第二十章 理由なんていらない
まるで子供に戻った気分だった。大人から見ればまだ自分だって子供なんだろうけど、でも、もっと小さな子供に戻った気分で、温かくて、むずかゆくて、照れ臭い。感情の波が収まっていくにつれて、裕二はだんだん恥ずかしくなってきた。
うわ、何やってんだ、俺。サリアさんの腕の中で。
しかも、ふと意識すると後頭部にやわらかな感触が。ふにょんという。ふにょんっていう。も、ももも、もしかして、もしかして、これは、む、むむむむ、むねというやつですか。胸、ですか。女性特有の母性本能の塊でいらっしゃいますか。い、以外に、大きくていらっしゃる、サリアさん。
「さ、ささ、サリアさん! もういいっすよ! はい、すいませんでした!」
強引に抜け出したくても甘い誘惑故の回避不能。手をばたばたして情けない抗議でそれを訴えると、小さな笑いとともにサリアさんはそっと腕を解いてくれた。解かれたら解かれたで何だか後悔というか、名残惜しさというものを感じるのは男の性というものだろう。複雑な胸中のまま裕二は頭をどかした。
うーむ。無意識なんだろうな、サリアさんの場合。笑顔のまま小首を傾げるサリアさんに天然を感じる。あははと裕二の喉からは渇いた笑いが漏れた。
「そ、そういえば、真理のやつは……」
「ああ。真理さんなら大丈夫です。極度のショック状態でしたけど、今はもうぐっすり寝ていますよ。明日の朝には眼を覚ますと思います」
「そ、そうっすか。よかった」
実際、直人の言葉があって忘れていたとは口が裂けても言えない裕二であった。もしそれをサリアさんの前で言おうものなら白い目で見られることは間違いなし。真理に言おうものなら無表情のまま物凄いことをされそうだ。何って、いや。考える中で最悪の部類に入るものを二乗した感じで……。
「そ、そういえば! 結局明日どうするんすか? 決めてなかったっすけど」
「明日は、とりあえず目的通りにヴェールの村に行くみたいですよ。透さんがさっき言っていました」
「そ、そうっすか」
まったく一言もそんな言葉は聞いていなかった裕二だったが、特にそれに異論があるわけでもなく、阿呆のようにそうなんだーと頷く。せっかく上がった話題も続かせることもできずに泡沫のように消えた。他に「そういえば」で繋げられる話題を必死で裕二が探していると、サリアさんが思い出したように顔を裕二へと向ける。
「そういえば、さっき『のすらるじー』って言っていましたけど、それってどういう意味なんです?」
「へ? ノスタルジーっすか。えっと、それは望郷の念と言いましょうか。うーん、つまりは、故郷を恋しく思う気持ちのことっすね」
「……故郷を。そうですか。裕二さんは、のすたるじーになってしまいましたか」
「は、はい。ま、まあ」
サリアさんは小石を拾うと裕二がしたように無造作に小石を地面へ投げた。そんなサリアさんの子供っぽい仕草がちょっと裕二には意外だった。横目でそれを見つつ、裕二も何となく小石を拾って木々の間に投げる。
「帰りたい、ですよね」
「帰りたい、ですね。うん、帰りたい。母ちゃんは、一人だと駄目な人なんで、俺が居てやらないとだし。それに、ハンバーガーだって食いたいし、ポテチとかじゃがりことかも食いたいし、味噌汁だって飲みたいし、週刊雑誌だって一カ月分溜まっているだろうから読みたいし」
「よくわからないですけど……やりたいことが一杯なんですね」
「やりたいことが一杯なんです。ああ、思いだすと、帰りたくなってきた」
今頃日本では俺たちはどういう扱いを受けているんだろうか、何てことを裕二はぼーっと考えた。バスが崖に落ちたんだから、俺たちはもう死んだことになっているのかもしれない。受験生の悲劇、なんてメディアの見出しが裕二の頭に浮かんだ。でも、もう一か月だし、ニュースにもなってねぇか。
あーあ。他のクラスの連中は、どうしてんのかな。生きてんのか、ちゃんと。
「寂しく、なりますね」
「え?」
振り向くと、サリアさんはどこか遠くを見ていた。薄闇の、ずっと先。小石が投げられ、消えていく。
………そっか。帰るって、そういうことか。サリアさんと、ルディルさんとも、別れるってことか。
当たり前のことが、裕二は今初めてわかった気がした。すると、何とも言えない気持ちが心の底から湧き出てくる。帰りたいって気持ちは変わらないけど、何だか、すごくイガイガするような、喉に魚の骨が刺さったような、何とも言えない不快感。
たった一か月。だけど、すごく濃い内容の一か月だった。今まで一か月なんて時間は気づけば終わっているようなもんだったのに。それが十年のことのように思い出される。
異世界で出会った優しい人たち。この人たちと別れる。それが何だか奇妙なことのように裕二には思えた。
「聞いていいっすか」
「何なりと」
