第二十一章 始まる謝肉祭
盗賊団の助けにより作り直された荷台は、呑気なブルドンに引かれて再びヴェールの村を目指す。村の滅んだ原因の究明と他にいるかもしれない仲間の確認。当初は意気込んだその目的も未だ終わりを迎えていない。
しかし、その張り切るべき人がいる肝心の荷台の中はというと、何とも息のしづらい空気で充満していた。声の一つもない空間には、車輪がガタガタと地面に揺られる音しか聞こえてこない。
鈍感でも気づく冷や汗ものの空気に、こちらの世界の本を開く真理も、ページを捲る手は進まなかった。
ちらりと伺う荷台の二隅。
その対角線上に座っているのは、透と恭介。二人の間の沈黙は重苦しく、空気はもう発電でもしそうなほどにピリピリとしていて傍目からでも息苦しい。その落雷注意報のど真ん中にいる被害者第一位の直人くんは、青い顔で体育座りのまま固まっていた。いつもならそんなときに間を取り持つはずのムードメイカー的な裕二も、今日はどこか上の空で遠い視線のまま荷台の外を眺めている。そんないじくりがいのない獲物にルディルさんは眉を寄せて不満げなご様子だ。ちなみに平和主義者のサリアさんは今回もブルドン車の運転手。サリアさんしかブルドンにうまく指示を出せないのだからそれも当然なのだが、少しずるいと思う真理であった。
「ねぇ。これってどういうこと? 昨日のマリっちのあれが原因じゃないよね?」
「違う」
首を振ると、そう、と短く返答をして考え込むようにルディルさんも押し黙ってしまった。ルディルさんまでもシリアスモード突入なのかと真理が驚きに目を見開けば聞こえてくる、うーん、という唸り声の後の、お昼ご飯はどうしようか、という呟き。もう耳を傾ける気も失せた。思考は再び二人に戻る。
思い出す昨日の透と裕二と恭介の間に見えた亀裂。今の裕二の上の空がそのことに関係しているかどうかはわからないが、透と恭介の間の亀裂は日を置いても治ることはなかったようだ。
見解の相違。単純に言えば、そういうことなんだろう。お互いがお互いを認められない。心を読まずとも、真理には二人の考えていることが何となくわかるのだった。それというのも、真理にも二つの矛盾する考えが自分の中に芽生え始めているのを知っているから。
元の世界の帰りたいという切望。もう一つは、この世界に残りたいという願望。
この世界に居れば居るほど、自分の帰りたいという願いは空気の抜けて萎んでいく風船のように小さくなっていくのを真理は感じていた。それはきっと、ルディルさんやサリアさんのせい。ルディルさんの温かな抱擁と、サリアさんの慈愛の笑顔。いつも二人は温かい。他人のはずの私たちに対して。
世界とはつまり人だ。自分を取り巻く人々こそが『世界』と形容するものなのだと真理は考えている。
それゆえに、真理はこの世界を好きになった。だから、真理はこの世界を何の未練もなく切り捨てることができない。
そして透にもきっと同じ気持ちが芽生え始めている。だから恭介に反発するのだろう。その自分の考えを認めたくないから。恭介は恭介でいくら憎まれ口を叩いていても、帰りたいという気持ちはやっぱり消えていないに違いない。どんなに小さくても、その気持ちはまだきっと残っている。だから恭介も透を認められない。帰れる方法すらわからない今、『帰りたい』という願望は早々に捨ててしまったほうが楽だから。
複雑、と声になるかならないかのような声で真理は呟いた。例えこのアズイルの力で二人の心を覗いたとしても、それは今の二人の関係を改善する何の手助けにもなりはしない。ただ彼らの気持ちを踏みにじるだけなのだろう。
自分のこの力は、一体何のためにあるのだろうか。人の心を除くだけの下品な力。ときどき、真理は歯噛みしたくなる。戦えもせず、守られているだけの自分。
「何が複雑なの?」
真理が思考の波に溺れ沈みかけていると、這いつくばるように発電地帯を離脱した直人から声をかけられた。さっきの言葉かと思い出すとともに、聞こえたのかと少し驚きながら、何でもない、と真理が言うと、直人は軽い相槌でそれに答えて真理の隣に座った。助かった、と心底安堵したような切実な声が直人から聞こえてきた。
「昨日は大変だったね。体のほうはもう大丈夫?」
「大丈夫。何でもなかったから」
「そっか、よかった」
返事を返しながら真理の意識は次に裕二へと向う。透と恭介の間の問題は明らかなのだが、裕二の呆け具合の理由はよくわからなかった。アズイルを使えばわかることなのだろうが、やはり許可もなしに人の心を暴くような真似はしたくない。
