24 穢れ
僕が何故か見える人の感情の波…ゆらゆらと揺れる陽炎のようなものとは違い、それは蠢いていた。
靄は始めは小さかったのが段々と、綿飴が周りの飴を巻き取って増えていくように蠢くたびに大きくなっていく。そして凝縮し、最終的には人型をかたどった。
「ちょ、ちょっと!」
僕は今眼鏡をかけているんだから、陽炎みたいなものや人の感情の波は見えないはずなのに、これは何?でも、これと似たような物を僕は見たことがあるような…。
「あっ!そういえば…」
病院だ!記憶を失って目覚めた病室。規模は小さかったけど、これと同じようなものを見た。あの時は一瞬だったから見間違いかと思っていたけど、視覚的にも、鳥肌が立つ感覚的にも同じような気がする。
「もしかすると、危険?」
眼と耳があるように見えない黒の靄がこちらにゆっくりと歩いてくることに、気持ち悪さから鳥肌が立つ。得体の知れないものへの恐怖も湧き上がる。
悲鳴や物音を立てずに移動できたのは、通り魔との恐怖体験をしたお陰だろう。こんなことで通り魔に感謝することになるなんて嫌だなぁ。
靄と接触しないようにさけ視聴覚室の隅に移動したというのに、靄まで向きを変えてきた。
やっぱり僕が何処にいるのか分かるんだ。あの靄は僕を狙っている!?
閉じ込められているから逃げられる場所は限られていて、捕まるのは時間の問題かもしれない。
もし捕まったらどうなるんだろう。
刺激しないようにゆっくりと移動し、近くにあった誰かの忘れ物の教科書を靄に向かって投げつけてみた。これはこれで刺激になるかもしれないけど、相手は人型を取っているけれど靄の固まりだ。物が当たって霧散することを願って手当たり次第、それこそ机や椅子を投げつけるつもりだったのだが、
「っ!」
教科書は靄を通り過ぎ壁に当たって床に落ちる。考えたら相手は気体のような靄の集合体だから当たり前と言えば当たり前な結果だと言える。
ただの煙のようなものだったら、外からの力によって霧散するのだろうけど、粘着質を兼ねているのだろうか、靄の形は変わらなかった。
これは物質の攻撃が効かないということだよね。
人間も物質なんだけど、もしあれに捕まったらどうなるのだろう?なんともなければいいのだけど、憑依されるとか…?それは嫌だ!まずアレに触れられることを想像するだけで鳥肌が立つ!
「兎に角、逃げないと―――」
鍵がかかって開かない扉へ飛びついたけど、やっぱりビクともしない。それならば、と思いっきり扉を叩いた。
「誰かっ!誰かいませんか!閉じ込められているんです。開けてください!!」
何度も声を張り上げ、手も痛くなるほど扉を叩いたが、外からの応答は一向にない。
「くそっ!!」
いくら視聴覚教室が特別棟にあるとはいえ、誰も僕の声を聞いてくれる人はいないのっ!?
アレの動きはそれ程早くない。扉が開いて逃げ道さえ確保すれば逃げ切れる。誰かが僕に気づいて扉を開けてくれるまで、地道に避けるしかないのだけど、―――それはいったい何時まで?僕の体力と精神力がそれまで持つかどうか…
じりじりと迫り来るアレを視界に入れるだけで、おぞましい物が精神を侵食しているかのよう。
『穢れ』―――そう、その言葉がぴったりとあう。
黒い蠢く穢れが近づき、僕は仕方なく扉から離れ窓に向かって逃げる。
そうだ!窓は開かないのか?
窓に飛びついたが、はめ込み式になっているために開くものでない。空調管理で、窓の上に小さな窓が開くみたいだが、あんなところまで上る時間もないし、小さすぎて逃げることも出来ない。
もし、外に出ることが出来たとしても、ここは3階……
「これってっ、絶体絶命ってこのこと!?」
穢れの様子を伺い、距離があるのを確認した後、一か八かで窓に向かって椅子を投げつけた。しかしガンッ!という鈍い音が広い教室を響かせただけで、防音設備の窓は頑丈で少し傷が出来ただけだった。
穢れに捕まるのなら3階から飛び降りて怪我をしたほうがマシと考えての行動だったが、虚しく終わる。
それでも諦めず逃げ惑い、扉の近くにたどり着いたら大声を出し、窓にたどり着いたら椅子を投げて同じ場所にぶつけるの動作を繰り返した。
その間、気の休めるときはない。
「なんで、僕がこんな目にあわなきゃならなんだよ!第一、こんな禍々しい穢れが他の人は見えないの?」
こんなのが学校で目撃されたらあっという間に噂は広まるはずなのに、僕は聞いたこともない。もちろん学校の外で目撃されたという話しもだ。
こんなのが今日初めてこの世に出たなんて…ありえるのかな?
