。
背中から突き出た長い血色の槍。
一部の隙もなく赤色に塗り固められたそれの出何処を、真理は呆然と眼で追った。
「真理ちゃんだけ殺そうと思ったのに。あーあ、結局皆死んじゃうのか」
子供のような口ぶりで、拗ねた口調でそう言って、彼は笑った。
「ま、いっか」
伊勢直人は、そう笑った。
思うところあり、ネット小説ランキングの異世界コメディ部門から枠を外しました。シリアスの比重が多いし、これからもそうなりそうな気配なので。コメディも書きますけどね。
シリアス部門のほうに登録するかどうかは未定。第二部も終盤に向かっておりますが、引き続き読んでくださったなら作者は幸せでございます。長くなると思いますが、どうか飽きずに読んでいってください。




