64.そんな悲しいことがあってたまるか!
正面からイオを打ち負かすことでしか、もう姉妹としての会話をすることはできないのかも知れない。
朧月夜をゆっくりと構える。
頭と身体に染みついた〈課堂〉での教え。魔術刀に練り込まれている妖精の力を解放するために十分なマギを喰わせたのなら、妖精との対話を試みる。
それは言葉を交わすことではなく、供物を捧げた相手に願うことに似ていた。
そして、デシーカがマギを対価に妖精に願うことはひどく単純だった。
「我がマギ喰らいて疾く頸獲るべし」
なんの飾り気もない、殺し屋の言葉。
結局のところ、天啓のようにしてそれはやってくる。
妖精に見初められたなら、なにも知らなかった撃剣魔術士はなにをするべきかを唐突に悟る。
「妖精幻想――」
デシーカはマギを根こそぎもっていかれるような感覚にぞっとした。
それでも妖精に操られるようにして、朧月夜を足元に突き立てる。
刀身を不可視にしていた黒い靄が消え失せた。
吸い込まれるような、深い深い漆黒の刀身が顕になる。
ほんの数秒前まで知らなかった言葉が、旧知であるかのように口からこぼれ出た。
「――〈十二羽濡鴉〉」
周囲の空気が歪む。
朧月夜と同じ漆黒のサーベルが、デシーカを中心にして時計回りに次々と出現した。
その数、足元に突き立てた朧月夜とあわせて合計十二本。
デシーカは朧月夜をゆっくりと引き抜いた。
無造作に一歩を踏み出す。
周囲に展開する残りの十一本は、等間隔を保ったまま円形に彼女を取り囲んでいた。
「イオ!」
デシーカは力の限り叫んだ。妹を叱りつけるかのように。
少しだけ気圧されて、それでもイオが叫び返してくる。
「やってみなよ!」
黒犬の一頭が口を大きく開いた。
現れたのは六本の炎の杭だった。
それが時計回りに連続で撃ち出された。
「お前の望みが!」
デシーカは手にした魔術刀で、一本目の杭を袈裟懸けに叩き落した。
派手な爆発が起きるわけでもなく。
黒く染まる。
まるで立派な絵画に、ハケで黒いペンキを塗りたくったかのように。
刀身が触れた瞬間、剣閃に沿ってすべてが黒く塗りつぶされる。
意味を失う。
これが朧月夜の本来の力。
デシーカは五本の杭を次々に叩き落した。
二本目を跳ねあげ、三本目を横薙ぎにし、四本目を再び袈裟懸けにし――
同時にじりじりと間合いを詰めていく。
飛来するすべての杭を消滅させて、デシーカは黒犬の間合いに足を踏み入れた。
「私と泥沼みたいな世界にいたいなんてことなら!」
黒犬がこちらを襲撃するために動き出す。
三頭が同時に、正面、そして左右に展開する。
音もなく石畳を疾駆する黒犬たちが、大きく跳躍した。
三頭がそれぞれの方向から跳び掛かってくる。
それに反応するようにして、円型に展開していた漆黒のサーベルが一斉に動き出す。
位置を変えて、デシーカの左右にずらりと並ぶ。
まるで広がる黒い翼のようだ。
デシーカは正面から飛び掛かってきた黒犬を見据えた。
両翼の漆黒のサーベルが、外側から順番にその剣先を立てていく。
「そんな悲しいことがあってたまるか!」
瞬間、漆黒のサーベルが次々に撃ち出された。
左右の外側から間断なく、順番に。
一本が、正面から飛び掛かかってきた黒犬を串刺しにする。
続けざま、二本、三本。
黒い爆発が大気を震わせる。
だが、そのエネルギーは内側に向かい、放電する黒い球体が黒犬を包み込んだ。
それが一気に小さくなっていく。
やがて拳大にまで圧縮されて、炎の犬は消えた。
「ちっ」
デシーカは射出した漆黒のサーベルが左右の目標から外れたことを確認していた。
十一本も撃って正面の目標に三本命中。こんなときでも射撃の腕はイマイチだ。
デシーカはぐっと腰を落とすなり、右手側から迫る黒犬に向かって距離を詰めた。
空中に身を躍らせている炎の犬は顎を大きく開き、肉食の獣そのものだ。
腹の下をかいくぐるようにして姿勢を低くして、朧月夜を黒犬の喉元にすっと入れる。
一気に腹を掻っ捌いた。
魔術刀の軌跡は一条の黒い帯となって黒犬を塗りつぶした。
まるで癇癪を起した子供が落書きにそうするように。
そして、炎の犬がこの世界から消える。
左手側からもう一頭。
デシーカは真正面で対峙するなり、そのまま魔術刀を振りおろした。
漆黒の刃が黒犬の眉間を捉え、鼻から顎にかけてを一閃する。
犬の顔を、黒い軌跡が真っ二つにした。
瞬間、世界が壊れる。
石畳が敷かれた三叉路と永遠に続く草原――その景色に無数の亀裂が走る。
幻想世界が、大小無数の破片になってボロボロと剥がれ落ちていく。
向こう側には、別の世界が見えた。
朽ちた教会と雑草が生い茂る荒れた大地。
限界を迎えた仮初の世界は、叩きつけられたガラスのようにして粉々に砕け散った。
生温いアヴァロン島の風に吹かれて、デシーカは自分が元の荒涼とした大地に佇んでいることを自覚した。
朧月夜の刀身が再び黒い靄に包まれて不可視になる。
デシーカはマギがすっかり枯渇して、意識が途絶えそうになった。
ふっと倒れそうになるところを、どうにか踏みとどまる。
すぐにそこに白無垢鉄火を構えたイオが迫っていた。
「そういうことじゃないんだよ、お姉ちゃん!」