存在感が十分にある穢れ、なんの対処もなくここにいるということは、皆が見えていないという証明だ。見えていたら、大騒ぎになっているだろう。
変なものが見えるのは僕だけだって薄々感じてたけど、本当に皆には見えていないんだ。
感情の波が見える?って他の人たちに聞いてみたかったんだけど、記憶がないってだけでも特殊なんだから、余計なことは言わないようにしていた。頭の打ち所が悪かったのか?と心配させるのは嫌だったから。でも雅也だけにでも言っとけば良かったかな?例え雅也に「変な陽炎のような影が見える」と言ってあったにしても、この状況は変わらなかっただろうけどね。
「ああ、もう!!」
何も変わらない状態に気力が根こそぎ奪われそうだ。
「そろそろやばいな…」
気力だけでなく教室中を走り回り、椅子を投げつける。その行動により体力も限界に近くなってきている。
それに、こころなしか穢れのスピードが速くなってきているような…
駆け回り、椅子を投げるなどによって体力がそがれ、集中しないと自分の行動が遅くなるといのに、つまらない考え事をしたために、投げつけて散乱している椅子に足を取られてしまった。
「あ…っ!」
椅子を巻き込んでの転倒。それは致命的だった。強かに打ち付けた膝は瞬時に反応してくれず、穢れが追いついてしまう羽目となる。
「く、来るな!!」
意味はないのは分かっているものの、一緒に転んだ椅子を穢れに向かって投げつける。すると、椅子は旨い具合に何度も打ち付けた窓に当たり、ガラスに大きなひびを入れた。
火事場の馬鹿力―――!?
僕でも窮地に陥れば凄い力が出るんだ。なんて、考えている暇はない!
もう一度、窓に向かって椅子を投げる。
ガシャン!本来なら不安を煽るガラスが割れる破壊音が、今の僕には希望と解放の涼やかな鐘の音に変換された。
とうとう分厚い窓ガラスがキラキラと輝きながら落ちていく。
やった!これで外に出られる。と喜んだのもつかの間、穢れが手を伸ばして僕を掴もうとしていた。
「っく!」
体をひねりそれを交わしたが、窓に近寄ることが出来ない。仕方ない、同じ空間にいるだけでも怖気たつのを我慢して、一回りするしかないか。
ある程度離れた頃合いを見て、割れた窓に向かい、ガラスを取り払って穴を大きくする。これが結構重労働で、分厚い窓ガラスはなかなか取れないし、ひびが入っていても割れてくれない。
鉄の棒でもあれば楽だったのだが…
もう少しで外に出られるという安心感から、窓ガラスのことに集中しすぎていた。
穢れが真後ろに来ているのに気が付かず―――生暖かい何かに包まれた感じで、僕はようやく穢れの存在に気づく。が、時既に遅し。穢れは僕を取り込もうと覆いかぶさっていた。
「うそっ!!」
こんなに頑張ったのに捕まってしまうとは!
生暖かい黒い靄が光を奪っていく―――触れられたところからゾワゾワとした拒否反応を起こすが、穢れは僕の意思に関係なく皮膚の下から侵食しようとする。
『……嫌…い』
『…憎い』
『恨めしい!』
触れた部分から、穢れが溜め込んでいた人々の負の感情が流れ込む。始めは何とか感じ取れるような心もとない感情の波が、触れる面積が大きくなるのつれ、声も波も大きくなる。
『あの子はなんなのよ!本当にムカつく』
『俺ばかり目をつけてあのセンコウ、早くいなくなればいいのに!』
『あいつさえいなければ、僕が一位だったのに』
『彼は私のものよ。誰にも譲れない。触らせないわ!!』
『僕のことを馬鹿にした奴らなんか、全員消えてしまえっ!!!』
『私の気持ちなんて誰も分かってくれない。頑張ったところで同じなんだわ!』
頭を抱えたくなるほどの大音響へと変わっていく。やめてっ!と叫びたいが、口を開けばそこからも進入してきそうで叫べない。
『いらない』
『下衆どもだ!!』
『憎い』
『恨めしい!』
『憎い、憎い!憎い!!』
言葉数が少なくなり、憎悪や憎しみ妬み、苦しみという負の感情だけが押し寄せてくる。とてつもなく膨らんだ負の感情に僕の精神が侵される!
凝縮した手に負えない汚れた塊を受け入れてしまえば、確実に自分の精神は破壊されてしまうだろう。
「…いや」
……お願いだから、やめて…!
多感な年代の彼らの気持ちも分からなくもないが、負だけを取り込んだ穢れは彼らの純粋な気持ちすら捻じ曲げている。
「嫌だ、…いや」
駄目だ…受け入れられない!気持ち悪い!
穢れに押しつぶされようとする直前に、勝手な押し付けに怒りにも似た何かが僕の中でプツンと切れた。
「っ!!!こんな負ばかりの感情は、嫌だっ!!!」
穢れに対しての反発と押し付ける感情の波を押しのけたい。それだけだったのだが身体の奥底から沸き上がるものに従い大声を出して穢れを拒否する。すると感情が爆発したのと同時に爽快感に近いものが、一瞬の間に体中を巡って外へと放出された。…気がする。
「……っ…はぁ、はぁ」
思いっきり抵抗したためか、何かが解き放たれたためか一気に疲れが襲ってきて、その場で荒い息をつきながらへたり込んでしまった。
息を整えた後に、周りを見渡すと。
「…穢れが…いない。……助かった?」
跡形もなく黒い靄が消え去って、何もなかったかのよにシンと静まった教室の姿。安堵からどっと汗を噴出して、指一本動かすのも億劫で床に体を預け、気絶するみたいに寝てしまった。
誰かが忌まわしいこの教室の扉を開け、遠くで僕の名を呼んでいると理解したが、瞼が重すぎて返事をすることが出来なかった。