真理の視線にも気付かない裕二の影にふとあの白い狼が見えたようで、真理の小さな肩は思わずびくっと震えてしまった。
裕二の心象風景を覗いたときに見た、紅の箱の中のあの目。
真理の眼を睨み返す獰猛な獣の目。
今でもあの視線を思い出すだけで、ぞっとする。あの一瞬で真理は自分があの獣に食われる映像を脳裏に叩き映されたのだ。あれは裕二の意思ではないはず。なら、あれは何だったのだろう。心を覗いてしまった自分に対する神様からの罰だったのだろうか。だけど、あのときに聞こえたしわがれた声は――。
『我…………権化……神に牙……き、捕ら…れ…古の……』
手はなぞるように眼を触れる。今そこに蒼き光はない。
「私たち、まだ何も知らない。この力のこと。何で、私たちにあるのかも」
紅の月と蒼い月の神様の力。二つの月を見たときに授けられた力。そんなことしか、私たちは知らないのだ。自分のことなのにも関わらず。
「うーん、そうだけど。そんなに気にすることないんじゃない? ほら、よくあることじゃない。異世界に召喚された人間が特別な力を手に入れるのって」
えへへ、と能天気な笑いを浮かべる直人に、呆れを通り越して尊敬の念すら感じる真理だった。直人のように全部を全部気楽に考えてこられたのなら、きっと人生は何でも楽しいことだろう。
ため息を吐きそうになったそのときに、真理は自分の体が急速に直人の胸へと引きつけられていくことに気がついた。何でだろうとその理由に気づく前に、肩を打つ。背中を強打した直人から聞こえてくるのは短い呻き声。運動をしていた物体がその動きを止めるときの力学的方向性について考えたときには、真理は荷台に倒れていた。上からは直人の「あいたたた」なんてお間抜けな声が聞こえてくる。
どうやらブルドンが急停止したらしい。
「ちょっと、サリア! またか! まったく何してんのよ、危ないじゃ――」
倒れ込んだルディルさんが猛然と起き上がり仕切りを開いてサリアさんに抗議の声を上げるが、それは不自然に区切られた。気になるが、上に乗っかった直人が邪魔で身動きできない。
「あ、ご、ごめん!」
慌てて体を起こした直人がお約束のように頭を壁に打ち付けているのは無視して真理は仕切りの向こうを覗く。同じように詰め寄った透と恭介がそうするのと同様に、真理は息を呑んだ。
「……うそでしょ。アイオンが群れになって襲うなんて、聞いたことがないよ」
いつも気丈なルディルさんの呆然とした声は、明確に現状を告げる言葉であった。
荷台を囲む大型の魔物たち。それは映画に見た恐竜の姿に酷似していた。筋肉で膨れ上がった二本脚で立ち上がり、前足はその凶悪な姿に似合わず小さいものの、どの手にも鉤にも似た爪が生えている。顔はトカゲのそれだが全身は緑色の体毛に包まれ、尻尾の先端は槍のように鋭い。その体形は裕二のイシュティナを使ったあの白獣より小さいものの、巨大と言って過言ではなかった。
ふと眼で追った先に、一か所に群がるその化け物たち。アイオンという呼称らしいその魔物たちの中心に見えたのは、もはや肉の塊と化したブルドンの姿だった。顔を上げた一匹のアイオンの口は血でてらてらと光っている。
「動かないでください! 今結界が作動しています!」
仕切りを開いた先、台車に乗ったサリアさんは苦しい顔で両手を握っている。地面を見れば銀色に輝く巨大な魔法陣が、この荷台とサリアさんの乗る台車の下に描かれていた。
「どういうことだよ、おい。可笑しいじゃねぇか直人! アイオンはお前が全部手なずけたんじゃねぇのかよ!」
「そ、そんなこと言われても。ぼ、僕にだって何が何だかわからないよ! 必至に心で呼びかけてみても返事をしてくれないんだ! いつもならちゃんと言葉を返してくれるのに……」
次第に沈静化されてきた真理の脳内は、何か違和感を覚えた。それが何であるかと考えると、そう言えば今の今まで裕二の気配を感じていなかったことに気づく。この非常事態に裕二は声の一つも上げていない。奇妙に思って振り返ると、ちゃんと裕二はそこにいた。ただこちらの様子なんてまるで興味がないかのように荷台の縁から外を眺めている。立ち上がり拳を握る裕二の眼に映るのは驚きに間違いない。しかし、その驚きがここにいる私たちのものと同じものだとは思えなかった。
「裕二?」
真理が呼びかけても返事がない。ただ、ようやく裕二の固く結ばれた口が開く。
「…………………礼二だ」
「なに?」
「礼二だ。礼二がいた! あの木の陰に。走って行きやがった。どこ行くんだよ、礼二! 俺はここにいるだろうが!」
「裕二!?」