「何で、何でサリアさんやルディルさんは、俺たちを助けてくれたんです? 見ず知らずの、無関係だったはずの俺たちを。だってもともと、俺たちを捕まえるはずだったじゃないですか」
「………変、ですか?」
「変っていうか。理由っていう、そういうもんが普通あるでしょう」
サリアさんは答えなかった。答えを考えているようでもあった。もしかして、本当は言葉にできるような明確な理由なんてなかったのかもしれない。理由にもできないようなことがいくつも重なって、理由になったのかもしれない。それでも、裕二はサリアさんの口から何かを聞きたかった。納得がしたかった。やっぱり、直人の言葉で不安になっているだろうか。誰かを信じられる、根拠が欲しかった。
躊躇うようにサリアさんは口を開いて、閉じた。それから意を決したように背中を向ける。そのときの顔は少し赤味がかっていたような気がした。
「えっと、透さんには言わないでくださいね」
「何を……って、ちょ、ちょっと! サリアさん!?」
寝間着をゆっくりとまくり上げるサリアさんに、裕二の脳内は桃色に染まった。
理由って、もしかして、そういうこと? 透に言わないって。わぁお。
灯りはないはずなのに、サリアさんの白い肌は淡く光っているようだった。それがとても扇情的で、裕二の脳みそは今にも沸騰しそうだ。その背中に目を逸らすべきか否か、裕二が凝視しながら迷っていると、あっと息を呑んだ。脱ぎ終わったからではなく、その背中の一点に目がいったからだ。
「……傷。もしかして、あのときの」
「綺麗に治ったって嘘ついちゃいましけど。はい。あのときの。ルディルを庇った時のものです」
サリアさんの綺麗な肌には、無残な傷跡が残されていた。
思い出すのはサリアさんたちと最初に出会った時。その前から幾度も狩人なる者たちに襲われ、疑心暗鬼になっていた裕二たちは、サリアさんとルディルさんに問答無用で牙を向けた。サリアさんたちに戦う意思がなかったにも関わらず。
その傷跡以外はシミ一つない背中。陶器のような肌に熱された刃の跡は、酷く残酷だった。仕出かしてしまったこと、取り返しのつかないこと。後悔が裕二の胸に滲んでくる。
「その、あの、ご、ごめんなさい」
「謝らないでください。私たちが、裕二さんたちディアートを捕まえようとしたのは事実なんです。やるからには、やられる覚悟だってありましたから。でも、透さんには言わないでおいてください。気を病まれたりするのは、本意じゃありませんし」
そっと服を下ろして、サリアさんは振り返り、裕二をまっすぐ見詰めた。思わず裕二が視線を逸らすも、顔を両手で掴まれ強引に視線を合わせられる。
「さ、サリアさん?」
「痛かった。背中の傷じゃなくて、心が。私が倒れた時に、泣きそうになったあなたたちの顔が頭から離れなかった。怯えた獣みたいな顔。強い力を持っていても、やっぱりあなたたちは子供なんだって。悪魔なんかじゃない。戦禍を生むものなんかじゃない。あなたたちは、まだ子供なの。だから、私思った。駆け寄ってくるあなたたちを見て、守らなきゃって。私とルディルで守らなきゃって。ううん、ルディルがどうかはわからないけど、きっと、気持ちは一緒だと思う。生きようっていう必死な気持ちとか、理不尽に泣きたくなるような気持とか、私は知っているから。………あのね、私、孤児だったの」
「え?」
頬から手が離れる。けれど裕二の視線はサリアさんから離れなかった。サリアさんは寂しく笑って、秘密だよ、と小さく呟くと、立ち上がった。先を語る気はないようだ。聞きたいことが幾つもあったけど、どれも言うべきではない気がして、裕二は口を噤んだ。
「理由とか、そんなところかな。でも何よりは、きっと君たちのことが好きだから。それじゃあ、いけない?」
「全然、そんなことないっす」
裕二も立ち上がった。サリアさんが右手を出してきたので、裕二も躊躇わずに握り返す。包み込むように、だけど気持ちが伝わるように、強く。
「えへへ。これからも、よろしくね」
「はい。えっと、お願いします。………それから、これからは、敬語じゃなくていいすよ。今みたいに」
「あ、やだ」
空いた左手で口を抑える。そんな様子が可愛らしくて、裕二は笑った。むぅと頬を膨らましたサリアさんも、耐えきれずに噴き出した。
「わかった。はい、よろしく。じゃあ、裕二さんも敬語はなしで」
「いや、でもそれは年上だし。まあ、もともと俺は砕けた口調なんで、気にしないでください」
「えー。何かずるいなー、それ」
楽しげな笑いが森の中に響く。さっきまで沈んでいた気持が嘘みたいに晴れ渡って、サリアさんはすげぇな、と裕二は心の中でちょっとばかり尊敬した。
それから、信じようと思った。
皆、皆、信じてみよう。信じるのが怖いのは裏切られることを考えてしまうからだけど、この人たちなら、裏切られてもいい。裏切られても後悔しない。そう思うから。
だから礼二、お前のことも信じている。




