29.本当に――バカね
室内はデシーカが一晩を過ごした安宿よりもよっぽど清潔で、ロレッタ・イェンは真っ白いシーツのベッドで小説を読んでいた。
黒髪をおろしてフレームレスの眼鏡をかけた姿は地味だが清楚な趣で、どこかの令嬢のようだった。小柄な体躯は少し頼りなげに思えて、抱き締めてやりたい衝動に駆られる。
「デシーカ……」
小説から顔をあげた彼女は少し驚いた顔をして、それから眉尻をさげた。
「あなたのほうが、体調が悪そうに見えるけど?」
「……ああ、シー女士にもひどい顔だと言われたよ」
「せっかくの美人が台無しね」
「そんなに美人だったかな……」
「わたしが男なら放っておかないくらいには」
「それは光栄だが、私のほうにも選ぶ権利があるぞ」
「なにそれ、わたしだとご不満なの?」
「私にはもったいないかもしれないだろ?」
「ものは言いようね」
ロレッタがわざとらしく唇を尖らせるので、デシーカは小さく笑った。
それを見て、ロレッタも同じように笑う。
手にしていた小説を置いて、彼女は静かに言った。
「また顔を出してくれるなんて嬉しいわ」
「具合はどうだ?」
「悪くないわ。シー女士の怪しい薬と、クソ不味い薬膳だかなんだかのお粥のおかげでね」
「それは災難だったな」
「ええ、まったく」
味を思い出したのか、ロレッタは眉間に寄せた皺を揉み解した。
「ここを出る気か?」
「もちろんよ。わたしはお面野郎をぶっ殺して賞金を手に入れる。まごまごしていたら、先を越されてしまうかもしれない」
「ロレッタ・イェンが仕留められなかった撃剣魔術士だぞ。大抵の組織は慎重になるさ」
「だからこそよ。自信のある連中だけが狩りに出る」
「安心しろ。それでも私たちのほうが半歩くらいは先にいる」
デシーカは脇に挟んでいた茶封筒をそっと差し出した。
「警察が押収品を横流しする闇市場の故買屋のリストだ」
空いた手で煙草を取り出して咥えると、火を点けながら続ける。
「ロクサーナと話をつけた。白無垢鉄火が警察から流出して賞金首に渡ったのなら、まずはその線で追えばいい。横流しした警官か、故買屋を突きとめる。そこから雇い主がわかれば賞金首の正体もわかるし、こちらから仕掛けられる」
「デシーカ……?」
その言葉が意味するところをしばらく理解できず、ロレッタは間の抜けた顔をしていた。
デシーカは紫煙を吐き出すと、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ロレッタ」
いままで何度も胸中でつぶやいてきた言葉を口にする。
「大丈夫だ。私に任せておけ」
「……ウソでしょ」
こちらから目線を逸らし、か細い声が口からもれる。
「あなたは……」
そこからなにかを続けようとして、だがロレッタは言葉にしなかった。
数秒間の沈黙。
デシーカが静かに吐く紫煙だけがそこにあった。
ロレッタはようやく目線をこちらに向けて、複雑な表情で言った。
「わたしが言えた義理ではないけれど――バカね」
それは喜んでいるような、哀しんでいるような、笑っているような、泣いているような、なんとも言えない表情だった。
「本当に――バカね」
だが、言葉とは裏腹に声音は優しく、どこか安堵したような柔らかさがあった。
「ああ、私はバカだな」
わかっている。だが、どうしようもなかったんだ。
バカだね、お姉ちゃん……というイオの無機質な声が聞こえた気がした。
諦観と嘲笑が込められたその声は、鋼鉄の刃よりも鋭くデシーカを指弾する。
この選択は取り返しがつかない過ちで、たとえ本当に最後の仕事なのだとしても、もう二度と元には戻れないのかも知れなかった。切れてしまった糸を結び直したとして、結び目がある糸が切れる前とまったく同じだとは言えないように。
デシーカはそんな想像を打ち消すようにして頭を振り、ゆっくりとベッドに腰をおろした。
「ロレッタ、私はラウ大哥にはいくらか恩は返したと思っている。だが――」
すぐそこにロレッタの顔があり、はじめて会ったときのことを思い出す。
その強い覚悟が宿った黒い瞳に吸い込まれるようにして、差し伸べられた手を取ったから。デシーカ・デグランチーヌはいまここにいる。
「――ロレッタ・イェンには、まだなにも返してやしない」
二人の視線が交錯する。
眼鏡の奥の濡れた瞳に見つめられて、デシーカは微苦笑を浮かべた。
それに釣られてロレッタも笑った。
「わたしにも煙草もらえる?」
そう言われて、デシーカは自分が咥えていた煙草を指で挟んで彼女に咥えさせた。
こんなに近くでロレッタの顔を見たことがなくて、長いまつ毛だな、とデシーカは思った。
「わたしはもう、イオちゃんに顔向けできないわね」
「……これで最後だ。わかってくれるさ」
デシーカは自分に言い聞かせるようにして言った。
その声はどこか痛々しくて、いまにも壊れてしまいそうなラジオの音声のようだった。
「デシーカ」
ロレッタがこちらの頬にそっと触れてくる。
デシーカは少しだけ驚いて、だが彼女の手を握った。
それこそはじめて出会ったときのように。
「ありがとう」
紫煙と一緒に吐き出されたロレッタのその言葉が、煙草をもらったことを言っているのか、それとも別のことを言っているのか、デシーカは聞かなかった。




