第九章 紅の刃
空を見上げた俺たちは、群青色の夜空に浮かぶ蒼と紅の月を知る。
地球にはない二つの月を呆然と見つめながら、今地に立つこの場所が、異世界だと理解した。
理解すると同時に注ぎ込まれる情報。否、それは世界。せかい。セカイ。
紅の世界。紅の神。
自分が壊され、再構築される。
新たな産声を上げ、そして俺は、紅い刃を手に入れた。
「あー、こちら裕二。応答願います、どうぞ」
「はい、こちら透。ふざけてないで、目の前の目標を何とかすべきではないかと思います、どうぞ」
「ふざけないと、やってられない状況で、あります、どうぞ」
「うわあっ。棍棒が!」
「ちょ、ナイフ、ナイフ! 銃刀法違反じゃねぇか! おい、神谷! 早く何とかしろよ!」
「何とかって………何?」
「……わかんねぇ」
そこは薄暗い洞窟の中。暗闇の中光るのは、無数の緑色の瞳。湿っぽい空気と入り込むひんやりと冷たい風を受けて、二人は冷や汗を流していた。背中合わせに佇む二人を囲むのは、おぞましいほどのゴブリンの群れ。定番のRPGにも出てくる小鬼は、子供ほどの背丈に大きな頭、長い耳、分不相応な細く長いハリガネのような手足を持ち、それぞれ武器を携えている。
ゴブリンはゲームと同じくここでも低級に属する魔物ではあるが、正直ここまで多いと洒落にならなかった。
「サリアさんとルディルさんは?」
「しばらく来ないだろ。ものの見事にトラップに嵌っていたし」
「じゃあ、二人が来るまで時間を稼げばいいわけだ」
「稼げればな」
唇を噛み締めた神谷透は、よし、と力強く頷いた。
「イシュティナを使おう。裕二も頼む」
「げっ。マジで? お前は、いいけど。俺のイシュティナは使いたくないんだけど。それに、賭けじゃねぇ? 持つかどうか」
「仕方ないだろ。やらないと、どっちにしろ死ぬんだ」
「………ああ。何でこんな殺伐とした世界に」
「嘆いても、仕方がない!」
牽制とばかりに振り下ろしてきたゴブリンの棍棒を再び避けて、透はイメージした。難しいことではない。手の平の上に想像する。三角形の刃。投げるようにさほど大きくなく、しかし密度を込める。
「はあああっ!」
そのまま透が腕を薙ぐと、創造された紅の刃が超速で飛んでいく。棍棒でその刃を受け止めようとしたゴブリンを、武器ごと真っ二つにした。
燃え上がる亡骸。しかし、刃をそこで留まることなく、その一直線上にいる敵を全て両断する。
「よし、ナイス!」
喜びに透の背中をバシバシと叩く赤松裕二。しかし、現実は甘くない。今まで取り囲んで獲物を甚振ろうと考えていたゴブリンたちは、その予想外の反撃に怯むどころか怒りの熱を上げた。数で勝るゴブリンは、この程度では臆さない。一気に距離を詰めてきたゴブリンたちに二人は慌てふためいた。
「次、早く次! 紅月を投げろ、神谷!」
「そう簡単に作れないよ! イメージが難しいんだから! ていうか、早く裕二もイシュティナを使え!」
「ああ、もう! 仕方がねぇな!」
裕二は目を閉じて体全身の血の巡りを入れ替える。しかしそこに出来る隙を見逃す魔物はいない。大きな出刃包丁を裕二に振り下ろしたゴブリン。それが裕二の額に届くか否かというときに、透は何とかイメージできた小太刀ほどの長さの紅い剣で、ゴブリンの腕を両断した。
豆腐に包丁を通すよりも簡単に全てを斬ることの出来る剣。
超高熱の刃が透の『イシュティナ』であったが、ゴブリンの腕から噴水のように飛び出る緑色の血液を前に、透から一瞬の隙が生まれる。投刃では感じられない、自らが斬った感触が透の手に残っていた。
「………っ!」
その決定的な隙に、透は背中を殴られた。刃物じゃなくてよかったな、とそれでも意識のどこかで考える。だが、肺に入った空気が全てかき出され、倒れこみながら透は咳き込んでしまった。
その倒れこんだ透のさらなる隙を突いて三体ほどのゴブリンが前に出る。それぞれが持った刃物が凶悪にぎらつき、悲鳴が透の喉から出そうになったが、それも通り過ぎる何かと共に一瞬で掻き消える。悲鳴は安堵の吐息へと変わった。
「ふふん。ヒーローの変身は待つもんだぜ」
「ヒーローかなあ?」
どちらかというと怪人を思い浮かべてしまう透は笑った。それも今の裕二を見れば納得だろう。
裕二は巨大な狼の姿へとその姿を変えていた。
