第二章
会場に満ちる重苦しい空気の中、シャルロット・ド・ラ・モットは、涙に濡れた瞳で前を見据えていた。
「私からも、すべてをお話しさせていただきます」
震える声には、これまで抑えてきた感情が溢れている。しかし、その仕草には何か作られたような不自然さがあった。エレオノールはそれを見逃さない。シャルロットの言葉一つ一つに、真摯に耳を傾けながらも、その背後にある意図を慎重に探っていく。
「エレオノール様による虐めは、去年の秋から始まりました」
シャルロットは目を伏せ、言葉を続ける。
「最初は些細なことでした。廊下で擦れ違う時、わざと肩が当たるのです。でも、それはまだ序章に過ぎませんでした」
エレオノールの記憶の中で、その時期の出来事が鮮明に蘇る。確かに二人は何度か廊下で擦れ違った。しかし、それは決して意図的なものではなかった。むしろ、シャルロットの方が慌ただしく歩いていて、周囲に気を配っていない様子だった。
「次第にエスカレートしていって……」
シャルロットの声が途切れる。「魔術の実習で、私の杖が突然折れてしまったんです」
その言葉に、宮廷魔術師長が僅かに眉を寄せた。魔術師の杖は、簡単には折れない。もし本当に折れたのであれば、相当強力な魔力が必要だったはずだ。
「しかし、シャルロット様」
宮廷魔術師長が口を開きかけた時、ジャン=マリーが素早く割って入る。
「私が、その時の痕跡魔力を確認いたしました。間違いなく、エレオノール様の魔力波長と一致していました」
その発言に、エレオノールは内心で小さく息をつく。痕跡魔力の判別など、現代の魔術でも極めて困難なはずだ。まして学生の身分で、それを正確に判別できるとは考えにくい。
宮廷魔術師長も同じことを考えていたのか、ジャン=マリーを鋭い眼差しで見つめている。しかし、今は黙って事の成り行きを見守るべきと判断したのか、それ以上の発言は控えた。
「それだけではありません」
シャルロットは、声を震わせながら続ける。
「図書館での出来事も……私が一人で勉強していた時、突然重たい本が頭上から降ってきたんです」
シャルロットの言葉に、会場のあちこちでささやきが広がる。
「幸い、かすり傷で済みましたが、上の階から覗き込むエレオノール様の姿が見えました。それなのに、すぐに立ち去ってしまって……」
エレオノールは、その日のことを鮮明に覚えていた。確かに図書館の二階にいたが、それはシャルロットが背伸びをして高い棚の本を取ろうとしているのを見かけ、危なっかしく思ったからだ。
「シャルロット様」
司書長が静かに声を上げる。
「図書館の事故記録には、そのような出来事は……」
「黙っていてください」
アンリが剣に手をかけながら司書長を睨みつける。その威圧的な態度に、司書長は言葉を飲み込んだ。
「私からも証言させていただきます」アンリは胸を張る。「シャルロット様は、あまりの恐怖に誰にも打ち明けられなかったのです。しかし私は、シャルロット様の傷を実際に見ました」
エレオノールは、アンリの言葉に違和感を覚える。彼は本来、女性に対して極めて慎重な態度を取る人物だった。それが、傷の確認などするだろうか。
「そうですね」
ルイが女性陣から目を背けながら続ける。
「私も、シャルロット様が怯えている様子を何度も目にしました」
女性恐怖症のルイが、シャルロットの様子を詳しく観察していたというのも不自然だった。
「そして決定的だったのは、先月の出来事です」
シャルロットの声が、さらに震え始める。
「私の大切な手帳が消えてしまったんです。王太子様からいただいた、特別な手帳が...」
フィリップが、その言葉に反応する。
「余が贈った手帳のことか」フィリップは苛立たしげに言う。「それがどうした」
エレオノールの胸に、小さな痛みが走る。婚約者であるフィリップが、他の女性に贈り物をしていたとは。しかし、そんな感情を表に出すことは決してない。
「手帳には、王太子様との思い出が……」
シャルロットは顔を赤らめる。
「でも、数日後に見つかった時には、ページがびしょ濡れで……大切な記録が全部読めなくなっていました」
「本当に残念なことです」
エレオノールは静かに言葉を紡ぐ。
「シャルロット、あなたにそのような辛い思いをさせてしまっていたとは」
その言葉に、シャルロットは一瞬たじろぐ。エレオノールの態度には、少しの動揺も見られない。むしろ、年下の者を気遣う優しさだけが滲んでいた。
「まだあります」
シャルロットは唇を噛む。
「私への嫌がらせは、他の学生たちを使って行われることもありました」
その言葉に、会場の空気が変わる。
