16 逃走
恐怖による幻覚かと思ったら本当に、本物のモモは雫の足元に来ると、ためらう姿を見せずにジャンプして縫い付けている髪の毛を外していく。
え!?外れるの…?これ…
モモに見習い腕に絡まる髪の毛を力任せに引っ張ると――多分、モモも不意打ちの攻撃で、通り魔の集中力が途切れたのだろう――髪の毛に纏う黒い靄が薄くなっていて抵抗もなくバラバラと落ちていく。
すべての髪の毛を振りほどくと、モモはズボンの裾を噛み、逃げろというように引っ張る。
「そう、だね。通り魔が倒れている間に逃げないとね」
見つめてくるモモの瞳は「そうだ」と言っているよう。そして、付いて来いとばかりに、先に走り出した。
「まて、逃がしはしないと言っただろう!」
どうしてここにモモがいるのかなんて考える暇を与えることなく、軽い体のモモの攻撃は通り魔にはあまりダメージを与えられず、すぐに体制を取り戻してしまったので、僕たちは公園の出口に走り出した。
駄目!怪我をして体力が落ちている僕の足じゃ、追いつかれてしまう!
歩くよりも少しだけ早いぐらいの走りに、再び絶望を感じたとき、モモが向きを変えた。
「モモ?」
自分から離れていくモモに早く来て!と声をかけたのだが、モモはそれを振り切って、通り魔に向かって突進した。
そして果敢にも、髪の毛の攻撃も素早く回避し、奴の足止めをしてくれる。
「キャン!」
小型犬だから「ワン」という太い鳴き声ではなく、甲高い鳴き声だけと、それは僕に早く行けと言っている様だった。
だけど、大事な家族であるモモを置いて逃げるわけにいかない。置いていきたくない!
「キャンンッ!!」
攻撃を交わす間に更に大きな声で、苛立ちを含んだ叱咤が僕に向かって吼える。
ああ、そうか。僕は足手まといなんだ。いつまでも僕がここに留まっていると、モモもいつまでも通り魔と対決しなければいけない。上手く髪の毛の攻撃を避けてはいるが、力の差は歴然だ。自分の小さな体では、長い間、通り魔を足止めできない。僕が邪魔……だから、早く逃げろと…
何故かモモがそう考えているのだと、言葉で言われたわけじゃないのに、僕は理解した。
「必ず追いついて!」
そうモモに言い残して、置いて逃げるのは心苦しいがきびすを返す。
だけど、髪の毛攻撃による小さな傷は体中にあり、腕にはナイフで刺された大きな傷が、逃げるのに大きな負担となっていた。
「――っ」
何事もなく平和で暮らしていたのに、どうしてこんな目に逢わなきゃいけないの?そりゃ、記憶がないよ。だけど、それだけで、それ以外は普通の十代。朝起きて学校に行って、変わっているけど親友もいる。気遣ってくれるクラスメート。強引だけど幼馴染に、優しい親戚。温かく見守ってくれる父親。どこにでもあるありふれた環境だ。
なぜこんな非日常なことに…!?僕が何をしたというの?
こんな不公平……逃げ出したい!こんなのは嫌だ!もう、どうしたらいいのよっ!!?
頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、腕からは新しい血が滴り落ちて、貧血を起こしている重い体を引きずるように適当に走り回り、気づいたら公園からは脱出していたが、ここが何処なのかまったく分からない場所にいた。
待ち合わせしている表通りから、かなり離れてしまったようだ。先ほどまでいた公園よりも無機質な場所。えっと、オフィス街…?
