第二十三章 這い出ずる影
そっと手を重ねる。
掌に出会う、指紋すら等しいもう一つの手。
僕は今、君と出会った。
僕は笑う。君も笑う。
僕は君で、君は僕。
だけど僕はしもべで、君はあるじ。
疲れ果てたこの僕の手を掴んでくれた、僕の愛しき救世主。
離しはしない。絶対に。
例えそれが何であれ。
「……てめぇ。何のつもりだ、直人」
「ありゃりゃ。まだ喋れるの? うーん、急所を外しちゃったかな。なかなかコントロールが難しいんだよね、これ」
直人が腕を引き抜くと、恭介の腹を貫いた槍も抜け落ちる。その衝撃に、恭介の喉からは苦しげな呻き声が伝った。直人はそれを可笑しそうにクスクス笑うと、掌から生える血色の槍を綺麗に舐める。赤色を彩る赤色を、ピンク色の舌が美味しそうにピチャピチャと舐めとる。恭介は脇腹を抑えてそんな直人を睨みつけた。
「ざーんねーん。みんなの力が所詮こんなものだったなんてさ。さすがにディアート四体を相手にするのはきついかと思ったんだけど、あんまりに弱いんだもの。魔物風情に死にそうになっている奴なんて、生きるに値しないよね」
そう言って、直人は笑った。いつものずれた眼鏡を掛けて、クラスに居たころと何一つ変わらぬ邪気のない笑みで、笑った。
何で、そんな風に笑えるの?
訳が、分からなかった。真理は落ち着くように心で唱える。けれど現状はすでに理解の範疇を通り越している。なぜ、直人が自分たちに牙を向くのか。なぜ恭介までも怪我をしているのか。なぜ透は今自分の腕の中で命の蝋燭を散らそうとしているのか。なぜアイオンたちは今や襲い来ることもなく静観しているのか。
そもそも、直人の力は魔物を懐かせるものでは………………っ!!
そこで気づく荷台の中で感じた違和感の正体。
今、直人の胸は光っている。ちょうど心臓に位置する部位。服の下から透けて見える、光輝く紅色の紋章。力を発動しているなら、紋章は輝く。
なら、あのとき。アイオンたちが荷台を囲んだそのとき、心で語りかけたと言ったそのとき、果たして直人の胸は輝いていただろうか。
発動させる、真理のアズイルの力。蒼の紋章が真理の瞳に光輝く。それに気づいたのか、直人はまっすぐ真理の視線を受け止めた。
交わる黒と蒼の視線。真理はその瞳を鍵に直人の心の扉を開く。
心層第一階一室の、表層意識が文字となって書き写される場。普段なら浮き出ては消える幽かな文字が心の言葉を告げるはず。
しかし、直人の部屋は違った。その異常さに真理は心の中で悲鳴を上げそうになる。
幼稚園児の落書きのような歪な文字。黒塗りのクレヨン。それが天井に、床に、壁に、四面余すことなく、染め上げるように黒一色で書きなぐられていた。ぐちゃぐちゃになった文字が空白の部屋を埋める。
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
お願いだから神様たすけてここは何処ここは何僕は知らない何も知らない
こんな場所でああお腹が空いた喉が渇いたたすけてたすけてたすけてよ
何でもいいから口に入れたいみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみず砂って美味しいのかなあ喉が渇いたよぅ
痛い痛い腹が痛いまずいよまずい神様お願いだよお願いだから助けてよ何でこんなところに僕はいるの来週には模試があるし大事な時期で
砂漠砂漠一面の砂漠砂が目に入った時間が惜しい母さんが僕を見ている期待されているんだ目に入った砂が痛いよ
足は棒のようになってやらなきゃ僕はやらなきゃ足は止まり崩れ落ち包み込むベッドは灼熱のように熱いだってほら僕は医者の息子だし倒れたのかなもしかして
このまま死ぬかなもしかしてなのにこんな誰も決めてくれない場所にいきなり放り投げられて
