第五話 千年前の欠片
最初に感じたのは、背中を走る鈍い痛みだった。眠りの底から意識を無理やり引きずり上げるような、不快な疼きが身体の奥に残っている。重い瞼をこじ開ける。視界に広がったのは、見慣れない薄暗い天井だった。壁のどこかから漏れる弱々しい灯りが、埃の舞う空気をぼんやりと照らしている。古びている。それなのに、崩れてはいない。周囲を見回しても、ここがどこなのか分からない。一瞬、頭の中が真っ白になった。
〈おはようございます。怪我の具合はどうですか〉
頭の中に響いた、聞き慣れた声。その瞬間、途切れていた記憶が一気につながった。魔物。逃走。森。そして――。ここは、あの暗い室内だ。
「まだ少し痛むけど、だいぶ良くなったよ。俺、どのくらい寝てた?」
〈約六時間です。現在は夜中になります。回復薬のおかげで、怪我はかなり回復しているようです〉
身体を起こそうと肘に力を込めた。その瞬間。
「っ……!」
背中に鋭い痛みが走り、思わず顔を歪める。まだ疼きは残っている。それでも、立ち上がれないほどではない。安堵と苛立ちが入り混じった溜め息が漏れた。
「……助かったのか、俺」
〈ギリギリでした。背中の傷はかなり深かったですが、回復薬が間に合って良かったです〉
「正直、もうダメかと思ったよ」
口にしたことで、改めて自分が生きていることを実感した。助かった。その事実に、心の底から安堵している自分がいた。
〈今回のことは、申し訳ありませんでした。魔物の群れと戦うことになってしまって〉
「いや、仕方ないよ。わざと戦ったわけじゃないだろ。それに……」
俺は一度、言葉を切った。
「スラムを出る時に、ある程度覚悟は決めたからさ」
自分でも驚くほど、強い意志を感じる声だった。これまで胸の奥へ押し込めていた言葉が、自然と口から零れ落ちていく。
〈覚悟、ですか〉
「そう。覚悟だよ」
暗い天井を見上げる。
「ゼロと出会ってから考えてたんだ。このままスラムで死ぬのか。それとも、外に出て運命に逆らって死ぬのか」
どちらを選んでも、死ぬ可能性はある。それでも――。俺は、後者を選んだ。
〈そうですか。それならば、これからも全力でサポートさせていただきます〉
いつもより、僅かに力の込もった声だった。その響きに、これまでとは違う何かが芽生えたような気がした。
「ところで、ここはどこなんだ?」
身体を起こし、改めて室内を見回す。薄暗い壁。見慣れない機械。何に使うのかも分からない装置。目に入るものすべてが、今まで見てきた魔道具とは違っていた。
〈ここは、超重戦車SHT-19《ベヒモス》の内部になります〉
「ベヒモス?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返した。
〈昔の巨大兵器です。私と同じ、特殊な魔道具だと理解してもらえば問題ありません〉
「巨大兵器……」
俺は周囲を見回した。壁の向こうまで続いているような、巨大な機械の気配。これ全体が、ひとつの魔道具なのか。
「これも魔道具みたいなものなのか? こいつは喋らないのか?」
〈喋ることも可能です。扉も開けてもらいましたし、薬を使用する許可ももらいました。現在は魔道具を使用させてもらえないか、交渉しています〉
「二人で話してたのか。それで、使わせてくれるのか?」
〈難しいようです。魔道具のほとんどは、すでに持ち出されているそうです。予備もありません。残っているのは、使用者の私物である防護服くらいですが、それも私物なので許可は出せないそうです〉
「そうなのか……」
少し残念に思いながら、周囲を見渡す。
「ところで、この魔道具も古そうだけど……その私物の持ち主は、まだ生きてるのか?」
僅かに期待してしまった。だが、その期待がすぐに萎んでいくのを感じながら、俺は尋ねた。
〈この魔道具が活動していた時期は、約千年前になります。使用者は、おそらく死亡しているでしょう〉
「千年……」
その言葉を聞いた瞬間、室内が急に遠く感じられた。
「そんな前のものが、まだ普通に動いてるのか?」
千年。自分には想像すらできない時間だった。その長い年月を、この巨大な機械はただ静かに眠り続けていたのだろうか。
「待てよ」
ふと、嫌な予感が背筋を這い上がった。
「昨日飲んだ回復薬って、もしかして……」
〈千年前のものになります〉
「やっぱり!」
思わず顔が青ざめる。
〈ただ、大丈夫ですよ。千年程度では悪くなりません〉
「千年程度って、そんな簡単に言うけど、本当に大丈夫なのかよ!」
〈設計上、適切に保存されていれば期限はありません。ですので、千年どころか二千年でも問題ありません〉
ゼロは、揺らぎのない口調で淡々と答えた。どこか自信すら感じられる。
「そ、そうか……」
理屈は半分も理解できなかった。それでも、ゼロの迷いのない言い方に押し切られるように、俺は納得するしかなかった。
「まあ……そこまで言うなら、大丈夫なのか」
それから、ふと気を取り直す。
「魔道具が手に入らなかったけど、これからどうする?」
〈新しい魔道具は手に入りませんでした。ただ、棒――正式名称は光学ブレードと言いますが、充電の許可はもらいましたので、これから充電します。その間に休んでください。外はまだ暗いですし、体力も回復しきっていないでしょう〉
淡々とした口調。だが、どこか申し訳なさそうにも聞こえた。
「そうだな。その充電はどうすればいいんだ?」
魔道具が手に入らなかったことなど気にしていないように、俺はあえて明るい調子で尋ねた。
〈机の上に線があると思います。それを小さい穴に差し込んでください〉
「これを、ここに刺すのか?」
手探りで見つけた線を手に取る。言われた通り、光学ブレードの小さな穴へ慎重に差し込んだ。
〈それで問題ありません。ゆっくり休んでください〉
「分かった」
言われた通り、狭い床へ身体を横たえる。目を閉じる。だが、すぐには眠れなかった。瞼の裏に浮かんだのは、昨日の光景だった。八匹の狼型の魔物。迫ってくる牙。飛びかかってくる巨体。背中を焼いた激痛。そして、紫色の光。身体は安全な場所にある。もう魔物はいない。それでも――。心の奥では、まだ警戒が解けていなかった。俺はしばらく目を閉じたまま、暗闇の中で浅い呼吸を繰り返していた。




