38.楽しそうな顔してるよ
デシーカは内臓を握られたような寒気を感じて身震いした。
イオにはそんなつもりはないのかも知れないが、まだ責められたほうがよかった。
そのほうが、罪悪感がある。妹がまだ自分に期待してくれているのだと思える。
諦観や無関心よりも、余程いい。
「……これからだ」
デシーカはマグカップをもつ手が小刻みに震えていることに気づいた。
それを隠すように両手で抱え、ゆっくりとテーブルに置く。
「すまないが、イオ。少しの間、ここを離れて安全なところに身を隠してほしい」
いままではイオが巻き込まれることがないように、〈ティンパ商会〉の庇護があった。だが、今回は違う。〈ラウ書店〉が勝手にやることだ。もし〈ティティス・レコード〉のエルフどもが組織だって抵抗してきたなら、デシーカの弱みであるイオを人質に取ることなど簡単だった。
「場所は用意するが、ルールーにも頼んではみる」
「ルールーさんかー。しばらく会ってないな」
「いまや大物だからな」
ルールー・ウォンが〈ラウ書店〉の店員だったころは、イオとも気軽に顔を合わせていた。そんな義理人情が通用する立場でもないだろうが、〈ラウ書店〉が大義名分をつくって賞金首を狩り出す戦争をエルフどもに仕掛けることにはメリットを感じている。
シンプルな損得勘定で、頼みを引き受けてくれる可能性はあった。
「これが本当に最後の仕事だ」
本当はイオに言わなければいけない言葉のはずなのに、デシーカは自分に言い聞かせるようにして言った。その違和感に彼女自身は気づいていなかった。
「ロレッタは私の大切な友人だから、私は――」
「わかってるよ、お姉ちゃん」
イオがこちらの言葉を遮るようにして口を開いた。
冷ましていたマグカップには口をつけないまま、じっとこちらを見つめてくる。
「あたし、わかっちゃったんだよ」
そこには少し冷たい響きがあって、デシーカは息を呑んだ。
「お姉ちゃんは、わかってる?」
「……なにをだ?」
恐る恐る、デシーカは言った。ひどく掠れた声だった。
「お姉ちゃんはさ――」
イオはただ静かに告げた。まるで宣告するかのように。
「ロレッタさんといるほうが、楽しそうな顔してるよ」
朗らかな笑顔で、だがそれは貼りつけられたお面のようで、どこか無機質だった。
デシーカはなにか言おうとして――なにを言っても意味がないような気がした。
テーブルを挟んだだけの距離なのに、手を伸ばせば届くはずの距離なのに、そこにいるはずのイオが地平線の彼方の蜃気楼のように思えた。
「イオ……」
だから、ただ彼女の名前を呼んだ。
イオは笑顔のままだった。
「お姉ちゃん、あたしのことは心配しないでいいよ。お仕事が終わるまで、安全なところに隠れておく。だから、気にしなくていい」
気にしなくていいなんて、それは違うんだ!
デシーカは胸中で叫んだが、乾いた喉からは言葉は出なかった。
「仕方ないよ」
イオはゆっくりと立ちあがり、優しい声でそっと囁く。
「お姉ちゃんは、そういう病気なんだよ」
それはいままで経験してきたどんな修羅場よりもぞっとするもので、いままで受けてきたどんな傷よりも痛かった。心が冷え冷えとする感覚があって、心底から自分がいやになる。
「くっくっ……あっは」
こぼれてきたのは乾いた自嘲で、デシーカは笑うしかなかった。
もうイオの顔を見ることはできなかった。
マグカップに入ったミルクティーを凝視して、ただ笑った。
砂糖とミルクを混ぜてしまったら、もう二度と混ぜる前の紅茶には戻すことはできない。
そう、もう二度と、もとに戻すことは――
「だからね、お姉ちゃん――」
イオの声はあくまでも優しいままだった。
それは病人にかけられる看護師の声のようで、
「―――――――――――――」
彼女がなにを言ったのか、デシーカには聞き取れなかった。
罵倒でもなんでもいい。せめてその言葉には、妹の感情が込められていてほしかった。
無機質な優しさではなく。