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
「っ!?」
「見た?」
狂った表層意識。壊れた世界。
頭が鈍器で殴られたかのように揺れた。思わず真理は口を手で押さえる。
歪んだ思想は深層意識までをも綯い交ぜにして、その部屋を狂喜へと変えていた。すでに表層意識は表層意識として成り立たず、心も正常に機能していない。
足を止めたくなる衝動に耐え、真理が恐る恐る抜けた扉の向こう側、通常あるべき思い出と記憶で建てられたはずの螺旋階段は崩れ、そこは黒い砂の舞う異様な風景となっていた。崩れおちた螺旋階段の周囲はどこもかしこもあの文字のような黒に覆われ、空ですらその色を失っている。
そしてその黒い砂漠の上で、二人の少年は踊っていた。手を握り、踊り合う。優雅に卑しく美しく。男役も女役もなく。ミスマッチな舞踏会。
近づくにつれてわかるその異常な光景。
その一人の少年――伊勢直人は伊勢直人と踊っていた。
黒い立体。全身を包む黒を除けば姿かたち見分けがつかぬ二人の直人。砂漠の上をそこがまるでダンスホールのように踊り狂う。
そして二人は――カチリカチリ――立ち止まると、ゆっくりと首を回し――キリキリキリ――、同時に――キャハハハッハ――こちらの目を射抜いた。
「危ない!」
その言葉が、真理を現実に返す。
目前に迫った槍は、真理の目の前で弾き返された。真理は反応もできずにただ糸の切れたマリオネットのように佇む。
あれは、誰。目の前にいるのは、誰?
あれは私が知っている、直人じゃない。
攻撃をはじき返された直人は首を傾げて後ろを振り向いた。そこには息を荒げながらも体を起こしたサリアさんの姿。自分の周りには小さいながらも銀色の魔法陣によって作られた結界が張られていた。
「破邪の陣、か。よくもまあ、さっき尽きかけた精神力で出せるものだね。呪祖も唱えずこの威力。サリアさんってすごいんですねぇ」
「どいてください。二人の手当をしないといけないんです」
「だめですよー。それを、僕が認めるとでも」
にっこりと笑ったあと、直人はその仮面を剥がし、今まで見たことがないような、全身に寒気が伝うほどの凄惨たる笑みを浮かべた。
「バルハレアの徒花!!」
叫びに呼応するように直人の体から無数に伸びる鮮血の花々。
腕、足、腹、胸、肩、手。血管のある場所からはどこであろうと食い破り、花は可憐に咲き乱れる。
掌に伸びたその槍の正体を、真理はそこでようやく理解した。
直人の能力。それは、血液。
槍だと思ったそれは、茎が巻きつき強靭な武器となった血であった。
「さあ、食事の時間だ」
「くっ」
血液は花の形を象りサリアさんに迫る。蕾の花は獲物を求めて口を開き、食虫植物のごとくサリアさんを飲み込もうとした。
サリアさんはしかし臆することなくそれに立ち向かう。足を広げ、唇を噛みしめる。
「封ぜよ、魔より出でし呪よ。『聖母の抱擁』!」
手を組んでサリアさんが唱えた歌。魔力を込めた呪祖は、徒花の周りに銀色の檻を作る。サリアさんを飲み込もうとした花々は囚われた檻の中で暴れていた。「へぇ」と驚いたように声を上げる直人に、サリアさんはさらに両手を向ける。
「邪よ退け! 遍く精霊たちの力集いて我が腕に巻く。『光霊の破断』!」
腕に取り巻く光の渦。煌めく幻想的な風景と共に、風は凪いだ。そして渦巻く光の奔流は弓矢のように直人へと飛ぶ。
まさに高速、まさに光速。目に留めることすら敵わぬ光の魔術は直人を射抜いた――はずだった。
光が収まり、場は再び静まり返った。自分の放った魔術の結果にサリアさんは呆然と呟く。
「………嘘でしょ」
