第六話 奪われた時間
時は少し遡る。その日の朝。アルド・グレイヴは、いつもと変わらぬ足取りで廊下を歩いていた。背には愛用の大剣。これから向かうのは、神子候補ミレイアの部屋だった。
「アルド殿」
不意に、背後から声が掛かった。振り返ると、そこに一人の聖騎士が立っていた。ラグナ・ベルク。火属性の魔法と槍術を得意とし、教会内でも合理主義者として知られる男だった。そして、聖戦派が推すもう一人の神子候補、アリア・グランベル。その護衛を務める聖騎士でもある。
「今日は貴殿に話がある。少し時間をもらいたい」
「は? 悪いが、これから神子様のところへ……」
「その件だ」
ラグナは表情を変えず、淡々と言葉を続けた。
「ここは最前線の街だ。その街で戦う意思もない者たちを助けることに、どれほどの意味がある?」
「なんの話だ、今」
「百人のスラム住民を一年間養う費用があれば、騎士団の装備を更新できる。貴殿ほどの戦力を、あの場所の警備に割くことも資源の浪費だ」
「あそこにいるのは、ただの数字じゃねえ。生きてる人間だ」
「私も、それを否定しているわけではない」
ラグナの声は穏やかだった。
「ただ、優先順位の話をしている」
その冷静さが、アルドの神経を逆撫でした。
「中央の魔物は、こちらの都合など待ってはくれない。今この瞬間にも、国境では兵が死んでいる。その一方で我々は、スラムの民に椀を配るために貴重な戦力を割いている」
「神子様がそう望んでるんだよ。あの人自身の意思だ」
「神子候補は、まだお若い。理想だけでは国は守れない」
アルドは奥歯を噛みしめた。ラグナの言っていることが、まったく理解できないわけではない。戦力も物資も無限ではない。中央世界から押し寄せる魔物に対抗するためには、騎士も魔道具も必要だ。だが、それでも納得できない。
「お前の理屈は分かる。分かるけどよ……今すぐ、それを議論する必要があるのか?」
「今、話しておかなければ機を逸する。貴殿はこれまでも、なんだかんだとはぐらかしてきたではないか」
その言葉に、アルドは眉を吊り上げた。今回が初めてではない。ラグナは以前から何度も同じ話を持ちかけてきた。そのたびにアルドは適当に話を切り上げ、逃げてきた。それは事実だった。だが、今は違う。神子候補のミレイアを迎えに行かなければならない。時間がない。
「今すぐ神子様のところへ行かねえと、時間に……」
「少しでいい。貴殿の考えを聞かせてもらいたい」
ラグナは一歩も退かなかった。廊下の中央に立ち、まるでアルドの進路そのものを塞ぐようにしている。押し問答が続く。たった十数分。それだけの時間だった。だが、その十数分がアルドの足を止めた。
「もういい。退け!」
苛立ちを隠すことなく吐き捨て、アルドはラグナの脇を強引にすり抜けた。だが、遅かった。広場へ向かうには、すでに予定の時刻を過ぎている。
「……くそ」
舌打ちを残し、アルドは廊下を駆け出した。その瞬間だった。開け放たれた窓の外。広場の方角から、鋭い悲鳴が響き渡った。続いて聞こえてきたのは、無数の翼が空気を叩く轟音。そして、教会騎士たちの怒号。
「ッ!」
アルドの足が止まった。全身から血の気が引いていく。窓の外へ視線を向ける。空を埋め尽くすように、無数の黒い影が舞っていた。ウィンドバット。一匹や二匹ではない。群れ。しかも、数え切れないほどの大群だった。
「なんで、あんな数が……!」
アルドの脳裏を、ひとつの疑問がよぎる。城壁に設置された魔導具が正常に稼働しているのなら、あれほどの数のウィンドバットが侵入することなど、本来ならあり得ない。魔導防衛網に、何か異常が起きている。そう考えるのが自然だった。だが、今は原因を確かめている場合ではない。
「神子様!」
叫ぶと同時に、アルドは背中の大剣を掴んだ。廊下を蹴る。石床を踏み鳴らしながら、一気に駆け出した。窓際まで到達すると、そのまま身を躍らせる。窓枠を蹴り、外へ飛び出した。背後からラグナが何かを叫んだ気がした。だが、アルドには聞き取る余裕などなかった。今、頭にあるのはただ一つ。ミレイアのもとへ行く。それだけだった。広場までは、まだ距離がある。ほんのわずかな距離のはずだった。それなのに。その道のりが、アルドにはこれまで駆け抜けてきたどんな戦場よりも遠く感じられた。
人物:アルド・グレイヴ
ミレイア専属の聖騎士。
性格:豪快で面倒見がよい兄貴肌。スラムの子にも分け隔てなく接し、カイにも飯を勧める。
戦い方:土属性の魔法と剣術を使う重装型。大剣を背負い、ストーンアーマー、アースステップ、ロックガードで守りを固める。「守る」ことを優先する戦い方。
所属:レムスの聖騎士で、救済派。