ビルがいくつも並んでいるものの、都会のオフィス街よりもかなり小規模。しかし、夜になると誰も近寄ることは無いのは同じようで、道路があるのに行き来する車がない、人がいる気配ない。
明かりを目指して走ってきたが、歩道に並ぶ街灯のみ。冷たいコンクリートは自分の足音を響かせる。残業をしているところが無いのだろう。静まりかえっていた。いつの間にか、かなりの時間がたっていたようだ。
どこかに隠れなければ…っ、あいつが追いついてきたら、足音の反響で気づかれてしまう。何処か隠れる場所はないだろうかと、辺りを見渡すと、目に飛び込んできた小さなビルの入り口。そこはビルへと入る扉もなく、直ぐに階段があるのみ。数段上がると、折り返しになっていて、外からは見えなくなるような造りだ。
そこに息を潜めて隠れていよう。もし、モモがきても僕の匂いで分かるだろう。
幾分かしないうちに、コンクリートに反響した足音が聞こえてきた。
「!!……っ」
ビクッと体が反応し、声を上げそうになったが、口を覆って飲み込んだ。
足音……ということは、モモは――ああぁ……っ!
目頭が熱くなる。
泣いちゃ駄目だ!今は泣けない!モモが作ってくれた逃げるチャンスを無駄にするわけにはいかない!
「っぐ……」
お願い通り過ぎて!!!
大きくなる足音に、飛び出してしまいそうになる心臓の音が重なる。
息を殺し体を小さく丸めて『通り過ぎろ!気づかないで、早く行って、早く…!!』と祈るしかなかった。
足音が小さくなり、聞こえなくなってどれ程たったのだろう。体は緊張しすぎてガチガチになっている。
ようやく、ホッと息をついたとき……
「逃がさないと言っただろう?」
どういうわけか、背後の階段の上から奴が、通り魔が僕を見下ろしていた。
嘘っ!?
「あ…ああ、やぁっーーーっ!!!」
反射的に階段を駆け下り、ビルの外にまっしぐらに出るが、その短い間しか逃げることは出来なかった。すぐ様つかまってしまった僕は、壁を背に奴の手によって両腕を頭の上で括りつけられてしまう。
そして愉快そうに口を歪める通り魔を真正面から見ることになる。
フードを深く被っていて顔の全貌は見えないが、歪んだ口元は弱ったネズミをいたぶる猫の如く、愉快の文字を表していた。
「くっくっくっ、ボクから逃げられると思っていたのかい?ま、こういう趣向も楽しかったけどね。もう終わりだよ」
「…モ、モモ……モモはどうしたの?」
「ああ、あの犬、君のペットだったのか。なかなかしぶとかったが、今頃は髪にぐるぐる巻きになって窒息しているんじゃないかな?」
「な!!なんて酷いっ…」
「酷いのはどっちだ。あいつのせいで、俺の妖力は激変に減ってしまった。どうしてくれる?」
手首に絡まる奴の手を振り解こうともがくが、びくともせず、その度に血が流れ出す。
クラリ…と頭の中心から平衡感覚が冒され、血の気が下がっていく。
やば、血を流しすぎた…
抵抗する力を失い、どうすることも出来なくなった僕は絶体絶命だ。
誰か人が歩いていないか耳を澄ましてみても、音という音が響くビルの谷間に、誰一人の気配はない。助けは皆無――
「………」
「やっと、大人しくなったね。じゃあ、ここで血を頂くことは止めておこう。楽しみはとっておくほうが倍増するからね」
住処に到着するまでは拘束させてもらうよと言った通り魔は、僕を髪の毛で括り付け米俵を担ぐように肩に乗せる。
もう、声すら出ない。
このまま、こいつの言う通りに人形になるのなら、舌を噛み切ったほうがましなのでは……!?そんな危険思考に染まりきろうとしたとき。
「頭髪を自由自在に使えるのか。そのうち、お前、禿げてしまうぞ」
堂々とした声が響いた。
音がよく響くビルの谷間に突如聞こえた声、大声を出しているわけではないのに、これほど近くに聞こえるのだ、通り魔は警戒をみせる。
「誰だ!!何者だ!?」
音も立てず気配すら感じさせずに近寄れる人が、幾人いるだろう。並大抵の人物じゃない。と瞬時に悟った通り魔の警戒は間違いなかった。
「……だ、れ…?」
絶望で失っていた声が、自分たち以外に人がいるという希望に、微かだけど復活する。
通り魔が警戒するんだから、こいつの味方ではないはず。ならば……僕を助けてくれる…救いの手?




