第三章 第一話
王太子の婚約破棄宣言が響いた瞬間、伯爵家の当主は目を閉じた。息子の愚行を止めることもできず、ただ見守るしかない。王太子の発言中に割って入ることは、それ自体が騎士道の大きな違反となるからだ。
「アンリ様」
エレオノールは、まず王太子の護衛騎士に向き直った。
「伯爵家の騎士として、あなた様が何を背負っているのか、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
その声に、アンリは思わず父の方へと視線を向けた。しかし、伯爵の厳しい眼差しに耐えられず、すぐに目を逸らす。
「騎士道と名誉。それは、モンモランシー家が代々受け継いできた誇りです。特に、お父上は現在の騎士団の礎を築かれた方」
アンリの顔が蒼白になる。年配の貴族たちが、重々しく頷くのが見えた。
「あなた様は、この場で二つの過ちを犯されました」
エレオノールの言葉に、会場が静まり返る。
「一つは『一騎士一主君』の誓いを反故にしようとしたこと」
アンリの体が強張る。
「先ほど、シャルロット様への忠誠を誓われました。しかし、それは即ち、男爵家の騎士になるということ。伯爵家の騎士が、身分の低い家に仕えるなど、前代未聞です」
年長の騎士たちの間で、低いささやきが広がった。かつて騎士団の分裂を招いた『二重の忠誠』。その轍を、再び踏もうとしているのか。
「そして、もう一つの過ち」
エレオノールの視線が、アンリを射抜く。
「護衛騎士の責務を放棄したこと」
「私は、殿下の安全を——」
「安全、とおっしゃいますか」
エレオノールの言葉に、アンリの声が途切れる。
「護衛騎士の務めは、主君の身の安全だけではありません。その名誉と、立場もまた、守るべきもの」
年長の騎士たちが、厳しい目でアンリを見つめる。
「このような場での独断専行を止められなかった。いいえ、むしろ同調した。これは、騎士としての最大の失態ではないでしょうか」
伯爵の表情が、一層重くなる。かつて自らが定めた騎士団の規律。その根幹を、我が子が覆そうとしているのだ。
「この一件は、騎士団全体の問題となります」
エレオノールの言葉に、アンリの思考が止まる。これまでの自分の発言が、騎士団という大きな存在を傷つけることになる——。後悔の念が、徐々に心を蝕み始めた。
「伯爵家の後継者が、主君への忠誠を曲げ、騎士道の誓いを軽んじた。その事実は、騎士団の根幹を揺るがすもの」
後悔は瞬く間に深まっていく。シャルロットを守りたいという感情だけで動いた自分。騎士としての判断ではなく、単なる若者の血の気にすぎなかったのではないか。父から教わった騎士道の本質を、自分は理解していなかったのではないか。
アンリは、すがるような視線を父に向けた。幼い頃から、困ったときはいつも父が助けてくれた。しかし今、伯爵は息子の視線を真っ直ぐに受け止めたまま、一言も発しない。騎士団の重鎮として、伯爵家の当主として、ただ厳しい表情で座っているしかなかった。
その沈黙が、アンリを完全な絶望へと突き落とす。騎士としての誇り、伯爵家の威信、父の築き上げてきたもの——。自分は取り返しのつかない過ちを犯したのだ。その認識が、冷たい闇となって心を覆い尽くしていった。