紅い瞳に裂けた口。覗く牙は獲物を待ち、爪は肉を引き裂く瞬間を今か今かと待っているかのよう。真っ白な毛が生えたその身体はこの洞窟の中だと些か窮屈そうだった。
「反撃」
「開始」
背中を押さえてゆらりと立ち上がる透。立っていることも危うい、ふらつく状態であったが、ここを裕二ばかりに任せてはいられない。爪を振るいゴブリンたちを一気に狩って行く裕二は一見無敵そうにも見えるが、その巨大な体躯により、防御が全身に回れないのだ。四足の足を中心に刺されていく裕二のダメージは少ないものではない。
透も遠距離から紅刃を投げて何とか敵を減らしていくも、如何せん相手が多すぎた。次第に紅月の力が弱まっていく。
投げた刃がゴブリンの武器で弾き返されたとき、透は乱れた息のままに膝をついた。背中ばかりではなく、腕や足も切られ、満身創痍の状態だ。致命傷がないのが奇跡的であろう。
「俺も、限界」
裕二は裕二で白い毛並みが赤く染まった身体をふらつかせている。徐々に小さくなる身体は、人間のものに戻っていった。
対して敵は数を随分と減らしたものの、まだ三分の一ほど残っている。ゴブリンたちに罠がないかを測られながら慎重に距離を詰められていくのがわかった。
「これってさ、もしやピンチ?」
「初めからね」
紅月を作ろうとするがもうエネルギー切れなのか、霞んだ刃しか作れない。裕二も立ち上がろうとするが、その身体はどこもかしこも傷だらけだ。
しかし、徐々に包囲網を狭めて来るゴブリンを前にしても、透に恐怖はなかった。
現実感がないのだ。まるで夢を見ているかのような自分。ついこの間まで受験勉強を必死にしていて、志望校がどうだ、成績がどうだと言っていたのに。悩みなんてありきたりなことぐらいで、進路がどうだとか、そんなことを悩んで、もうやばい死ぬなんて笑っていたのに。
それなのにどうして、洞窟でゴブリンに殺されるなんて可笑しな現状を納得できるだろうか。
それなのにどうして、本当の『死』についての悩みを考えることができるだろうか。
でも、嫌だな。ああ、死にたくはない。まだ、やり残したことがあるし。
杏奈は、どうしているんだろう。大丈夫かな。元気でやっているかな。
振り下ろされる刃を呆然と見つめ、透は思った。
最愛の恋人を。
「『踊る緋蛇』」
叫んだ声が透たちとゴブリンを挟んだ反対側から聞こえてきた。不意をつかれたゴブリンたちが後ろを振り返ると同時に、橙色の炎が蛇となってその獲物を飲み込む。飲み込まれたゴブリンたちは、灰となって崩れていった。透の目の前にいたゴブリンの姿もいまや見えない。ただカラン、と刃物だけが落ちた。
「ごめんごめん、待った?」
「………ルディルさん」
「助かったぁ」
その燃える炎と同じ橙色の長髪と琥珀の瞳を持つルディルさんはけたけたと笑いながら劇的な登場を遂げてくれた。
ただそのボロボロになったローブから露になる白い肩とか足とか、笑顔の裏に見える怒りのマークとかが、散々被ったトラップへの苦労とストレスを如実に現していたりする。
「あははっはは。しね〜い」
ニコニコ笑顔のまま杖をブンブン可愛く振り回し、炎の蛇は残虐に獲物を喰らっていく。そのギャップと阿鼻叫喚の図に、透と裕二は震えた。
「大丈夫ですか?」
そう言って声を掛けてくれたのはサリアさん。いつの間に透たちの側にいたのか、そのきつそうな顔立ちとは裏腹に心配そうな眼差しで二人の傷を見ている。
肩まで届くさらさらの銀色の髪と少し吊り上がった氷のような瞳。冷たいその美貌は、しかし裕二へと視線を向けると、驚くほどに真っ赤に染まった。
「う、うわ。わわわ、あ、あの、裕二さん!?」
「え? あ、ああ! ちょ、ごめん! 違う、これ違うの!」
巨大な狼へと変化したために破け散った裕二の服は、四方にボロキレと化している。簡単に言えば今の裕二はマッパであった。
「だから嫌だって言ったんだよ!」
うわああああああ、と裕二は叫び声を上げ、サリアさんは真っ赤になって視線を落としながらそれでも二人に治療魔術を施し、ルディルさんは、えいえい、と可愛い掛け声と共に残りの敵を甚振り殺している。
「良かった」
ほっと息を吐きながら、何だか見慣れてしまったこの光景に、やはり現実というものが遠ざかっていくのを感じる透であった。




