63.獲物を前に舌なめずりは
音もなく、姿勢を低くした黒犬が飛び掛かってくる。
赤く燃える体躯が火の粉を散らし、空気が焦げる感覚だけがある。
デシーカは小さく息をはいた。
「すうぅぅぅぅぅぅ」
魔術刀を握る両手に力を込め、独特の呼吸でマギを練る。
八卦功夫六合合一拳!
「しいぃぃぃぃぃぃ」
鋭く冷たい風がデシーカを中心に竜巻のようにして巻き起こった。
空気の障壁を身体にまとい、接地している感覚がなくなる。
デシーカは腰を落とし、氷上を滑るかのようにして黒犬に向かって一歩を踏み込んだ。
ぶつかるような距離で、髪と肌がちりちりと焼ける。
手首を返し、不可視の刃を斬りあげた。
重い手応え。
そのまま力任せに振り抜いた。
首を半分くらい刎ねられて、黒犬がどっと倒れる。
続けざま、もう一頭が右から飛び掛かってくる。
デシーカは魔術刀から右手を離し、拳を斜め上に振り抜いた。
「〈劫風發地〉!」
圧縮された空気が爆発するような衝撃が周囲を震わせる。
二頭目の黒犬が錐揉みしながら高々と宙に舞った。
三頭目に目をやる。
大きく開けた顎から、炎が溢れるのが見えた。
「ちっ!」
デシーカが舌打ちする同時に、黒犬は炎の槍を顕現させるなり吐き出した。
迫りくる炎の槍を真横に滑るようにして回避する。
フィギュアスケートのような華麗さだった。
幻想世界の大地に炎の槍が飛び込み、爆炎が吹きあがる。
デシーカはそのまま石畳を滑り、三頭目の黒犬に襲いかかった。
腰を低く落とし、八卦功夫で練りあげたマギによって射出されたように猛烈に加速する。
デシーカは腰溜めに構えた魔術刀を、すれ違いざまに一閃した。
不可視の刃が黒犬の燃える体躯を真一文字に斬り裂く。
そのまま大地を滑り距離を取った。
ダメだな、とデシーカは思った。
先にやった二頭も同じで、まるで効いてはない。
「ふうぅぅぅぅぅぅ」
デシーカは肩で息をしながら、再び犬に囲まれるイオと対峙した。
八卦功夫の呼吸を維持できず、身体にまとっていた空気の障壁が消える。ロレッタに比べれば、本当に児戯に等しい腕前だ。
「ムダだよ、お姉ちゃん。この黒犬がどれだけ厄介か、よくわかってるでしょ?」
「ああ、そうだな。墓守の黒い魔犬……大したものだよ、イオ」
白無垢鉄火の〈黒犬三叉路遊遊逍遥〉は膨大なマギを消費する。
「私が三頭も呼び出したら、マギがすぐに底を尽きてしまう」
イオがもつマギの総量はデシーカよりもかなり多いのだろう。それを才能と言うのなら、イオはデシーカよりも撃剣魔術士としての才能に余程恵まれている。
「褒められるのは、悪い気はしないかな」
イオがはにかんだ。
「もっと早く、こうしておけばよかったかもね。そうしたら、あたしだってロレッタさんみたいに一緒にいられた?」
「お前はそんなことが望みだったのか、イオ」
「そんなことなんて、ひどいなー」
イオが低い声でつぶやくと、三頭の黒犬もそれにあわせて唸り声をもらした。
妖精幻想で生み出された黒犬を始末することは非常に困難だった。
方法は極端に言えば二つしかない。
マギの供給元になっている撃剣魔術士を殺すか。
黒犬が耐えられないほどの威力で攻撃するか。
下唇を軽く噛み、魔術刀を握り直す。
朧月夜に練り込まれた妖精の力を解放すれば、黒犬を始末できるかも知れない。だが、ぶっつけ本番だ。どんな力が解放されるのか、デシーカもまったくわからない。
「使いなよ、お姉ちゃん」
こちらの逡巡を見透かしたように、イオが言った。
「新しい魔術刀であたしに勝てないなら、もう黙って見ててよ」
「イオ、お前は私よりよっぽど天才肌だな。だが――」
デシーカは覚悟を決めた。
「獲物を前に舌なめずりは、素人のすることだぞ」




