第三章 第二話
アンリが絶望に沈む中、エレオノールの視線は次の対象を捉えていた。
宰相の子息、ルイ・ド・リシュリュー。彼は床に視線を落としたまま、明らかな緊張を漂わせている。女性と目を合わせられない性質は、宮廷でよく知られた事実だった。しかし今、その欠点は致命的なものとなるだろう。
宰相本人は、既に最悪の事態を想定していた。端から、諸外国の使節たちが静かに状況を観察している。その中で、自分の息子が、一国の政治を揺るがしかねない愚行に加担したのだ。
「ルイ様」
エレオノールの声が、静かに響く。
「宰相のご子息として、一つお伺いしたいことがございます」
ルイは顔を上げることもできない。かえってそれが、政務を担うべき立場の者の弱さを際立たせていた。
宰相は、息子に向けて制止の合図を送ろうとしたが、既に手遅れだった。
「政を担う者にとって、最も重要なものは何でしょうか」
その問いに、重臣たちが身を乗り出す。宰相の跡継ぎとして、この青年がどのような答えを出すのか。
「そ、それは……」
ルイの声が震える。女性に向き合えない弱点が、今、彼の全てを曝け出していく。
「国家の安定、でしょうか」
「その通りです」
エレオノールの声が、冷静に響く。
「では、このような場での軽率な行動が、国家の安定にどのような影響を及ぼすとお考えですか」
「も、もちろん、それは……」
ルイの言葉が途切れる。
宰相の息子でありながら、政務の手伝いをしていながら、目の前の事態の重大さを見抜けなかった自分。その認識が、今になって痛みとなって押し寄せる。
「あなた様は、お父上の政務をお手伝いされていると伺っております」
エレオノールの指摘は、的確に急所を突く。
「王太子の婚約者に対する処遇は、単なる私的な事柄ではありません。それは即ち、貴族社会の秩序、ひいては国家の根幹に関わる問題」
重臣たちの視線が、一斉にルイへと注がれる。そこには明らかな失望の色が浮かんでいた。宰相家の跡継ぎとして、これほど基本的な判断を誤るとは。
「政とは、一つの判断が幾重もの波紋を呼ぶもの」
「今この瞬間にも、諸外国の使節たちは何を考えていらっしゃるでしょう」
エレオノールの言葉に、ルイは思わず顔を上げかけた。しかし、すぐに視線を床に落とす。女性恐怖症の症状が、最悪のタイミングで彼の政治家としての資質を曝け出していく。
「宰相の跡継ぎである方が、このような場で」
重臣たちの間で、小さなささやきが広がる。宰相家は代々、国家の大事を担ってきた。その重責は、時として王族をも導く立場となる。そんな名門の後継者が、感情的な判断に同調するなど。
「王太子殿下に加担するどころか」
エレオノールは静かに続ける。
「むしろ先導するかのような発言をなさった。これは、宰相家の威信に関わる問題ではないでしょうか」
ルイの顔が蒼白になっていく。父から教わった政の要諦。その全てに反する行動を、自分は——。
宰相は、静かに目を閉じる。息子の不甲斐なさに失望しているのではない。自らの教育の至らなさを、痛感していた。
ルイは、かすかな望みを託して父を見上げる。しかし、宰相の表情には深い苦悩が刻まれているだけだった。
「これまで宰相様は、国と民のために尽力してこられました」
エレオノールの声が、会場を満たす。
「その重責を継ぐべき方が、一時の感情で判断を誤る。これは、宰相家だけの問題ではありません」
重臣たちの視線に、明確な危機感が宿る。国家の中枢を担うべき者の判断が、これほどまでに揺らぐとは。
「お父上の築き上げられた信頼を、あなた様は今、どのようにお考えなのでしょうか」
その問いかけに、ルイの中で何かが崩れ始める。
政務のお手伝い。その言葉の意味を、今になって痛感する。父の仕事は、一つの判断が幾重もの波紋を呼ぶ。その重みを知っているはずだった。知っていたはずなのに——。
ルイの視線が、震えながら上がる。しかし、エレオノールの姿を直視することはできない。その弱さこそが、宰相家の跡継ぎとしての致命的な欠陥だと、今、誰もが理解していた。
「父上……」
その声には、もはや後悔しか込められていない。宰相は黙したまま、ただ重く目を閉じている。その場にいる誰もが、息子より父の沈黙の方が雄弁だと感じていた。
会場の片隅では、諸外国の使節たちが静かに状況を見守っている。彼らの視線の意味するところを、宰相は痛いほど理解していた。