「惜しかったね。なかなか強力な一撃だったよ。人間にしては上級の部類に入るんじゃないかな。ただ、やっぱり残念。だって僕は人間じゃない」
直人を中心に描かれた血飛沫。魔術の衝撃に生き残った血色の植物が直人の余裕の理由であった。幾重にも取り巻かれた管が直人を魔術から保護したのだ。確実に致死量の血液を体外から出しても直人に体調の変化はない。これも能力のおかげなのだろうか。
直人が指を鳴らす。檻に囚われた真っ赤な植物たちが光の檻を食い破り、サリアさんにその蔓を絡みつかせた。徒花は腕や肩、足などの局部を食らい、サリアさんを宙に浮かす。苦しげな表情を浮かべるサリアさんに、直人は舌なめずりをした。
「僕は人間じゃないんだ。ディアートなんだよ。君たちが言う、戦禍を生むモノ。人に忌み嫌われ、魔者に尊ばれる特異点。人間ごときが、僕を倒せるわけないじゃない」
鮮血の徒花はサリアさんを咀嚼するためがっぽりと口を開く。思わず目を瞑りたくなるその情景は、しかし暴風により破壊された。
解放されたサリアさんはそのまま地面へと崩れ落ちる。受け身を取る余裕はなかったようだがそれでも命には別状がないようで、食われた箇所を抑えてすぐさま立ち上がり、サリアさんは直人と対峙する。
直人は首だけを動かし、面倒臭そうにその食事の邪魔をした恭介を見た。
「動かないほうがいいよ、恭介くん。いくら急所じゃなかったとしても、大怪我には間違いないんだし。あんまり動くと、その透くんみたいに死んじゃうよ?」
「透はまだ死んじゃいねぇよ」
恭介は視線を落とす。真理はもう恭介にもらったレアアイテム――ヒルビアの雫を透に飲ませていたが、透は眼を瞑ったまま動かない。心臓はまだ動いているが、体は急速に冷えてきている。それは命の灯が薄れていく証拠に他ならず、最悪の、しかし起こりえる近い未来を想像してしまい、真理は思わず鳥肌が立った。
「……理由は何だよ。お前が俺たちを傷つける理由なんて、あんのかよ。悪いが、俺に身に覚えないぜ」
「あはは。別に恭介くんに恨みはないよ。でもさ、理由ねぇ。そんなもの、必要なのかな? 誰かが誰かを傷つける理由なんて、そんなもの僕たちの世界には本当にあったわけ? まあ、でもあえて言うなら、そうだね。あの人のためってところかな」
「あの人?」
「君は知らなくていいことだよ。どうせ、死んじゃうんだし」
「そうかよ。じゃあ、てめぇをぶっ飛ばして聞いてやらぁっ!」
恭介の五指が蒼色に輝く。空気の凝縮によって作り出された超圧縮弾は直人へ轟音と共に向かったが、地面に撒かれた血液が突如浮上したかと思うと、迫りくるそれを直人はすんなりと避けた。構わず恭介は弾丸を練りだし、弾く。しかし、空気中に舞う血の霧からその弾道は見破られ、幾ら弾丸を放とうと、どれもがいともたやすく避けられていく。
「温い。弱い。遅い。馬鹿だな、恭介くん。何で僕が最初に恭介くんを攻撃したのかわかってないでしょ。君が一番厄介だからだよ。真名を知った君の力に制限はないからね。でも、今のその状態で、まともな弾丸なんて作れるわけないでしょ?」
「ああ、そうみてぇだな。けど、俺の役目は終わったみたいだぜ?」
「何を………っ!?」
「ありがとうございます、恭介さん」
直人が恭介へと気を逸らした隙に、サリアさんがすでに膝を折って真理と透の前に辿り着いていた。サリアさんの手から溢れ出す銀色の光が透の傷口を癒す。ただ癒えていくはずの透の顔に血の気はなく、閉じられた瞼は開くことがない。
「…………何をするかと思えば、半死人の手当か。馬鹿だなぁ。そんな暇があったら、僕に攻撃すればよかったのに」
嘲るように鼻を鳴らす直人。それに恭介は歯を噛み締めた。あまりに力強く噛んだせいか、聞こえる歯の欠ける音。
「マジで、お前誰だよ。俺らの知っている直人は、お前みたいな奴じゃなかったぜ」
