51.ガウロンオペラとはいいご身分だな
けたたましい銅鑼の音が劇場の空気を引き裂き、遠くに聞こえていた観客のざわめきを一瞬で静寂に変えた。甲高い京胡の旋律と打ち鳴らされる打楽器が奇妙に調和して、現実と虚構の境界線がそのなかに溶けていく。
アヴァロン島中央区にある大劇場の広大なロビーは、開演したこともあって劇場の関係者がまばらにいるだけだった。高い天井から吊りさげられた巨大な照明が、蜂蜜色の光を惜しげもなく磨きあげられた大理石の床に落としている。
デシーカは硬質な足音を響かせて、中央に鎮座する大階段に向かった。
生気がなく無表情で、まるで幽鬼のようだった。
「デシーカ、冷静にとは言わないけれど――」
「わかっているさ。私は冷静だ」
背中から聞こえたロレッタの言葉に、掠れた声で答える。
イオ・デグランチーヌは人質としての価値がある限りは、殺されることはない。
そんなことは頭ではわかっている。わかってはいるが、だからなんだというのだ。
イオをこんなことに巻き込んでしまった。いままで、絶対に、こちら側の世界に関わることがないようにしてきたのに。
なにが安全な場所だ、とデシーカは思った。
いままでそれが可能だったのは組織の人間だったからだ。デシーカ・デグランチーヌはシリング・ラウに買われていたし、レカード・ウォンにも一目置かれていた。組織の兵隊として〈耳長鬼子〉が気兼ねなく仕事ができるように、最大限配慮されていた。
いくらルールー・ウォンに頼んだところで、〈ラウ書店〉が勝手に始めた戦争だ。どうしていままでと同じように、ただ自分は仕事をすればいいだけだと思ったのだ。
まったくもって、度し難い。
ロレッタさんといるほうが楽しそうな顔してるよ。
いまになって、イオのそんな言葉が頭のなかをぐるぐると回っていた。
「ロレッタ、私は――」
大階段の磨かれた真鍮の手すりに手を滑らせ、デシーカはつぶやいた。
――そんなに楽しそうか?
妹の身を案じるふりをして、こんなどうしようもない世界にいることが本当に楽しいと思っているのなら、私は心底から救いようがない。
貴賓席がある三階まで足を進め、敷かれている真っ赤な絨毯を踏みつける。
「デシーカ、とても冷静にも見えないわよ」
横に並んだロレッタが、ぐっと肩を押さえてくる。
デシーカはそこではじめてロレッタの顔を見た。
眉間に深い皺を刻む険しい顔にはっとして、思わず声に出す。
「……お前もな」
「ええ――自分より危なそうな人を見るとかえって冷静になるわ」
ロレッタが眉間の皺を揉み解し、小さく自嘲した。
さらわれたイオには、ルールーが派遣した護衛と一緒にオードリーがついていた。
彼女がどうなったのかも、いまはわからなかった。
「オードリーは荒事にはあまり向いていないから」
「すまない。私が頼んだせいだ――」
「いいわ。彼女は黒社会の人間で、いつだって野垂れ死ぬ覚悟はできている」
ロレッタの顔をまともに見れず、デシーカは視線を逸らした。
オードリーはロレッタを除けば〈ラウ書店〉の唯一の生き残りだ。一度は組織を離れることを決めたデシーカとは違う。ロレッタ・イェンとデシーカ・デグランチーヌには個人的な友情があるが、シリング・ラウがつくりあげた組織への忠誠において、オードリーは特別だった。
彼女はロレッタの隣に立つことができるのはデシーカだけだと言ったが、〈ラウ書店〉の副店長という立場にいるロレッタを孤独から守れるのは最早オードリーだけだった。
「でも、イオちゃんは違うもの。必ず助ける」
「ああ。私は――」
「はあ、まったく、もう……!」
ロレッタに勢いよく背中を叩かれて、デシーカは目を白黒させた。
「っ!? なにを――」
「イオちゃんが助かるなら死んでもいいなんて言わないでよ? 三流映画でもあるまいし」
「ロレッタ……」
「わたしはやると言ったらやる女よ、デシーカ。〈ラウ書店〉は潰させないし、そこにはあなたも、イオちゃんにもいてほしい。あの子は、うちの店番のアルバイトだってしていたのよ?」
「そうだな……」
デシーカはそっと拳を握った。
時間が戻ることなんてことはなく、昔みたいになれないことはきっとロレッタもわかっている。だが、それでも、それを言葉にできる強さが彼女にはある。
本当に、いつだって、ロレッタ・イェンは、はじめて出会ったときに手を差し伸べてきたときのままだった。少なくともデシーカにとっては、その手を掴むことで前に進むことができる。
デシーカは大きく息を吐くと、両手で自分の頬を叩いた。
目的の貴賓室はすぐそこだった。
重厚な黒檀の扉の前に、サングラスをかけた黒服の護衛が二人並んでいる。
「おまちしておりました」
慇懃な態度で護衛が頭をさげ、扉がゆっくりと開かれた。
室内は劇場の喧騒から隔絶されて、ひんやりとした静謐な空気に満たされていた。
幾何学模様が織り込まれた分厚い絨毯がすべての足音を柔らかく吸い込み、金糸で刺繍された精緻な模様が印象的な壁布が、ブラケットライトの温かな光を受けて鈍い輝きを放っていた。
深紅のビロードが張られた椅子が並ぶなか、一人の女が深く身を沈めてオペラグラスを手にしている。
「ガウロンオペラとはいいご身分だな、ルールー」