思わず叫んだ真理の声に背後にいる透たちも振り返ったのがわかった。しかし、裕二はそんなことも気にせずに荷台の縁から飛び降りて森の中へと走っていく。その足が魔法陣の縁から出ると同時に、今まで魔法陣の前で今か今かと手ぐすねを引いていたアイオンたちが涎を垂らして一斉に襲い掛かってきた。
裕二がアイオンたちに引き裂かれる未来に真理の体は恐怖で固まる。喉からは引き攣った悲鳴が出た。
「どけ!」
しかしそれは現実にならなかった。今まで聞いたことのないような、裕二の怒声。裕二の胸元に紅の光が灯ったかと思うと、白い狼と化した裕二は、飛びかかってきたアイオンたちを凄惨に殺し始めた。
腹に噛みついたアイオンをその牙で掴み引き千切る。立ち塞がるアイオンはその爪で首を裂く。噛みつき、薙ぎ払い、頭で押しのけ、その足で踏む。踏みつけられたアイオンの口からは内臓が飛び出た。自分の道に塞がる獲物には容赦のないその姿は、今まで獣となっても思わず叱咤したくなるような甘さ持っていた裕二ではない。情けを捨てた残虐非道の、完全な獣のものだった。
「戻ってこい、裕二! 何をしているんだ!」
駆ける裕二の背中にしかし透の言葉は届かなかった。次々に襲いかかるアイオンを薙ぎ払いながら裕二の姿は遠くなる。舌打ちをする透の傍を、今度はルディルさんが通った。
「ルディルさん!?」
「あいつをあのまま放っておけないでしょ。今なら裕二が通っていた方角の敵が手薄。すぐに戻るから、ちょっと待ってて」
ウインクをすると、ルディルさんは荷台を飛び降りて裕二を追って行った。群がる魔物を得意の火の魔術で威嚇しながらその駆ける足を進めていく。透は自分もと荷台に足を掛けるが、思わず真理はその透の服の裾を掴んでしまった。驚いた後で、悔むような表情を透は見せる。
「………真理」
「あ、あ。ち、違う」
慌てて真理はその手を離した。透の顔に浮かぶその表情が、真理の胸に突き刺さる。透はきっと、真理を守ることを忘れていたと自分を責めているのだろう。真理は知らずに動いた自分の傲慢さと卑怯さに身震いした。
このまま皆が居なくなったら、自分を誰が守るのかと。そう思ってしまったのだ。
私は、私は。私は、なんて汚い。
ぐるぐると視界は回りだす。自己嫌悪のあまりに吐きそうだった。透はそんな真理の表情をなんと勘違いしたのか、ただ勇気づけるように笑うのだった。
「心配ないから、ごめんよ。真理は俺が守るから。裕二なら、ルディルさんが助けてくれる」
違う。違う。そうじゃない。私は、私は。
「女を口説いている場合かよ。そろそろ、あのねえちゃん限界だぜ」
恭介の言葉に一睨みしてから透はサリアさんを見る。真理も真っ白な思考のまま釣られるようにサリアさんを見た。サリアさんは辛そうに肩を揺らし喘いでいた。
「これほどの高度な防衛魔術をここまで広い範囲でこれだけの時間行使しているんだ。なかなかいい魔術師じゃねぇか。いや、あの身なりだから神官か」
「ど、ど、どうするの! このままじゃあ僕たち死んじゃうじゃないの!?」
「弱い奴は俺の後ろに隠れていろ。たかだか魔物ごとき、俺のアギレオの雄叫びで蹴散らしてやる」
荷台から台車に飛び移った恭介はサリアさんの隣に立つ。サリアさんはそんな様子も目に入らないほどに意識が混迷しているようだ。ふらつきながらも両手はしっかり祈る形で握られている。ただ地面に描かれた銀色の魔法陣は点滅を繰り返し、見えない壁に頭を打ち付けるアイオンたちの数は増えていっている。
「………背中は任した。後ろは俺がやる」
透は恭介に背中を向け、荷台の縁に立った。それを恭介は首だけ振り向いて可笑しそうに笑う。
「おいおい、聞こえなかったのかよ。弱い奴は俺の後ろに隠れていろって言ったんだぜ? 戦えなんて言ってねぇよ、名無しくん」
「気に入らない。お前のそういうところ、全部気に入らないけど。だけど、俺は逃げない」
「逃げろなんて言ってねぇだろうが。隠れていろって言ってんの」
「戦えるのに戦わないのは、逃げることだ。望まなくても戦える力があるのなら、俺は逃げない。戦うんだ。皆を守るために。それが、今までずっとずっと願ってきた俺の夢だったから。そうだよ、お前が正しい。俺だって、俺だって――」
ごめんなさい。サリアさんは擦れるような声で呟いて、地面へと崩れ落ちた。魔法陣がその姿を消し、行く手を阻むものがなくなったアイオンたちはその大きな口を開いて私たちに襲いかかる。透の手の甲に紅の紋章が輝いたかと思うと、そこから紅の刃が生まれた。
「俺だって、こんな世界を望んでいたから!」




