52.あなたがいるのは最初から――
「ええ、デシーカさん。わたくしはいいご身分ですもの」
背後で扉が閉まる音がした。ちらりと視線をやると、外にいた護衛がこちらを監視するようにして室内に入ってきている。
貴賓席からは舞台上で繰り広げられているガウロンオペラがよく見えた。
鳳凰の文様がきらめく極彩色の衣装をまとった登場人物が、滑るように現れる。
顔には赤と黒で描かれた複雑な隈取が施され、その眼光は神話から抜け出したかのような超然とした威厳を放っていた。独特の節回しで歌われる甲高い声が響く。
デシーカはこの手の知識はさっぱりだったが、大陸からやってきた伝統的な演目ではないことだけはわかった。
「神聖帝国がアヴァロン島を侵略した際に起きた悲劇を題材にした演目ですの。高明な武将とエルフ人の貴族令嬢の悲恋を描いた物語。昨今人気の新作ですの」
「ご高説は結構だ。興味がないんでな」
「あら、残念。教養は大事ですわよ、デシーカさん」
そこまで言って、ルールーはようやくオペラグラスをおろした。
シリング・ラウの墓前で会ったときとは別人のような、冷え冷えとした顔だった。
「今回のことは感謝しておりますの」
ルールーは腕を組むと、デシーカ、そしてロレッタへと視線を巡らせた。
「うまく大義名分をつくって、エルフどもに協定破りの戦争を仕掛けていただいて。おかげで〈ティティス・レコード〉の世話人会は完全に掌握できましたし、少しばかり反抗的だったアル・リッターも反省したでしょう。〈シターン・レーベル〉もいまや壊滅寸前」
「感謝している? 感謝しているだと、ルールー!」
その言い分に、デシーカは近くにあった椅子を力任せに蹴りあげた。
鈍い音がして、とんでもない値段の椅子が壁にぶつかって台無しになった。
「イオのことはどう始末をつけるつもりだ! 私は確かにお前に頼んだはずだ!」
「ええ。護衛を五人もつけたし、オードリーにも協力して、匿う場所も提供しましたの」
悪びれた様子など微塵も見せず、ルールーは腕を解いて仕方なさそうに肩をすくめる。
「キルシェトルテ・ルクスがああ見えて、案外と慎重だったのですわ。護衛は全員死にました。ロレッタお姉さま――」
デシーカの背後でむっつりと押し黙っていたロレッタは、眼鏡をそっと押しあげた。
「オードリーは生きておりますわ。怪我はしていますけれど。彼女がどうにか連絡してくれたおかげで、わたくしも状況を知りました。部下が病院に運びましたからご安心くださいな」
オードリーが運ばれたのは〈ティンパ商会〉の息がかかっている病院だろう。設備も整っていて、恐らく最高の治療を受けられる。
これでひとつ借りができてしまった。
ロレッタは言葉を呑み込み、たった一言だけ言った。
「格別のご配慮、感謝します、大小姐」
そこにはラウに師事した二人の弟子ではなく、〈ティンパ商会〉の総経理代行と直系組織の幹部がいるだけだった。
「イオさんのことは、力及ばす申しわけないと思っておりますの。けれど、デシーカさん。これは〈ラウ書店〉が勝手に始めた戦争。いままでのようにいかないことはおわりでしょう?」
「ああ……」
そこに思い至らなかった自分も救いようがないが、ルールーはこうなることをわかっていたに違いない。〈ティンパ商会〉が本腰を入れて支援しなければ情報はどこからでも漏れる。
だが、言わなかった。
デシーカがいままでと同じように、仕事に専念できるように。
ぐっと拳を握り、奥歯を噛み締め、デシーカは低くつぶやいた。
「ルールー、イオをさらった連中のなかにエルフの撃剣魔術士はいたのか?」
「そのような報告は受けていませんわ。いたかも知れないし、いなかったかも知れない」
「そうか……」
「デシーカさん、わたくしに言いたいことがあるのならどうぞご遠慮なく」
「いや、結構だ」
「なら、震える拳は隠しておかれては? ロレッタお姉さまのほうが弁えていましてよ」
「ルールー……!」
デシーカが彼女に掴み掛かろうとした瞬間、背後にいた護衛たちが自動拳銃を抜き放った。ゆっくりと近づき、ぴたりとデシーカの背中に銃口をつける。
「お静かに。大小姐への無礼はおやめください」
「はっ、無礼? 無礼だと? 私は少しばかり昔馴染みの妹分と話をしているだけさ。無礼かどうかを決めるのはルールーだ。いい格好したいだけの腰巾着は引っ込んでろ」
「貴様っ!」
「デシーカ!」
護衛が引き金を絞ろうとした瞬間、割って入ったロレッタが自動拳銃を構えている護衛の右肘を掌底でかちあげた。骨が折れる音がして、右肘があらぬ方向に捻じ曲がる。
デシーカは振り返りざまに、その護衛の腹部に強烈な膝蹴りを喰らわせた。
「おっ……!」
短い悲鳴をもらし前のめりになる護衛に、さらに前蹴り。
ごっという打撃音とともに、護衛は椅子を薙ぎ倒して黒檀の扉に激突して崩れ落ちた。
その間、ロレッタはもう一人の護衛に左肩からぶつかるように密着していた。
足を払い、体勢を崩し、右拳を捩じ込む。
なす術もなく、猛烈な勢いで護衛が吹っ飛んだ。
扉に激突し、今度はそのままぶち破って廊下に転がり出る。
「ルールー・ウォンの名前を傘に着ることしかできない三下が、私たちと対峙できると思うな」
デシーカは吐き捨てると、おざなりな拍手をするルールーへと視線を向けた。
「ルールー、お前のことだ。イオをさらった連中の行方はもう突きとめているんだろう?」
「ええ、もちろんです。残った人数まではわかりませんけれど。どの道〈ティンパ商会〉はこの戦争の停戦を仲介しませんから、連中が生き残るにはお二人を殺すのみ。そのための利用価値がある限り、イオさんはご無事ですわ」
「わかっているさ。だがな!」
デシーカは躊躇することなく、ルールーの胸ぐらを掴んだ。
力任せに引き寄せて、ほとんど息がかかりそうなほどに顔を近づける。
「お前はイオがこうなるかも知れないとわかっていて、言わなかった。ていよく私を利用したつもりだろうが、結果としてイオになにかあってみろ。相応の責任を取らせてやる」
「ふふ。〈ティンパ商会〉とたった一人で戦争されるおつもりですの?」
殺伐としたデシーカの碧眼に睨まれても、ルールーは平然としたものだった。
「デシーカさん、そろそろ思い出したほうがいいですわよ」
貴賓席から見える舞台から流れる音楽の調子が、いよいよ激しくなった。
軽装の兵士たちが舞台狭しと躍り出る。
宙を舞い、トンボを切り、目にもとまらぬ速さで武器を交わす。
エルフ人の令嬢を演じる役者が、助けを求める声をあげる。
駆けつけたガウロン人の武将が、大立ち回りを演じて兵士たちを薙ぎ倒す。
その演目の結末をデシーカは知っているわけではなかったが、恐らく二人は死ぬのだろう。あるいはそれすら幸福な結末で、もっと残酷な最後がまっているのかも知れない。
「あなたがいるのは最初から――」
ルールーの囁く声は舞台からの音楽と渾然一体となって、それでもはっきりとデシーカの耳元に残った。
「――そういう世界ではないですか」




