第5話 目玉とたこ焼き
一本の奥歯のぐらつきで歯医者に通い始めた。連鎖するように次々と悪い箇所が見つかり、三月で三か月になるが終わりの目処は立っていない。通い慣れたこともあって帰りは電車を使わず、運動を兼ねて三駅分を歩いて帰るようにしていた。
午前十時半、家に帰り着いた。途上の坂がそこそこの難所でウインドブレーカーを脱ぐとインナーのシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。シャワーで全身の汗を洗い流し、上下のスウェットに着替えた。
肉体的な疲労もあってすぐに執筆を始める気分になれない。持て余した時間でハムの様子を窺う。
ケージにはいなかった。段ボール箱の四隅に目をやる。右端の奥の角に丸まった形で眠っていた。今日は三月と思えないくらいに暖かい。その気温の高さもあってハムの全身が見えていた。
濃淡のあるグレイの背中を丸めて横たわる。腹部の毛の白さが際立つ。大玉の白いたこ焼きにグレイのソースを掛けたような見た目であった。想像すると口の中に唾が湧いてきた。たこ焼きプレートが家にないことが悔やまれる。
ただ、その寝姿には違和感があった。持ち帰った頃の姿を思い出す。
朧げな記憶の中のハムはうつ伏せで丸まっていた。どのような表現が適切だろう。
そう、白いバンカーに埋まった状態の薄汚れたゴルフボール。通称、目玉にそっくりだった。
体形の変化で寝苦しくなり、楽な横向きに変わったのだろうか。
ぼんやりと思いながら給水器をケージから手早く抜き取る。水の量が半分くらいまで減っていた。中身を浄水器の水と入れ替えて戻るとハムは目覚めていた。
俺が立てる微かな音を耳が拾ったのか。何やら興奮した様子で見上げ、段ボール箱の壁の一部を前脚で搔き始めた。
給水器を元のところに戻し、そっとハムに指を近づける。誘うように指先を動かすと飛び付いて噛まれた。甘噛みではなくて割と本気で。
指先を見ると幸いなことに血は出ていなかった。日々、パソコンのキーを打ち続けているので皮膚に厚みがある。痛覚はしっかりあるので嬉しい行為ではないが。
気を取り直して再び手を入れる。今度はハムから少し離れたところで徐々に近づける方法に変えた。なるべく恐怖心を与えず、優しい気持ちで接するように心掛ける。
再び、噛まれた。最初と同じで血は出ていないが痛くないことはない。
胸中で中指を立てた俺は、その怒りを原動力にして執筆に当たった。意外と捗ったので少し機嫌が直ったことは言うまでもない。
その日の晩酌のビールは、ほんの少し苦かった。