「エレオノール様の言葉一つで、誰も私と話してくれなくなるんです。そして次の日には、また普通に話しかけてくる。まるで、操り人形のように……」
「申し訳ありませんが」
エレオノールは、深い慈しみの色を瞳に湛えながら、静かに口を開く。
「その点については、少し補足させていただいてもよろしいでしょうか」
その声には、年下の者を気遣う温かさが込められていた。シャルロットは、その予想外の反応に戸惑いを隠せない。
「私の記憶が正しければ、シャルロットが他の学生と距離を置くようになったのは、確か……王太子殿下との親密な関係を、自ら周囲に告げ始めてからではなかったかと」
その言葉に、宰相が目を見開く。フィリップ自身も、わずかに体を強張らせた。
「シャルロットが教室で、王太子殿下との個人的な思い出を語る度に、周囲の学生たちは困惑の表情を浮かべていました。なぜなら、その場には私という婚約者がいたからです」
エレオノールは、決して非難めいた口調を使わない。それでも、その言葉の持つ重みは、確実に周囲に伝わっていく。
「しかし、私はそれを咎めませんでした。シャルロットはまだ成人前。大人の事情を理解するには若すぎるのかもしれないと思ったからです」
「そ、それは……」シャルロットの声が上ずる。
「むしろ、周囲の学生たちの冷たい態度に心を痛め、何度か個別に話をさせていただきました。シャルロットの純真な性格を理解してほしいと」
宮廷魔術師長が、静かに頷く。彼の記憶の中にも、エレオノールが下級生たちに優しく語りかける姿があった。
「エレオノール様の言葉は、巧妙な言い逃れに過ぎません」
ジャン=マリーが、ようやく教本から顔を上げる。
「シャルロット様への嫌がらせは、もっと陰湿な形でも行われていました。例えば、魔術の実習で……」
「ジャン=マリー様」
エレオノールは、柔らかな微笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。
「実習中の出来事について、もう少し詳しくお話しいただけますでしょうか。特に、シャルロットの杖が折れた日のことを」
「そ、それは……」
ジャン=マリーの声が僅かに揺らぐ。
「私が痕跡魔力を確認したと申し上げただけです」
「まさに優秀な魔術師らしいご対応ですね」
エレオノールは穏やかに続ける。
「ですが、痕跡魔力の判別は、現代魔術でも最も困難な技術の一つかと認識しております。まして、杖に残された痕跡となれば……」
「黙りなさい」
フィリップが声を荒げる。しかし、その様子に宮廷魔術師長が厳しい視線を向ける。
「いいえ、殿下」
宮廷魔術師長が静かに言葉を紡ぐ。
「エレオノール様のご指摘は、魔術学の見地から見て極めて正当です。痕跡魔力の判別は、筆頭宮廷魔術師ですら慎重を期す難題です」
ジャン=マリーの表情が強張る。
「シャルロット」
エレオノールは、優しく男爵令嬢に語りかける。
「あなたの杖が折れてしまったのは、本当に辛い出来事だったことでしょう。ですが、覚えていらっしゃいますか?その日の実習課題は」
シャルロットの瞳が揺れる。
「確か、基礎魔術『強化』の演習でした。杖に魔力を込めて、その強度を高める練習を」
エレオノールの言葉に、宮廷魔術師長が大きく目を見開く。
「しかも、シャルロットは魔力の制御に苦心していましたね。私も心配で、そっと見守っていた矢先の出来事でした」
「違います!」
シャルロットの声が裏返る。
「エレオノール様が……エレオノール様の仕業に決まっています!」
「シャルロット様」
アンリが慌てて制する。
「お気持ちは分かりますが…」
しかし、シャルロットは我を失ったように叫び続ける。
「私は知っています!エレオノール様が、いつも私を見下すような目で……完璧な振る舞いで、みんなの心を惑わすような……」
「シャルロット」
エレオノールの声は、深い慈愛に満ちていた。
「あなたは、本当は分かっているはずです。杖が折れたのは、あなた自身の魔力制御の失敗だということを」
その言葉に、シャルロットの表情が凍り付く。
「私は、その時もあなたを責めませんでした。むしろ、魔術の基礎について、匿名でアドバイスの手紙を届けたはずです。『魔力制御の要諦』という題の……」
「あ……あの手紙は、エレオノール様が?」
シャルロットの声が震える。
周囲で、新たなささやきが広がり始めた。
「私の至らぬ点をお許しください」
エレオノールは深々と頭を下げる。
「もっと直接的な助言をすべきでした。あなたのプライドを慮るあまり、このような形を取ってしまい……」
その完璧な礼儀正しさと、心からの謝罪に、誰もが息を呑む。
フィリップの表情が、徐々に蒼白になっていく。




