第11話 ビリヤードの玉
気分転換は逃避ではない。昨日、野山を駆け回ったことで書く意欲が増大し、一日で一万字の大台を超えた。集中力は途切れず、気付けば夕方になっていた。窓の向こうに浮かぶ雲は焼き立てのパンを想像させた。
潮時と知り、階段を下りていく。
一階の薄暗い廊下を歩いてキッチンへ向かう。その途中で足を止めた。脇に置かれた箱にはジャガイモが詰め込まれていた。冷蔵庫の野菜室ではタマネギとニンジンが転がる。冷凍庫も覗いて見る。少し古くなった牛肉のスライスが眠っていた。これらを合わせれば肉じゃがを作れる。
最初の工程として日高昆布とカツオで出汁を取る。全部、煮物に使うともったいないので味噌汁分を先に確保する。使用した昆布とカツオは捨てず、刻んでフライパンで炒める。好みに合わせて油を少々。塩や醤油で味付けすれば立派な肴になる。
精米機に三合を仕込み、稼働させた。その時間を利用してハムの様子を見に行く。
今は聖地と化した一角を除き、全ての角がハムによって齧られた。敷き詰められた紙を盛り上げて気分で寝床を変えていた。今日は右端の手前側の角に横向きでめり込んでいた。
ビリヤード台のポケットに詰まった玉のようだった。想像して軽く吹いた。その笑い声にハムは反応した。むくりと起き上がるとこちらを見上げる。
黒い艶やかな目で、またおまえか、と語り掛けているように思えた。穏やかな気持ちで手を差し伸べると匂いを嗅ぎながら掌に乗った。少し丸めるとほんのり温かい。おにぎりの刑にしたくなるが、ぐっと堪えた。すぐに下りて直線を走り、別の角の穴で丸くなった。
精米が終わった。手の中の温もりを軽く握り、ハンドソープで洗って夕飯を作り始める。
土鍋でご飯を炊いている時、ふと思った。
ハムは音に敏感ですぐに目を覚ます。匂いはどうだろう。
俺は基本、薄味を好む。和風のメニューが多いものの一昨日はカレーであった。カレールゥは例外で中辛以上を選ぶ。出来上がったカレーはスパイシーで一階は香辛料の匂いに満たされた。
その状況下、ハムに異変はなかったように思う。個体差があるのだろうか。
冷蔵庫の中には木綿豆腐が一丁、取り残されていた。豆板醤と甜面醤を使った麻婆豆腐で、明日、試してみてもいい。
想像するだけで自然と笑みが浮かぶ。
空いた時間にハムのことを考える。飼い始めた日数に比例して、その時間が増えていく。母親は段ボール箱に寄り添い、ハムちゃん、可愛いね~、と頻繁に語り掛けた。小便臭い紙の処理や散乱した種の殻を拾うのはもっぱら俺の役目になっていた。
楽しそうな母親を眺めていると、心に降り積もった不満は砂のようにさらさらと流れてゆく。
悪くない生活と思える俺は単純なのだろうか。