「何言っているの? 僕は僕だよ。ただ君たちが僕を知らなかっただけのこと。ね、そうだよね、シャディ」
「ソウダナ、ナオト」
直人とまったく同じ音質であるにも関わらず、どこからともなく聞こえてきたその声は、まったく別の誰かだった。
不協和音のように響くその声が、酷く神経に触る。ざわつく、胸。聞いているだけで心の底が引っ掻き回されるような、不快感。
これか。
真理はその姿を見ずともわかった。直人の心を崩した正体。踊る直人のパートナー。あの場に居た直人ではない直人。
その元凶――黒塗りの直人が直人の横に寄り添うようにいつの間にか立っていた。何もない空間からそれこそ影より這い出るように現れた主は、口だけを三日月型に開く。
「マダ残ッテイルジャナイカ。ダメダナ、ナオト。掃除ハチャントヤラナイト」
「ごめんね、シャディ。だってこいつらがあんまりにしつこいもんだから。それこそ台所の汚れなんか目じゃないほどだったんだ」
「ソウカイ、ソウカイ。マア、サホドノ影響ハナイカライイサ。ソロソロアチラニ撒イタ役者モ戻ッテクルコロダロウ。掃除ツイデニ種明カシデモシヨウカネ」
「いいの、シャディ? せっかくの余興だったのに」
「イイノサ、ナオト。コレモ神ト同ジ遊戯ニ過ギナイ。釣ッタ魚ノ数ハ少々少ナカッタヨウダガ、マタ別ノ場所デ釣レバイイダケノコト」
「そっか。うん、そうだよね。シャディの言う通りだ」
同じ背丈でも、同じ姿でも、同じ顔立ちでも、二人の立場は同等ではなかった。寄り添う二人は親子のようで、直人は無邪気そうにそれこそ子供が親に寄せる一図な信頼を影の直人に寄せている。影の直人はそれにニンマリと歪んだ笑みで応えた。
「おいおい、何だよこりゃあ。悪い夢か」
「様子がおかしいと思ったら。あの子、魔物に取り憑かれていたんだ」
サリアさんのその言葉に、影の直人――シャディと呼ばれたそれはため息を吐いたように肩を落とした。
「止メテクレ。魔物ナドト同等ニ私ヲ扱ウノハ。私ハ知恵アル者。魔者ダヨ。魔物ノ一ツ上ヲ行ク。君タチトテ、獣ト同格ニ置カレタクハアルマイ」
「どうでもいいんだよ、そんなことは。とにかく、てめぇのせいなんだな。直人がおかしくなっちまったのは」
「オイオイ、何ヲ言ウンダ。私ハ彼ヲ助ケタダケダゾ。餓エテ死ニソウダッタトコロヲナ。ソウダロ、ナオト」
「そうだよ、シャディ。君が僕を助けてくれた。君が僕の救世主なんだ」
「ソウダナ、ナオト。ダカラ君ハ、君ノ優シサデ私ノ手伝イヲシテクレル。ソウダロウ?」
「もちろんだよ、シャディ。だって君は僕を助けてくれた。君は僕の命の恩人なんだ」
「たいした洗脳だな、おい」
恭介の五指が輝くが、腹の痛みに集中力が途切れたのか、呻き声とともに光はかき消えた。
フム、とシャディは頷き、場をゆっくりと見渡す。
傷ついた恭介。瀕死の透。一心不乱に透へと力を注ぐサリアさん。何もできない私。そしてそれを取り囲むアイオンたち。
シャディはふと顔を逸らした。そこに自然と真理も目を向けると、茂みが動き、人に戻った裕二と後に続いてルディルさんが割って入ってくる。さらにその後を追うアイオンが列となってやってきた。
ルディルさんのコートを被る裕二はシャディを見ると指を指して「あああああああああ」と大声を上げる。その顔には驚きと、一瞬転じて怒り。ルディルさんきつい眼差しでその魔物を射抜く。アイオンたちはそのまますでに居たアイオンたちと合流するかのように円になった。
シャディは満足気に頷くと、もう一度周囲を見回した。まるでそれは観客の反応を窺う道化のようで。
「サテ、役者ハソロッタヨウダネ。デハ、君タチノ疑問ニ答エヨウジャナイカ。知ラナイトイウコトハ、死罪ニ等シイ罪ナノダカラ」




